第34話:眠らない薬屋の、夜
病人の数が増えれば、私ひとりの手では、とても足りない。
朝、診療所の戸を開けると、もう、順番を待つ列ができている。熱を出した子を抱いた母親。足を引きずる老人。昨日まで元気だった者が、今日は筵の上にいる。ひとりで診るには、命が、多すぎた。
その昼、街道から二頭の早馬が駆け込んできた。
鞍から滑り降りたのは、雪解けの泥を頭からかぶった、ユリウスさんとノエルさんだった。ひと冬の研修を終えて、この春、私が検品官として王都へ送り出した――はずの、二人。
「師匠。……南が、焼けています」ユリウスさんは息を整えるより先に、そう言った。「王都の市場からも、解熱の草が消えました。南の領から、買い手が列をなして。……ここも、じきに同じことになると思いました」
「局には、暇を願い出てまいりました」ユリウスさんは生硬な口ぶりのまま、深く頭を下げた。「疫病が退くまで、と。……検品の机は、待っていてくれます。人の命は、待ってくれません」
「おれも、おんなじで」ノエルさんが、泥だらけの顔で、白い歯を見せる。「先生。……帰れとは、言わねえでくだせえ」
――いなくても回るようにして、初めて、いたい場所にいられる。
雪解けの日、南へ去る馬車を見送りながら、私が閣下に返した言葉だった。それが、そっくりそのまま、二人の足で、戻ってきた。
私はふたりの肩の泥を手のひらで払った。
「……おかえりなさい。まず、手を洗って、いらっしゃい」
そこで私は、戻ってきた二人の弟子――ユリウスとノエルに、はじめて大きな役目を任せることにした。
「ユリウスさん。あなたには、記録を。誰が、いつ、どんな熱を出し、どの水を飲んでいたか。全部、書き留めてください。あなたの絵心と几帳面さが、今から街の命綱になります」
「……僕が、ですか」貴族の子であるユリウスは、いつもの生硬な口ぶりで、けれど頬を紅潮させた。「はい。師匠。必ず」
ユリウスは、さっそく街の地図を広げた。病人の出た家に、几帳面な小さな印を打っていく。どの井戸の近くで病が多いか。紙の上に、目に見えない病の足あとが、少しずつ形になっていった。
「師匠。……印が、東の井戸のまわりに寄っています」半日でユリウスはそう気づいた。「この井戸を使う筋の家に、熱が多いようです」
「よく見ましたね」私は、その几帳面な地図を心から褒めた。病は気まぐれに広がるのではない。かならず道すじがある。数えて、並べて、眺めれば――その道すじが見えてくる。「その井戸を、まず閉じましょう。あなたの一枚が、これから何十人の熱を防ぎます」
ユリウスの頬に、静かな誇りがともった。剣も魔法も持たない少年の、几帳面さという武器が、はじめて人の命に届いた瞬間だった。
「ノエルさんは、街を回って、これを配ってちょうだい」
私が渡したのは、前世の調剤ノートから起こした、一枚の刷り物だった。題して、『病を防ぐ、七つのお約束』。――水は煮て飲む。手はこまめに洗う。病人の世話をしたら、必ず手を洗う。厠のあとも。器は分ける。部屋の風を通す。具合の悪い者は、無理に働かせない。
「むずかしい言葉は、ひとつもありません。下町のおかみさんにも、子どもにも、わかる言葉で。ノエルさん、あなたの声かけの上手さが、頼りです」
「へえ、まかせてくだせえ、先生!」下町育ちのノエルは、白い歯を見せて笑った。「おれ、こういうの、得意なんで」
ノエルは井戸端で洗濯するおかみさんたちに交じり、身ぶり手ぶりで刷り物を読んでみせた。かたい説教ではなく、世間話のように。夕方には「手を洗ったかい」が、子どもらの合言葉になっていた。
薬を煎じるだけが、疫病の手当てではない。街の一人ひとりが、自分で自分を守れるようにする。それが、いちばん多くの命を救う。――前世の職場で、私が学んだことだった。
*
気づけば、窓の外が、白みはじめていた。
「師匠! また、寝てない!」
リタの声で、はっと顔を上げる。私は帳面に突っ伏したまま、いつのまにか、うとうとしていたらしい。
「だいじょうぶです。少し、目を閉じていただけ……」
「ぜんぜんだいじょうぶじゃないです! ゆうべの雑炊も、半分残してるし! それに、これ! また鍋、焦がしてるじゃないですか!」
リタが、真っ黒になった小鍋を突きつけてくる。……面目ない。薬の火加減は寸分たがえぬ私が、なぜか、煮炊きだけは、からきしなのだ。
「師匠って、ほんと、薬のこと以外、赤ちゃんですよね」
十二の子に、ぴしゃりと言われて、私は返す言葉もなかった。けれど、こうして叱ってくれる声があるのは――張りつめた日々の中で、ふしぎとあたたかい。前の世では、こんなふうに私を叱ってくれる人はいなかった。
私はリタの作りなおしてくれた雑炊を、今度はちゃんと平らげた。あたたかいものが、身体の芯に、じんわりと落ちていく。
*
昼過ぎ、診療所に、ヴァイス辺境伯が訪れた。
「検疫線のことだ」開口一番、そう言った。「街道の南に、兵を置く。南から入る荷と人を、すべてあらためさせる。貴女の敷いた線を、俺の兵で、守る」
「……よろしいのですか。領主さまの兵を、薬屋の指図で動かすなど」
「かまわん。貴女の見立ては当たる」ヴァイスは、ふいと目を逸らした。「それに……貴女ひとりに街を背負わせておけるか。対価は、後で言え。借りは、作らん主義だ」
ぶっきらぼうな、けれど、まっすぐな申し出だった。この人はいつも、こうやって私の背から、そっと重荷の半分を引き取っていく。
「では、ひとつだけ。――閣下も、どうか手を洗ってくださいまし。えらい方から手本を見せていただくのが、いちばん街に広まりますので」
ヴァイスは虚を衝かれた顔をして、それから、めずらしく、ふっと笑った。仏頂面の奥の、その一瞬の笑みを、私は、なぜだか長く覚えている気がした。
疫病との戦いは、セラフィーナひとりの戦いではなくなってきました。第二十六話で王都へ巣立っていったユリウスとノエルが、今度は自分の足で戻ってきます。「いなくても回るようにして、初めて、いたい場所にいられる」――あの雪解けの日にセラフィーナが閣下へ返した言葉を、弟子たちが、そっくり実演してみせました。ふたりとリタ。それぞれの得意を活かして、「街ぜんたいで守る」かたちが、少しずつ組み上がっていきます。
そして、いちばん強いお薬は――「手を洗うこと」。地味だけれど、誰にでもできる。この“あたりまえ”を街に配る仕事が、この先、大きく効いてきます。
家事だけは赤ちゃんなセラフィーナ先生に、今日もリタのツッコミが冴えました。張りつめた疫病編の、ひとやすみの糖分回です。
次回、第三十五話「稼ぎ時、でございます」。王都の医薬局長の思惑が、動きます。




