第32話:祈りでは、止まりません
夜が明けきらぬうちから、私は診療所の裏で、大鍋に火を入れていた。
薪がはぜ、鍋の底からこまかい泡が立ちのぼる。やがて湯が沸き、白い湯気が、まだ暗い庭にまっすぐ立った。この湯気の一本一本が、街を守る壁になる。そう思えば、寒さも眠さも遠のいた。
「師匠、また煮沸ですか。もう三回目ですよ」
目をこすりながら、リタが桶を運んでくる。まだ十二の子に、こんな刻限まで付き合わせるのは心苦しい。けれど、この子の目利きと働きは、今の私には両手より頼りになる。
「ええ、三回でも四回でも。この鍋で煮た水しか、街には入れません。桶も、布も、匙も、みんな一度、火をくぐらせます」
「めんどくさくないんですか」
「とても面倒です」私は、正直に答えた。「けれど、面倒を惜しんだ分だけ、病は広がります。お薬は嘘をつきませんけれど、油断も、嘘をつきませんので」
リタは少し口をとがらせて、それでも桶を火にかけた。文句を言いながら、手だけは決して止めない。この半年で、いちばん育ったのは、その手かもしれない。
南から来た行商人は、隔離した奥の間で、まだ熱にうなされている。煮沸した布で汗を拭い、塩と蜜を溶いた水を、匙で少しずつ。今できるのは、それだけだった。
汚れた水がうつす病――前世の記憶の奥にある、あの厄介な熱。ひとたび井戸に入れば、街ひとつを静かに呑む。だから、水を断つ。それが、剣も魔法も効かぬこの敵に、いちばん効く手当てだった。
汗を拭いてやると、行商人は、うっすらと目を開けた。
「先生……おれの、村は……」
「ここで、食い止めます」私は、できるだけ静かに言った。「あなたが運んでしまった分は、あなたのせいではありません。運ばせたのは、水です」
*
同じころ、王都の大聖堂。
高い天井から差す朝の光の下で、聖女ミレーユは、南方から運ばれた病人の前で、もう幾刻も祈りを捧げつづけていた。細い肩が上下している。額に、玉の汗。
やがて、病人の高い熱が、すうっと引いていった。荒かった息がととのい、うなされていた顔が、安らかになる。周りの司祭たちが、どよめいた。さすがは聖女さま、と。
けれど――半日と経たぬうちに、病人は、また熱を上げはじめた。今度は、前よりも高く。祈りで引いたはずの熱が、まるで押し込めた鞠が跳ね返るように戻ってくる。
「……なぜ、また」
ミレーユは青ざめた唇でつぶやいた。祈れば、熱は引く。引くのに、また戻る。何度祈っても、根がどこかに残っている。まるで、水面の波だけを撫でて、水底の石には指が届かないように。
(わたしの祈りは……この病の、なにを、治しているのでしょう)
問うてはならぬ問いが、若い聖女の胸を初めてよぎった。祈りを疑うことは、これまで一度もなかった。それが、こんなにも、こわいことだとは。
*
辺境ノルデン。私は薬棚の前で、生薬の帳面を睨んでいた。指で袋の数をなぞり、頭のなかで患者の数と引き算する。合わない。どう数えても、合わない。
「リタさん。ギンヨモギと、セリバオウレンの残りは」
「ええと……ギンヨモギが、あと二袋。オウレンは、もう、ひと握りも」
「……足りません。街ひとつぶんには、とても」
私は王都と南方から取り寄せるつもりで、いつもの薬種問屋に使いを出していた。けれど、戻ってきた返事は、どれも同じだった。――解熱の生薬は、どこも品切れ。市場から消えている。まるで、誰かが根こそぎ買い占めたように。
嫌な予感が、南風のように背筋を這った。病が来るのを見越している者がいる。病人よりも先に、薬を握った者が。病は天からの災いだ。けれど、薬が消えたのは――人の、しわざだ。
「先生」
戸口に、ヴァイス辺境伯が立っていた。仏頂面のまま、低く言う。
「王都の商人が、こぞって南下している。解熱の草を、買い漁っているそうだ。……嫌な動きだ」
「ええ。祈りでは止まらない病を、祈りではない誰かが、稼ぎ時と見ているようですわ」
私は空になりかけた薬袋を、そっと握った。指のあいだで、麻布が、かさりと乾いた音を立てる。敵は病だけではない。病を金に換えようとする人の手も――もう、動きはじめている。
「先生。買えないなら、どうするんです」
リタが不安そうに袖を引く。品切れの棚の前で、この子は私の答えを待っていた。ここで狼狽えれば、街ぜんぶが狼狽える。薬屋の顔は、街のいちばん静かな場所でなければならない。
「大丈夫。薬は、店にだけあるものではありません」
私は努めて、いつもの声で言った。買い占められたのは、市場に並ぶ、乾かして袋詰めにされた薬だけ。けれど、薬の「もと」は――まだ、この土地のそこかしこに眠っている。
(薬が、買えないのなら)
私は窓の外の、まだ雪の残る野を見た。あの草の下に、まだ眠っているものがあるはずだ。
(――作るまで、ですわね)
王都では、聖女ミレーユの祈りが「効いては、戻る」を繰り返しはじめました。魔法は症状を消すだけで、病の根は治せない――第一部からの大きなテーマが、いよいよ疫病を舞台に、その姿をあらわします。
一方、辺境では解熱の生薬が底をつきかけ、しかも市場からは薬が「消えて」いる。誰が、なんのために? 次回、その壁を、セラフィーナがどう破るのか。
次回、第三十三話「市場の雑草で、薬を作ります」。
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