第31話:ただの熱では、ございません
雪解けの水が、軒先から、ぽたり、ぽたりと滴っていた。
辺境ノルデンに春が来ようとしている。乳鉢の中で、乾かした甘草の根が、とん、とん、と乾いた音を立てて崩れていく。杵を握る手のひらに、朝の冷えが残っていた。けれど、窓から差す光は、確かに日ごとに暖かい。
「師匠、この根っこ、あとどれくらい搗けばいいですか」
傍らでリタが、額に汗を浮かべて訊く。弟子入りして半年。手つきは、ずいぶん様になってきた。
「粉が、絹のように指を滑るまで。――急がなくていいの。急いだ薬は、たいてい、どこかで嘘をつくから」
平穏だ、と思う。追放されて流れ着いたこの街で、私はようやく、そう思えるようになっていた。
けれど、春の兆しに浮き立つ辺境の朝は、一台の荷馬車の到着で、一変した。
「先生! 行商人が、店先で倒れて――!」
リタの声に、私は乳鉢を置いて表へ出た。石畳の上に、南方から来たという行商人が、汗みずくで倒れ込んでいる。荷を積んだ馬車は、御者台を空けたまま、ただ、街道の南を向いて止まっていた。
「港町は……もう、人が、歩いてねえ……」
うわ言のように繰り返す彼の額に、手を当てる。指の腹が、じっとりと湿った。高い熱。落ち窪んだ眼窩。乾いて白くなった唇。そして――ひっきりなしに続く、水のような下し。
(……脱水の進みが、速すぎますわね)
私は彼の爪を押して、色の戻る速さを見た。白く沈んだ爪は、いつまでも桜色に戻らない。手の甲の皮膚を軽くつまんで、離す。つままれた皺が、しばらく、そのまま残った。
(発熱、激しい下痢、急激な脱水。潜伏を経ての、集団発生。港町から街道沿いに北上――これは、風邪の類ではありません)
前世の記憶の奥、白い棚の並ぶ職場で幾度も向き合った「あの厄介ごと」の顔つきに、よく似ていた。汚れた水を介して、人から人へ渡っていく病。ひとたび井戸に入り込めば、街ひとつを静かに呑む。
まず、水だ。奪われた水を返してやらなければ、この人はもたない。
「リタ、湯冷ましを一リットル。塩をひとつまみと、蜂蜜を大さじ二杯」
運ばれた椀に匙を差し入れ、塩の粒が溶けきるまで、ゆっくりと混ぜる。ただの水では、身体は受けつけない。塩と糖を、ほんの少し。そうして初めて、水は腸から染み込んでいく。行商人の口元へ、匙を運ぶ。喉が、こくり、と鳴った。
「リタ。この方に触れた手で、決して口や目に触れないで。すぐ、石鹸で洗ってちょうだい。……それから、この方が使った桶も布も、煮沸します」
言いながら、私はまず自分の手を井戸端の石鹸で洗ってみせた。爪の間、指の股、手首の先まで。泡を、惜しまずに。リタが、その手つきを真剣な顔でまねた。
「え……そんなに、悪い病なんですか」
「ええ。とても」
脅かすつもりはなかった。ただ、事実だった。この病は剣を持たない。魔法も振るわない。それでいて、街ひとつを、名簿ごと、静かに消してしまう。
私は立ち上がって、街道の南――港町のある方角を見た。
(水が、運んでくる。ならば、水を、断てばいい)
「ノルデンに入る水を、今日から、すべて煮沸します。井戸には蓋を。南から来た荷は、一度、街の外で検分を。……街を、閉じます」
「先生、そんな、勝手に――!」
戸惑うリタの向こうから、蹄の音が近づいてきた。乾いた石畳を、迷いなく踏んでくる音だった。
「勝手に、やれ」
馬上から降り立ったのは、ヴァイス辺境伯だった。相変わらずの仏頂面で、しかしその目は、まっすぐに私を見ている。
「貴女が『閉じる』と言うなら、閉じる価値がある。領主権限で裏づけてやる。……対価は、後で言え」
こんな時にまで、この人は。張りつめていたものが、ほんの少しゆるむ。私は思わず、口の端に力を抜いた。
「では、ひとつ。――どうか、生きて、この街を守り抜くのを手伝ってくださいまし」
*
同じころ、王都。
王宮医薬局長バルテルミー・クローヴ卿の執務室に、南方からの早馬が報せを運んでいた。港町の熱病、街道の封鎖、そして――解熱と補水に用いる生薬の暴騰。
卿は報告書を最後まで読むと、それを机に置き、白髭の奥で満足げに笑った。窓の外には、王都の春が、何ごともなく咲いている。
「疫病は、薬屋の稼ぎ時よ。南方産の原料は、今のうちに、すべて買い占めておけ。惜しむな。高く売れる」
同じ日、王宮の奥では、王太子アロイスが、また胸を押さえてうずくまっていた。聖女ミレーユの祈りが、その痛みを、そっと拭う。――拭っただけで、また、じきに戻ってくる痛みを。
誰も、痛みの「元」を見ようとはしなかった。
*
薬棚の前で、私は在庫の生薬を指で数えた。解熱の草、整腸の根、補水の塩。ひとつ、ふたつ、と数えるたびに、心の帳面の数字が減っていく。
(足りない。この量では、街ひとつは、とても支えきれません)
窓の外、春の陽は明るい。けれど、南から吹く風には、微かに嫌な匂いが混じっていた。土と、水と、病の匂い。
(――さあ。今度の患者は、街そのものですわ)
――南から、悪い熱が来る。第二部・疫病編、開幕です。
第一部にお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございます。おかげさまで、セラフィーナの物語は、第二部へと続くことができました。
さて、辺境ノルデンに迫るのは、水を介して広がる恐ろしい熱病。剣も魔法も、この敵には通じません。効くのはただひとつ――正しい知識と、地道な手当てだけ。「今度の患者は、街そのもの」。セラフィーナの、いちばん大きなお仕事が始まります。
そして王都では、さっそくバルテルミー卿が、疫病を「稼ぎ時」と嗤って原料を買い占め。聖女さまの祈りは、王太子殿下の痛みを、また今日も「拭う」だけ……。この対比が、この先どう効いてくるか、どうぞお楽しみに。
次回、第三十二話「祈りでは、止まりません」。
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