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婚約破棄された悪役令嬢は、辺境で薬屋をはじめます 〜王宮の薬はすべて私が支えていましたが、納品停止いたしますね。お大事になさってください〜  作者: 白崎リラ


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第30話:雪解けの報せ

雪解けは、音から始まる。


軒の雫の音。川の氷の割れる音。北街道を踏む、馬と荷車の音。


ノルデンに、春が来た。


「師匠! 保護条約の発効布告、ギルドに届いたよ! あと王都から手紙が三通、納品の依頼が二件と――あっ、こら、ミオ! 診察の順番はまだ!」


「まじょのみつー!」


店は、朝から春の混雑だった。


条約は発効し、山番の体制も整った。検品箱は今日も働き、魔女の蜜は相変わらずの人気で、リタさんの往診先は五軒に増えた。


根治治療は四回目を終え、閣下の左手は、もう日常では誰も麻痺に気づかないほどになっている。毒の検品調書は第二次まで進み、王都の監査の線と、どこかで交わる日を待っている。


養蜂場の花は、あと半月ほどで咲くらしい。


――すべてが、いい方へ向かっていた。


だからこの春を、私はたぶん、一生忘れない。



その人が店の前で倒れたのは、昼下がりのことだった。


「先生! 行き倒れだ! 南から来た行商人らしい!」


ゴルドさんが担ぎ込んできたのは、四十がらみの男だった。荷を見るに、南方の港町と王都を結ぶ、反物の行商人。


熱が、高い。


「リタさん、寝台の支度を。皆さん、申し訳ありませんが本日の診察はここまで。順番にお帰りください」


診る。


熱は高いのに、汗をかいていない。喉の奥に、見慣れない赤い斑点。脈は速く、浅い。腋の下に、ぐりぐりとした腫れ。


(……これは)


頭の中で、症状の照合が走る。流感ではない。喉の腫れ方が違う。発疹熱でもない。斑点の出る場所が違う。


この世界の医学書にある、どの病とも一致しない。


けれど――前世の知識の棚の、奥の奥が、ざわりと鳴った。


高熱。無汗。首と腋の付け根の腫れ。喉の斑点。人から人へ移る型の、悪性の熱病。前の世界で、歴史の教科書と、感染症学の講義の中でだけ知っていた種類の。


棚の奥のそれに、私は鍵をかけていた。二度と開けるまいと思っていた抽斗だ。


「……みず……」


行商人が、うわごとを言った。


「みなと、まちが……みんな、ねつで……ふねが、とまって……」


「もし。聞こえますか。あなたは、どこから?」


「サザンクロス……みなみの、みなと……にげてきた……みんな、たおれて、いしゃも、たおれて……」


南の港町、サザンクロス。


第十八話の冬至の夜、噂の端切れだけが北まで届いた、あの町だ。


「リタさん」


私は、手を洗いながら、できるだけ静かな声で言った。


「布で口元を覆って。患者さんに触れたら、必ず手を洗う。灰汁の石鹸で、二回。……それから、ゴルドさんを呼び戻して。今すぐ領主館へ走ってもらいます」


「し、師匠……? その病気、なに……?」


弟子の顔が、不安に揺れた。


嘘は、つけなかった。つかないと、決めている。


「分かりません。私の知らない病です。――ですが、知っている形に、よく似ています。人から人へ移って、町をひとつ、眠らせる種類の熱病に」



夕刻、領主館の軍議の間に、私は立っていた。


閣下、軍医どの、グレタ婆、街の代表たち。集められた顔ぶれが、事の重さを物語っていた。


「――以上が、患者の容態と、南の港の状況です。確かなことは、まだ何も分かりません。患者一人で、断定はできない。流感のたちの悪いものかもしれない。……ですが」


私は、地図の上の南の港町を指した。


「もし、これが私の恐れている種類の病なら。打てる手は、今日から数日の間に全部打つ必要があります。病より速く動けるのは、最初の数日だけですので」


「具体的には」


閣下の声は、戦場のそれだった。


「三つ。第一に、検疫。南街道の関で、旅人の熱を検めます。第二に、隔離。街の外の、冬の救護天幕を転用します。第三に――」


私は、ひと呼吸おいた。


「情報です。サザンクロスで、本当は何が起きているのか。誰かが、確かめに行かねばなりません」


軍議の間が、静まり返った。


「……行くのは、貴女ではないぞ、先生」


閣下が、低く釘を刺した。


「分かっています。私はここを動きません。ここが、私の持ち場ですので。……ですが、行く方に、私の目を持たせます。何を見て、何を数えて、何に触れずに帰るか。今夜中に、手順書にします」


「いいだろう。偵察は影働きの仕事だ。最速の者を出す」


閣下は、即座に三つの手配を裁可した。それから、地図の上の王都へ、ゆっくりと視線を移した。


「……先生。ひとつ、嫌な符合に気づいたか」


「ええ」


気づいていた。気づきたく、なかったけれど。


「王都の、解熱剤の買い占め。……あの白髭は、南の熱病を、冬のうちから知っていた」


知っていて、黙って、薬草を買い溜めていた。


疫病は、薬屋の祭りだ――どこかで誰かが、そう嗤った気がした。



夜更け。店に戻ると、行商人の熱は、わずかに下がっていた。リタさんが、布で口元を覆ったまま、寝ずの番をしていた。


「師匠。この人、助かる?」


「助けます。一人目ですので。……一人目の経過が、百人目を救う教科書になります」


私は、新しい帳面を開いた。表紙に、こう書く。


『南方熱・診療記録 その一』


ペンを置いて、窓の外を見た。


雪解けの街道が、月明かりに濡れて光っている。南へ続く、長い長い道。


この道を、春と一緒に、あれが歩いてくる。


養蜂場の花は、もう咲かないかもしれない。春に交わした約束は、たぶん、しばらく待たせることになる。


それでも――。


私は、調剤ノートを引き寄せ、その隣に新しい帳面を並べた。家事のメモだけ字が汚い、前の世の落書き帳。いつか街を救う日のために書き溜めた、まだ誰にも見せたことのない頁が、奥に眠っている。


棚の奥の、鍵をかけた抽斗を、私は自分の手で開けた。


(……いらっしゃい)


南から来るものへ、私は、帳面ごしに告げる。


(あいにくこの街の薬屋は、検品にうるさいですよ)


――第一部「辺境開業編」・完――


第一部「辺境開業編」、これにて完結です。お読みいただき、本当にありがとうございました。婚約破棄から始まった辺境の春は、最後に一通の凶報を連れてきました。南から、悪い熱が来る。――けれどこの街には、検品にうるさい薬屋がいます。春の養蜂場の約束も、必ず果たさせます。第二部「疫病編」、近日開幕。ブックマークと評価で、どうか街の備蓄にご協力ください。


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