第3話:辺境伯さまの、五年分の痛み
夜の領主館は、城というより砦だった。
飾り気のない石壁。磨き抜かれた武具。すれ違う使用人の顔には、一様に同じ色があった。心配、というやつだ。
通された執務室で、その人は机に向かっていた。
ヴァイス・シュトラール辺境伯。二十七歳にして北の国境を一手に守る軍人領主だと、噂は王都でも聞いていた。山のような体躯に、冬空の色の瞳。
その瞳が私を一瞥して、すっと冷えた。
「……女? しかも王都の人間か。帰れ」
取りつく島もない。
「閣下、今夜はもう三度目の発作です! 眠ることもできず……!」
従者の青年が悲鳴のような声を上げる。
「黙れ。仕事の邪魔だ。下がれ」
辺境伯は書類に視線を戻した。その所作を、私は黙って観察する。
(左手を、まったく使っていない)
書類を押さえるのも、頁をめくるのも右手だけ。左腕は袖の中で、不自然なほど静かに垂れている。額には脂汗。燭台の下、唇の色がわずかに紫がかって見える。机の端には、手をつけていない夕食の盆。観察。所見。結論。前世から変わらない、私の手順だ。
「閣下。三つだけ、お伺いします」
「帰れと言った」
「痛みが強くなるのは夜。それも、冷えた日の夜半すぎ。違いますか」
書類をめくる手が、止まった。
「痛むのは左腕から肩、ひどい時は胸まで。脈が乱れて食欲が落ちる。指先の感覚は年々鈍くなっている。――五年前から、ずっと」
「…………誰に聞いた」
「誰にも。拝見すれば分かります」
冬色の瞳が、初めてまっすぐ私を見た。
「もうひとつ当てましょうか。痛み止めはもう効かない。効かないのに量ばかり増えるのが恐ろしくて、半年前からご自分の判断で、すべて捨てていらっしゃる」
沈黙。従者が「閣下、薬を捨てて……!?」と卒倒しかけているから、当たりらしい。
「……五年前、戦場で毒を受けた」
低い声で、辺境伯は言った。
「矢傷そのものは浅い。だが鏃に毒が塗ってあった。軍医は山賊の毒矢だろうと言った。一命は取り留めたが――以来、この体は俺のものじゃない」
返事の代わりに、彼は左の袖をまくった。
前腕に古い矢傷の痕。その周囲に、薄く、蜘蛛の巣のような灰青色の変色が広がっていた。
脈を取る。瞳孔を見る。爪の色、舌の色、変色の広がり方。頭の中で、前世の知識とこの世界の毒物学が、一枚ずつ照合されていく。トリカブト系ではない。痺れの出方が違う。鉱毒でもない。ならば。
「閣下。これは、山賊の毒矢ではありません」
「なに?」
「自然の毒なら、五年も体に残りません。残るように作られているんです。複数の毒を混ぜ、ゆっくり神経を蝕むよう調整されている。――これは、精製された毒です」
部屋の空気が、変わった。
辺境伯の瞳の奥で、何かが軍人の鋭さで光る。私はそれ以上踏み込まなかった。誰が、なぜ。それを調べるのは薬師の仕事ではない。
私の仕事は、ひとつだけだ。
「正直に申し上げます。完治には年単位かかります。体に染みついた毒を、少しずつ抜いていくしかありませんので」
「……だろうな。十六人目も同じことを言う」
「ですが」
私は鞄を開けた。
「今夜の痛みは、今、消せます」
*
執務室の暖炉を借りて、その場で調合した。
ギンヨモギの葉を乳鉢で潰す。ごり、ごり、と規則正しい音。リタさんから買った、あの上物だ。香りの立ち方が違う。解毒を促す蜂蜜と生姜。神経の痛みを和らげる白柳の皮。煎じ液を湯煎にかけ、匙でひとすくい、香りを確かめながら、少しずつ合わせていく。とん、とん、と匙が鉢の縁を叩く音だけが、静かな執務室に響く。
計量は正確に。手順は丁寧に。急いては、薬は嘘をつく。
軍人領主も、従者も、いつのまにか口をつぐんで、私の手元を見つめていた。
お薬は、嘘をつきません。正しく作れば正しく効き、間違えれば正しく毒になる。だから私は、この音が好きだ。
「……変わった女だ。薬を作る顔だけは、戦場の古参兵に似ている」
「褒め言葉として頂戴します。――はい、どうぞ。温かいうちに」
辺境伯は湯気の立つ薬杯を一瞥し、毒見もさせず、一息に呷った。豪胆なのか、捨て鉢なのか。
一分。二分。
時計の針の音だけが響く執務室で――ふ、と、彼の肩から力が抜けた。
「………………は?」
辺境伯は自分の左腕を見下ろした。おそるおそる、左の拳を握る。開く。もう一度、握る。
「痛みが……引いて、いる……?」
「消えたのは表面の痛みだけです。毒はまだ体の中に。ですから今夜のは応急処置。……それでも、痛みのない夜は、五年ぶりではありませんか」
返事はなかった。
ただ、山のような軍人が、自分の左手を握ったまま、置物のように固まっていた。やがて彼は、酷く不器用に口を開いた。
「……すまん。その、なんだ。…………温かいな、この薬は」
それが彼なりの最大級の感謝なのだと、部屋の隅で従者が滂沱の涙を流しているのを見て、理解した。
「対価は言え」
我に返った辺境伯が、咳払いをして言った。
「借りは作らん主義だ。金か、家か、後ろ盾か」
「では、二つ。薬屋の開業許可を一枚」
「許可する。もう一つは」
「閣下に、当店のお得意さま第一号になっていただきたく。完治まで年単位と申し上げました。週に三度、通っていただきます」
辺境伯は虚を衝かれた顔をして、それから、ふんと鼻を鳴らした。
「……商売上手め」
帰り際、玄関まで自ら見送りに立った彼は、夜空を見上げて、独り言のように言った。
「五年探して、見つからなかった。それが市場通りの薬屋とはな。――貴女を手放した王都は、正気か?」
さあ。正気かどうかは、存じませんけれど。
*
――同じ夜。王都。
「っ、ぐ……」
アロイス王太子は、寝室で胸を押さえてうずくまっていた。肋骨の裏を、氷の手で掴まれるような感覚。最近、多い。疲れだろうか。
「ミレーユ……すまない、例の祈りを頼む」
「は、はい、殿下」
聖女の手から温かな光が流れ込む。痛みが、すうっと溶けて消えていく。
「ああ……君の力は本物だ。王宮医のどんな薬よりよく効く」
殿下は安らかな寝息を立て始めた。光に照らされたミレーユは、ほっと胸を撫で下ろす。
――痛みは、消えた。
消えた、だけだった。
原因は、まだそこにある。次に氷の手が伸びてくるのは、いつか。それを止められる薬を毎週調合していた者は、もう、王都にはいない。
二人とも、知らなかった。
辺境伯さまの五年分の痛みは、一晩で消えました。そして王都の小瓶は、もう届きません。次回、開店初日――お客は、なんとゼロです。ブックマーク・評価をいただけると、辺境の冬支度がはかどります。




