第2話:辺境ノルデン、薬師さまのお買い物
王都から馬車を乗り継いで、十二日。
「お嬢さん、着いたよ。ノルデンだ」
御者の声に顔を上げれば、灰色の山並みを背にした、石造りの街が見えた。
北方辺境ノルデン。国境を守る辺境伯領の中心街。王都の貴族たちが「流刑地のほうがまだ栄えている」と笑う土地。
馬車を降りると、九月だというのに、空気が冬の匂いがした。
(……いい街)
息を吸い込む。薬師の鼻は誤魔化せない。風の中に、乾いた薬草の香りが混ざっている。この街の市場には、いいものが集まっている証拠だ。
私がこの土地を選んだ理由は、それだった。
ノルデンの山々は大陸有数の薬草の宝庫。なのに、薬師の数がまるで足りていない――八年間、王宮に届く納品書を検品し続けた私は、産地の名前だけは誰よりも知っていた。
*
ここで少しだけ、私の秘密の話をしよう。
私には、前の世の記憶がある。
思い出したのは十六歳の冬、高熱で生死の境をさまよった夜のことだ。熱に浮かされた頭の中に、知らないはずの人生がまるごと流れ込んできた。
白い棚。整然と並ぶ薬瓶。処方箋の山と、検薬の日々。
前の私は、薬剤師だった。大きな病院で、薬のすべてを管理する仕事をしていた。
毎日、忙しくて。患者さんのためにと働いて、働いて――最後がどうなったのかは、よく思い出せない。記憶の終わりは、白く霞んでいる。
ただ、ひとつだけ覚えていることがある。
いつか自分の店を持ちたいと、ずっと思っていたこと。患者さん一人ひとりの顔が見える、小さな薬局を。
前の世では、叶わなかった夢だ。
旅行鞄の底には、手製のノートが一冊入っている。前世の知識を、思い出せる限り書き起こしたもの。調合の手順、生薬の知識、衛生の心得。四年かけて書き溜めた、私の全財産だ。
(……ちなみに最後の頁は、お料理の手順メモですけれど)
なお、料理の頁だけ三回書き直して三回失敗している。薬は計量どおりに作れるのに、なぜ料理はああなるのか。世界の七不思議である。
*
街道から街門へ向かう道すがら、奇妙なものを見た。
街道沿いの丘に、一本の巨木が立っていた。大人が十人で囲んでも届かないような幹回り。けれど――九月だというのに、枝には葉が、ほとんど残っていなかった。
灰色の骨のような枝が、空を掻いている。
(……枯れて、いる?)
なんの木だろう。少し気になったが、荷馬車の列に追い立てられて、それきりになった。
*
「売り物件? あるよ。あるけど、お嬢さんが住むようなとこじゃないねえ」
街の口入れ屋で紹介されたのは、市場通りの外れに建つ、二階建ての古い石造りの家だった。
元は診療所だったという。先生が亡くなって五年、借り手がつかず埃をかぶっている。
扉を開けると、蝶番が悲鳴を上げた。床は軋み、窓は曇り、奥の棚には乾ききった蜘蛛の巣。
けれど。
診察室だった広い土間。作り付けの、天井まである薬棚。裏手には小さいけれど日当たりのいい薬草園の跡。二階には住居。
「――買います。即金で」
「……は? いや、お嬢さん、値切りもしないのかい」
値切る理由がない。これは掘り出し物だ。前世の言葉で言うなら、居抜き物件である。
支払いは、婚約破棄の「手切れ金」と、八年間の妃教育で貯めた給金で事足りた。グランヴェル公爵家は私が罪人同然で家を出ることに何も言わなかったから、この財布の中身が、今の私のすべてだ。
身軽でよろしい。
*
午後は市場で買い出しをした。鍋、寝具、それから商売道具の薬草を。
薬草売りの露店は三軒。そのうち一軒の前で、私は足を止めた。
店番は、赤毛のおさげの少女だった。十二、三歳だろうか。継ぎの当たった服で、所在なげに膝を抱えている。
並んだ薬草の束は、正直、上等とは言いがたい。けれど。
「……これ」
束の中に、一本だけ。葉の裏が銀色に光る、見事なギンヨモギが混ざっていた。乾燥の加減も完璧だ。
「お嬢さん、これ、どこで採ったの」
「っ、勝手に触んないでよ! ……それは、あたしが採ったの。ばあちゃんの分とは別」
「いくら?」
少女は私の旅装を上から下まで眺め、警戒心を隠しもせずに言った。
「銅貨……五枚」
「安すぎます。銀貨一枚で買いましょう。それと」
私はしゃがんで、少女と目の高さを合わせた。
「この束から、いいものだけを選り分けられる? 今、ここで」
少女はむっとした顔をして――それでも手は、迷いなく動いた。十数本の束から、使える葉だけがみるみる選り分けられていく。
目がいい。手が早い。なにより、薬草を扱う指が丁寧だ。
「お名前は?」
「……リタ」
「リタさん。私はセラフィーナ。あちらの元診療所で、薬屋を開きます。――うちで働きませんか。お給金は弾みます」
リタは、ぽかんと口を開けた。
*
夕方、リタの保護者だという老婆が店に怒鳴り込んできて、そして一時間後には炉端で茶を飲んでいた。
グレタ婆。元・ノルデン薬師ギルドの長で、リタの祖母代わりだという。
「王都から来た薬師ねえ。……ま、孫の目利きを見抜いたんなら、腕は本物なんだろうさ」
帰り際、グレタ婆は戸口でふと振り返り、独り言のように言った。
「あんた、王都じゃ聖女さまの魔法が大流行りなんだってね。――魔法で消えるのは痛みだけさ。病は、薬で治すもんだ。それを忘れない薬師なら、この街は歓迎するよ」
その言葉の本当の意味を、私が思い知るのは、もう少し先の話になる。
*
夜。埃を払った店の土間で、開店準備の品書きを書いていたときだった。
扉が、激しく叩かれた。
「夜分にすまない! 王都から来た薬師どのは、こちらか……!」
息を切らした若い男が立っていた。身なりは従者のもの、けれど胸元には辺境伯家の紋章。
「領主さまが――どうか、領主さまを、診てほしい」
新生活、はじまりました。次回、無愛想な領主さまが登場します。ブックマークと評価で、セラフィーナの開店資金を応援していただけると嬉しいです。




