第1話:婚約破棄、承りました。納品も停止いたしますね
「――よって、セラフィーナ・グランヴェル! 貴様との婚約を、破棄する!」
王太子アロイス殿下の声が、夜会の広間に朗々と響き渡った。
音楽が止まる。グラスを持つ手が止まる。数百の視線が、広間の中央に立つ私へと突き刺さった。
(解熱剤が四十、鎮痛剤が二十五……咳止めは、ええ、十二壺で足りるはずですわ)
私はといえば、今週、王宮医薬局へ納める薬品のリストを頭の中でめくっていた。
だって、殿下のお話が長いのだもの。
「聞いているのか、セラフィーナ!」
「はい、殿下。一言一句」
聞いてはいた。要約すれば、こうだ。
私が、聖女ミレーユ様を階段から突き落とそうとした。ドレスを切り裂いた。社交界で根も葉もない悪評を流した。よって私は悪辣な女であり、王太子妃に相応しくない――。
証人は「見たという者がいる」。証拠は「皆が知っている」。
(証言も物証もなし。カルテで言えば、所見の欄が白紙ですわね)
ちらりと、殿下の隣に視線を向ける。
聖女ミレーユ様。銀の髪の、まだ十七歳の少女。彼女は青ざめた顔で、おろおろと殿下と私を見比べていた。
「あ、あの、殿下、わたし、突き落とされてなんて……」
「ミレーユ、君は優しすぎる。庇う必要はない」
(……ああ。この方も、巻き込まれた側ですのね)
そしてもうひとり。殿下の斜め後ろ。
王宮医薬局長、バルテルミー・クローヴ卿。豊かな白髭の下で、口元だけが満足げに緩んでいるのを、私は見逃さなかった。
なるほど。絵を描いたのは、あなたですか。
「申し開きがあるなら言ってみろ!」
殿下が声を張り上げる。広間がしんと静まり返った。
皆、期待しているのだ。公爵令嬢が泣き崩れるか、喚き散らすか、その見世物を。
私は、ドレスの裾をつまみ、完璧な淑女の礼をした。
「ございません。婚約破棄、承りました」
「……は?」
「八年間、お世話になりました。公爵家令嬢として、殿下の婚約者としての務めも、これで終わりということですわね」
殿下が、ぽかんと口を開けた。台本と違う、という顔だった。
抗弁すれば「悪あがき」と書かれ、泣けば「演技」と笑われる。この場はそういう舞台だ。であれば、私のすべきことはひとつ。
速やかな、業務の引き継ぎである。
――いえ。引き継ぎは、できないのですけれど。
私は踵を返した。ざわめきが波のように広がる。罪を認めたぞ、いやあの態度はなんだ、さすが悪役令嬢は格が違う――好きに言うがいい。
広間の出口、その一歩手前で。
私は、足を止めた。
「申し遅れました」
振り返る。事務的な、我ながら完璧な営業用の微笑みで。
「王宮医薬局への薬品の納品、ならびに全納入薬の品質管理。わたくしが八年間、無償で承っておりましたこれらの業務は――すべて、本日付で停止いたします」
広間の貴族たちは、顔を見合わせた。
なにを言っているんだ、この女は。薬? 納品? そんな小間使いのような話が、今この劇的な断罪の場と、何の関係がある?
誰も、理解していなかった。
王宮で使われる薬の、どの棚の、どの瓶の中身を、誰が検品していたのか。
殿下が三日と空けず飲んでいる「よく効く栄養剤」を、誰が毎週調合していたのか。
ただひとり、バルテルミー卿の白髭だけが、ぴくりと揺れた。
けれど彼もまた、笑みを消さなかった。あの小娘の薬程度、いくらでも替えが利く――その顔は、そう言っていた。
ええ、ええ。どうぞ、そうお考えになっていてくださいな。
「それでは皆さま、ご機嫌よう」
私はもう一度だけ礼をして、今度こそ広間に背を向けた。
「――お大事に、なさってください」
最後のひとことが誰に向けたものだったのか、気づいた者は、その場に一人もいなかった。
*
広間を出て、長い回廊を半分ほど行ったところで、柱の陰から小さな声がした。
「……グランヴェル様」
王宮の侍女が三人、人目を忍ぶように立っていた。顔は皆、知っている。一人は去年、火傷を負った厨房係。一人は、ひどい頭痛持ちの洗濯係。最後の一人は、夜泣きする赤子を抱えた、住み込みの若い母親。
「あの、あたしたち、聞いてしまって。その……ほんとうに、お辞めになるんですか。お薬の窓口を」
王宮の使用人は、医薬局の正規の薬など買えない。だから私は、規格には合うが貴族が見た目で嫌う「はね品」を、こっそり彼女たちに回していた。八年間の、帳簿に載らない仕事のひとつだ。
「ええ。今夜限りで」
「そん、な……。あの、せめて、頭痛のお薬の作り方だけでも」
「ですから――これを」
私は、旅行鞄から綴りをひとつ取り出した。今夜のうちに渡すつもりで、書き溜めておいたものだ。
「使用人向けの常備薬、十二種の処方と作り方です。材料はすべて市場で買える草ばかり。字の読める方が、読めない方に教えてあげてください」
三人は、綴りを宝物のように抱えて、何度も頭を下げた。
「お元気で、グランヴェル様。……あたしたち、忘れません。夜会の皆さまが何とおっしゃっても、あたしたちだけは」
――王宮で私の薬を本当に飲んでいたのは、シャンデリアの下の人々ではなく、その灯りを磨く人たちだった。
最後の患者さんへの引き継ぎ、完了。これで本当に、心残りはない。
夜の回廊は静かだった。
八年。十二歳でアロイス殿下の婚約者となってから、私はこの王宮で「務め」を果たし続けた。
妃教育。社交。そして――誰に頼まれたわけでもなく始めて、いつの間にか王宮の薬棚すべてを支えることになった、薬の仕事を。
不思議と、悲しくはなかった。
むしろ、足取りは軽い。靴音が、回廊にこつこつと弾む。
(だって、これでようやく)
私には、前の世の記憶がある。白い棚に薬瓶の並ぶ、あの懐かしい職場の記憶が。
その話は、また今度。
今夜は荷造りをしなくては。行き先はもう決めてある。薬草の質が大陸一いいのに、薬師が足りていない土地。
北方辺境、ノルデン。
(今度こそ――私の薬局を、開きましょう)
夜空の下、私は生まれて初めて、誰のためでもない明日の予定を立てた。
婚約破棄から始まる、辺境お薬スローライフです。主人公は泣きません。王都はそのうち後悔します。続きが気になりましたら、ブックマークと下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、執筆の何よりのお薬になります。




