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婚約破棄された悪役令嬢は、辺境で薬屋をはじめます 〜王宮の薬はすべて私が支えていましたが、納品停止いたしますね。お大事になさってください〜  作者: 白崎リラ


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第28話:はじめてのお使い

「やだ。ぜったいやだ。あたしには無理」


リタさんが往診鞄を抱えたまま、長椅子の下に立てこもった。


ミオちゃんと同じ逃げ方である。血の繋がりはないはずなのに、なぜこの店では揃って椅子の下へ潜るのだろう。


事の起こりは、今朝の依頼だった。


山向こうの炭焼きの集落から、使いが来た。「婆さまの膝が腫れて立てない。ぬかるむ前に診てほしい」と。


よくある往診だ。問題は、今日に限って私の体がふさがっていることだった。閣下の根治治療、三回目。これは動かせない。


「ですので、リタさん。あなたが行くんです」


「む、無理だよ! 往診なんて、師匠の鞄持ちでしかやったことないもん!」


「膝の腫れは、マーサさんで十回診ましたね。湿布も、貼り方も、できます。私が見てきました」


「で、でも、もし膝じゃなかったら? もっと悪い病気だったら?」


――いい問いだった。怖がるべきことを、正しく怖がっている。


私は長椅子の前にしゃがんで、弟子の目を見た。


「リタさん。往診で一番大事な技術を教えます。これが今日の本題です」


「……ほんだい?」


「自分の手に余ると分かったら、手を出さずに、引き返してくること」


長椅子の下から、リタさんの顔が半分だけ出てきた。


「……手に余ったら、帰ってきていいの?」


「いいんです。それは失敗ではなく、正しい判断という名前の成功ですので。私も前の世……ずっと前に、何度も言いました。『これは私の手に余ります、応援を』と。言えない人のほうが、患者さんを危険にします」


リタさんは、ゆっくりと這い出して、往診鞄をぎゅっと抱えた。


「……行ってくる。手に余ったら、ちゃんと逃げて帰ってくる」


「はい。いってらっしゃい、薬師どの」


護衛にはゴルドさんの組の若衆が二人、ついてくれた。雪道の往復は、大人の足で半日だ。



その日の治療は、つつがなく進んだ。


熱の波に慣れた閣下は、枕元の私に「で、弟子の初陣はどうなった」と訊く余裕すらある。


「夕方には戻ります。……そわそわして見えますか、私」


「ああ。さっきから茶が三杯目だ」


「……治療中の患者さんに指摘されるとは、不覚です」


「ふ。部下を初陣に出す朝なら、何度も知っている。何杯飲んでも、足りんものだ」


夕刻、領主館を辞して店に戻ると――帳場に、泥だらけの往診鞄が置いてあった。


「リタさん!?」


「おかえり、師匠」


奥から出てきた弟子は、疲れた顔で、けれど、まっすぐに立っていた。


「報告します。炭焼きのトキ婆さま、膝の腫れ。熱はなし、赤みは内側、痛むのは皿の下。教わったとおりの、水の溜まる腫れ。湿布を処方して、貼り方を娘さんに教えて、五日後にまた診る約束をしてきました」


「……完璧です」


「それでね、師匠。もうひとつ」


リタさんの顔が、きゅっと引き締まった。


「隣の小屋のおじさんに『ついでに診てくれ』って言われたの。咳が続いてて、痰に、ちょっとだけ血が混じるって。――断ってきた」


「咳に血は、師匠でも器具と日数をかけて診るやつだって。あたしの手に余るって。だから『五日後に師匠を連れてくる、それまでこれだけ守って』って、安静と、咳止めの飴だけ置いてきた。……これで、よかった?」


私は、弟子の頭を、両手でくしゃくしゃに撫でた。


「……上出来です。診立てと、処方と、それから一番難しい『引き返す判断』を、今日のあなたは全部やりました。満点を超えています」


「えへへ……。あ、あとね、トキ婆さま、お代のかわりにって炭と干し茸をくれた。『薬師さまに手ぶらで帰られたら、山の恥だ』って」


薬師さま、と。この子は今日、山の人たちにそう呼ばれたのだ。


「では、その干し茸は今夜の鍋ですね。初診療のお祝いです」


「やった! あ、でも鍋はあたしが作るからね。師匠は座ってて。絶対に座ってて」


……はい。



五日後、約束どおり、私はリタさんと山向こうへ往診に行った。


トキ婆さまの膝は、湿布が効いて腫れが引き始めていた。「あの赤毛の薬師さまはいい目をしとる」と、婆さまはリタさんの手を握った。


咳のおじさんは、長年の炭の粉塵で気管が傷んでいた。血痰は咳のしすぎによる喉の切れで、恐れていた病ではなかった。それでも、リタさんの判断は正しかったと、帰り道でもう一度はっきり伝えた。


「手に余ると思ったものが、診たら軽かった。これは『損』ですか?」


「ううん。逆だったら、死んじゃうもの」


「ええ。逆だったら、です。それが分かっていれば、あなたはもう、一人で山を越えられます」


春の近い山道で、リタさんが、不意に足を止めた。


「ねえ、師匠。山のおじさん、最後にこう言ったの。『去年、南の港から来た反物売りが、ひどい熱で寝込んでったんだ』って。……関係ない、よね?」


私は、答えなかった。答える材料が、まだ何ひとつなかったから。


ただ、雪解け間近の風が、いつもより南の匂いを運んでくる気がした。


リタさんは、それきり忘れたように、往診鞄を抱え直して歩き出す。


その背中が、ひと冬で、ずいぶん大きくなった気がした。

弟子その一、初往診にして「引き返す勇気」まで習得です。けれど山の人が漏らした一言は、まだ誰の鞄にも仕舞われません。次回、いよいよ雪祭りの夜。……ええ、あの二人の話です。ブックマークと評価は、干し茸と同じくらいありがたく頂戴します。


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