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婚約破棄された悪役令嬢は、辺境で薬屋をはじめます 〜王宮の薬はすべて私が支えていましたが、納品停止いたしますね。お大事になさってください〜  作者: 白崎リラ


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22/24

第22話:グレタ婆の三十年

その日は、朝から吹雪で店を閉めた。


代わりに私は、リタさんと連れ立って、グレタ婆の家に薬を届けに行った。膝の痛み止めと、目の霞みの洗眼水。老薬師の冬は、あちこちが軋む。


「おや、吹雪の中をわざわざ。……ちょうどいい、茶でも飲んでお行き。リタ、戸棚の木の実の砂糖漬けをお出し」


炉端で茶を啜りながら、話は自然と、山のことになった。


春に発効する保護条約のこと。ギルドで決める年間上限のこと。そして――。


「……婆さま。ひとつ、伺いたかったことがあります」


私は、ずっと胸にあった問いを出した。


「三十年前にも、王都が山の薬草を買い荒らした時期があったと、台帳にありました。出荷が跳ね上がって、五年ほどで急に落ち着いている。……あのとき、何があったんですか」


グレタ婆の、茶碗を持つ手が止まった。


「……あんた、台帳のそんな奥まで読んだのかい」


「検品の癖が抜けませんので」


老婆は、ふ、と笑って、それから炉の火に目を落とした。


「――三十年前。あたしがまだ、ギルドの若手だった頃さ」



「王都で流行り病があってね。薬草の値が、一夜で三倍になった。そこへ目をつけた連中が、北へ来たのさ。札束で頬を叩くような買い付けだった」


「山のもんは、最初は喜んだよ。薬草が銀貨になるんだ。猫も杓子も山へ入った。……決まりごとなんて、誰も守りゃしない。根こそぎさ。来年の芽も、親株も、何もかも」


「三年で、山は変わった。いつもの沢にいつもの草がない。五年目には、ギンヨモギの群生が、半分消えた」


「あたしの師匠がね――当時のギルド長が、王都に直訴に行ったんだ。『このままでは山が死ぬ。買い付けに上限を』と。……結果は、門前払い。それどころか、帰り道に師匠は、追い剥ぎに襲われて怪我をした。金品は、ひとつも盗られていないのにね」


炉の火が、ぱちりと爆ぜた。


「……それは」


「ああ。今なら分かるさ。あれは追い剥ぎなんかじゃない。口をふさぎに来たんだ。師匠は寝ついて、そのまま春を待たずに逝った。ギルドは怯えて、直訴の話は二度と出なくなった」


「買い荒らしが終わったのは、王都の流行り病が終わって、儲けが薄くなったからさ。山が守られたんじゃない。飽きられただけ。……それから三十年。山は少しずつ恢復した。けど、聖樹さまの周りだけは、あれから一度も、元に戻っちゃいない」


グレタ婆は、窓の外の吹雪へ目をやった。


「近頃の駆け込み買いの噂を聞くたびに、あの冬を思い出すよ。……同じ匂いがする。やり口も、図々しさも、そっくりだ」


「婆さま。当時の買い付け商会の名前を、覚えていらっしゃいますか」


「忘れるもんかね。『クローヴ商会』。……おや、先生。顔色が変わったね」


クローヴ。


バルテルミー・クローヴ。三十年前なら、あの白髭がまだ、薬種商の若旦那だった頃だ。


宰相の「独り言」と、台帳の数字と、グレタ婆の三十年が、一本の線になって繋がった。


あの男の財の根は、夜会の捏造でも、納入価の水増しでもない。


この山だ。三十年前から、ずっと。



「……婆さま。お師匠さまの直訴状は、残っていますか」


「写しならね。ギルドの文庫の、誰も開けない箱の底に」


「春になったら、開けさせてください。それと、当時を覚えている方々のお話も」


グレタ婆は、まじまじと私を見た。


「……何をする気だい、先生」


「検品です。三十年ものの、大掛かりな検品。――幸い、今度の直訴状には、連署してくださる領主さまがいますので」


老婆は、しばらく黙っていた。


それから、深い皺の奥の目が、ゆっくりと細められた。笑ったのだ。三十年分の何かを、嚙みしめるように。


「……長生きは、するもんだねえ」



辞去の挨拶をしかけた私を、グレタ婆は「待ちな」と呼び止めた。


老婆は奥の間に消え、しばらくして、古い木箱を抱えて戻ってきた。蓋を開けると、油紙に包まれた小さな包みがひとつ。


「師匠の形見だよ。……薬匙さ」


油紙の中から出てきたのは、使い込まれた銀の薬匙だった。柄のところに、細かい目盛りが手彫りで刻まれている。


「師匠は言ってた。『薬師の正直は、この目盛りに宿る。匙加減って言葉はね、ごまかしの意味じゃない。一目盛りも、ごまかさないって意味なんだ』ってね」


「直訴から戻って、寝ついて、もう起きられないって分かった晩にね。師匠はあたしにこれを渡して、笑ったんだ。『グレタ。山はいつか、正直な薬師の手で戻る。あたしは見られないが、お前は見るかもしれない。お前が見られなきゃ、お前の弟子が見る』……それが、遺言さ」


グレタ婆は、薬匙を油紙ごと、私の手に押し付けた。


「ば、婆さま!? これは婆さまが持っているべき」


「あたしゃもう、目盛りが見えないんだよ」


老婆は、笑った。深い皺の中で、目だけが若かった。


「三十年、箱の底で待たせた。……持ってお行き、王都の先生。師匠の言った『正直な薬師』が誰のことか、あたしにはもう、分かっちまったんでね」


断る言葉は、見つからなかった。


私は薬匙を両手で受け取り、深く、頭を下げた。診察でも商談でもない、薬師が薬師に下げる頭だった。


「――お預かりします。山が戻る日まで」


「ああ。利子はいらないよ。元本は、必ず返しとくれ」


横で洟を啜っていたリタさんが、「ばあちゃん、かっこつけすぎ」と涙声で言って、老婆に頭をはたかれていた。



帰り道、吹雪は小やみになっていた。


リタさんが、繋いだ手にぎゅっと力をこめて、言った。


「師匠。あたしも手伝う。山のことだもん。あたしの山だもん」


「ええ。あなたの山です」


雪の向こうに、聖樹の丘がぼんやりと見えた。


葉のない枝が、白い空を掻いている。三十年、誰にも診てもらえなかった患者が、そこに立っている。


懐の銀の薬匙が、布越しに、ひやりと胸を打った。元本は、必ず返しとくれ。


(お待ちなさい。三十年分の検品です。一目盛りも、ごまかしません)


診察は、もう始まっている。


――そしてその冬、骨の際にもう一つ、三十年前と同じ仕掛けの毒を抱えた患者が、私の診察を待っていた。


山の古傷と、三十年前の名前。点と点が、線になりました。次回、閣下の根治治療が始まります。ブックマークと評価は、ギルドの文庫より大切に保管いたします。


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