第22話:グレタ婆の三十年
その日は、朝から吹雪で店を閉めた。
代わりに私は、リタさんと連れ立って、グレタ婆の家に薬を届けに行った。膝の痛み止めと、目の霞みの洗眼水。老薬師の冬は、あちこちが軋む。
「おや、吹雪の中をわざわざ。……ちょうどいい、茶でも飲んでお行き。リタ、戸棚の木の実の砂糖漬けをお出し」
炉端で茶を啜りながら、話は自然と、山のことになった。
春に発効する保護条約のこと。ギルドで決める年間上限のこと。そして――。
「……婆さま。ひとつ、伺いたかったことがあります」
私は、ずっと胸にあった問いを出した。
「三十年前にも、王都が山の薬草を買い荒らした時期があったと、台帳にありました。出荷が跳ね上がって、五年ほどで急に落ち着いている。……あのとき、何があったんですか」
グレタ婆の、茶碗を持つ手が止まった。
「……あんた、台帳のそんな奥まで読んだのかい」
「検品の癖が抜けませんので」
老婆は、ふ、と笑って、それから炉の火に目を落とした。
「――三十年前。あたしがまだ、ギルドの若手だった頃さ」
*
「王都で流行り病があってね。薬草の値が、一夜で三倍になった。そこへ目をつけた連中が、北へ来たのさ。札束で頬を叩くような買い付けだった」
「山のもんは、最初は喜んだよ。薬草が銀貨になるんだ。猫も杓子も山へ入った。……決まりごとなんて、誰も守りゃしない。根こそぎさ。来年の芽も、親株も、何もかも」
「三年で、山は変わった。いつもの沢にいつもの草がない。五年目には、ギンヨモギの群生が、半分消えた」
「あたしの師匠がね――当時のギルド長が、王都に直訴に行ったんだ。『このままでは山が死ぬ。買い付けに上限を』と。……結果は、門前払い。それどころか、帰り道に師匠は、追い剥ぎに襲われて怪我をした。金品は、ひとつも盗られていないのにね」
炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「……それは」
「ああ。今なら分かるさ。あれは追い剥ぎなんかじゃない。口をふさぎに来たんだ。師匠は寝ついて、そのまま春を待たずに逝った。ギルドは怯えて、直訴の話は二度と出なくなった」
「買い荒らしが終わったのは、王都の流行り病が終わって、儲けが薄くなったからさ。山が守られたんじゃない。飽きられただけ。……それから三十年。山は少しずつ恢復した。けど、聖樹さまの周りだけは、あれから一度も、元に戻っちゃいない」
グレタ婆は、窓の外の吹雪へ目をやった。
「近頃の駆け込み買いの噂を聞くたびに、あの冬を思い出すよ。……同じ匂いがする。やり口も、図々しさも、そっくりだ」
「婆さま。当時の買い付け商会の名前を、覚えていらっしゃいますか」
「忘れるもんかね。『クローヴ商会』。……おや、先生。顔色が変わったね」
クローヴ。
バルテルミー・クローヴ。三十年前なら、あの白髭がまだ、薬種商の若旦那だった頃だ。
宰相の「独り言」と、台帳の数字と、グレタ婆の三十年が、一本の線になって繋がった。
あの男の財の根は、夜会の捏造でも、納入価の水増しでもない。
この山だ。三十年前から、ずっと。
*
「……婆さま。お師匠さまの直訴状は、残っていますか」
「写しならね。ギルドの文庫の、誰も開けない箱の底に」
「春になったら、開けさせてください。それと、当時を覚えている方々のお話も」
グレタ婆は、まじまじと私を見た。
「……何をする気だい、先生」
「検品です。三十年ものの、大掛かりな検品。――幸い、今度の直訴状には、連署してくださる領主さまがいますので」
老婆は、しばらく黙っていた。
それから、深い皺の奥の目が、ゆっくりと細められた。笑ったのだ。三十年分の何かを、嚙みしめるように。
「……長生きは、するもんだねえ」
*
辞去の挨拶をしかけた私を、グレタ婆は「待ちな」と呼び止めた。
老婆は奥の間に消え、しばらくして、古い木箱を抱えて戻ってきた。蓋を開けると、油紙に包まれた小さな包みがひとつ。
「師匠の形見だよ。……薬匙さ」
油紙の中から出てきたのは、使い込まれた銀の薬匙だった。柄のところに、細かい目盛りが手彫りで刻まれている。
「師匠は言ってた。『薬師の正直は、この目盛りに宿る。匙加減って言葉はね、ごまかしの意味じゃない。一目盛りも、ごまかさないって意味なんだ』ってね」
「直訴から戻って、寝ついて、もう起きられないって分かった晩にね。師匠はあたしにこれを渡して、笑ったんだ。『グレタ。山はいつか、正直な薬師の手で戻る。あたしは見られないが、お前は見るかもしれない。お前が見られなきゃ、お前の弟子が見る』……それが、遺言さ」
グレタ婆は、薬匙を油紙ごと、私の手に押し付けた。
「ば、婆さま!? これは婆さまが持っているべき」
「あたしゃもう、目盛りが見えないんだよ」
老婆は、笑った。深い皺の中で、目だけが若かった。
「三十年、箱の底で待たせた。……持ってお行き、王都の先生。師匠の言った『正直な薬師』が誰のことか、あたしにはもう、分かっちまったんでね」
断る言葉は、見つからなかった。
私は薬匙を両手で受け取り、深く、頭を下げた。診察でも商談でもない、薬師が薬師に下げる頭だった。
「――お預かりします。山が戻る日まで」
「ああ。利子はいらないよ。元本は、必ず返しとくれ」
横で洟を啜っていたリタさんが、「ばあちゃん、かっこつけすぎ」と涙声で言って、老婆に頭をはたかれていた。
*
帰り道、吹雪は小やみになっていた。
リタさんが、繋いだ手にぎゅっと力をこめて、言った。
「師匠。あたしも手伝う。山のことだもん。あたしの山だもん」
「ええ。あなたの山です」
雪の向こうに、聖樹の丘がぼんやりと見えた。
葉のない枝が、白い空を掻いている。三十年、誰にも診てもらえなかった患者が、そこに立っている。
懐の銀の薬匙が、布越しに、ひやりと胸を打った。元本は、必ず返しとくれ。
(お待ちなさい。三十年分の検品です。一目盛りも、ごまかしません)
診察は、もう始まっている。
――そしてその冬、骨の際にもう一つ、三十年前と同じ仕掛けの毒を抱えた患者が、私の診察を待っていた。
山の古傷と、三十年前の名前。点と点が、線になりました。次回、閣下の根治治療が始まります。ブックマークと評価は、ギルドの文庫より大切に保管いたします。




