第21話:子どもたちの咳止めシロップ
夜に駆け込んできた子を皮切りに、街に流感が広がった。
毎年来る、たちの悪くない型だ。大人は数日寝込めば治る。けれど、子どもは咳が長引く。そして子どもというものは――。
「やだーっ! にがいのやだ! ぜったいやだーっ!」
「こら、ミオ! 先生の前でなんてこと!」
本日五人目の患者、ミオちゃん(六歳)は、店の長椅子の下に立てこもって出てこない。
母親は平謝りだが、私は気にしない。むしろ、感心していた。
(皆さん、よく覚えていらっしゃる……)
子どもたちが拒んでいるのは、私の薬ではない。先代の診療所の先生が処方していたという、伝統の咳止め煎じ薬。話に聞くだに、相当な苦さだったらしい。五年経っても、街の子どもたちの記憶に「薬=あの苦いやつ」と刻まれているほどに。
これは、処方の問題ではない。信用の問題だ。
「リタさん。例の試作、出番です」
「待ってました!」
*
リタさんが棚から運んできたのは、琥珀色のとろりとした液体の瓶だった。
咳止めシロップ。
主剤は同じでも、剤形を変えた。煎じ薬の苦い汁を、蜂蜜と干し林檎の煮汁で練り直したものだ。蜂蜜は閣下の養蜂場の冬分け、林檎はマーサさんの納屋の保存分。地産地消である。
「ミオちゃん。お薬はやめにしましょう」
長椅子の下の警戒心に、私は話しかけた。
「かわりに、魔女の蜜を出します。とろーっとして、あまくて、喉の悪い虫だけやっつける蜜です。……でも、お薬じゃないから、いい子にしか出せないんですよね」
沈黙。
「……あまいの?」
「ええ。なにせ蜜ですので。ただし一日三回、匙に一杯だけ。飲みすぎは魔女との約束破りです」
長椅子の下から、ちいさな手が、にゅっと出てきた。
匙を差し出す。こわごわ舐めて、目がまるくなって、それから――ごくん。
「…………もっと」
「明日の分です。約束は約束」
「むー……。……まじょのみつ、のむから、あした、またくる」
陥落である。
母親が「あの子が薬を……」と拝むように瓶を受け取っていったが、種を明かせば、ただの剤形と呼び名の工夫だ。
けれど、その「ただの工夫」で、子どもは咳止めを最後まで飲み切れる。飲み切れば、こじらせない。こじらせなければ、冬の夜中に親が雪道を走らなくて済む。
薬効は、飲まれて初めて発生する。前世の職場の、受付に貼ってあった言葉だ。
*
「――というわけで、ユリウスさん。本日の講義は剤形学です」
「魔女の蜜が、講義に……?」
「立派な講義です。王宮で、貴族の偏食なお子さまに薬を飲ませるのに、必ず役に立ちますので」
研修生二人には、シロップ・丸薬・舐め薬と、三種の剤形を仕込んだ。ノエルさんは下町仕込みで「飲ませ方の声かけ」が抜群にうまく、ユリウスさんは配合比の記録魔として才能を開花させた。
「先生、配合記録ですが、林檎の煮汁の糖度が日によってぶれます。規格化するなら……」
「いい着眼です。では蜂蜜の比率で補正する換算表を作ってください。あなたの仕事です」
「……っ、はい!」
人は、任されると育つ。これも前世の受け売りである。
*
流感の波は、十日ほどで峠を越えた。
こじらせて肺を悪くした子は、今年は一人も出なかった。
「先生、今年の冬は変だよ」と、往診先でマーサさんが笑った。「子どもが薬屋に行きたがる冬なんて、あたしゃ六十年で初めて見たよ」
店の前には、このごろ、雪だるまが立つ。
患者の子どもたちが、診察待ちの間に作っていくのだ。今日の雪だるまは、なぜか小枝の眼鏡をかけていた。ユリウスさんに似せたらしい。本人は「に、似ていません」と言いながら、崩さず丁寧に雪を直していた。
*
夜。診察記録の整理をしていると、リタさんが帳場にやってきた。
「師匠。あのね、あたし、わかったことがある」
「なんでしょう」
「あたしの母ちゃんが死んだ流行り病ね、あれ、たぶん、こじらせだったんだ。最初はただの熱だったのに、薬が高くて買えなくて、我慢してるうちに、どんどん悪くなって」
リタさんは、薬棚を見上げた。
「……あのとき、この店があったらなあって。魔女の蜜とか、銅貨で買える解熱剤とか、火の見回りとか、あったらなあって。そう思ったら、なんか」
声が、少しだけ揺れた。
「なんか、悔しくて。だからあたし、早く一人前になる。あたしみたいな子が、母ちゃんみたいに我慢しないで済む店、あたしが続けるんだ。師匠が婆ちゃんになっても、ずーっと」
「……私が婆ちゃんになる前提なのですね」
「なるでしょ、そりゃ」
なるでしょうとも。
この街で、この店の帳場で。そういう未来を、当たり前のように描いてくれる弟子がいる。
それがどれほど効きのいい薬か、この子はまだ知らない。
「では弟子その一。婆ちゃんになる前に、教えることが山ほどあります。明日は丸薬の練り方です。早く寝なさい」
「はーい。……あ、師匠も夜更かししないでよね。火の見回りの先生が、寝不足じゃ恰好つかないよ」
一本、取られた。
戸口で、リタさんがふと足を止めた。
「そういえば師匠。明日、グレタばあちゃんに薬届けに行くんでしょ。あのね……ばあちゃん、最近よく、山の昔の話するんだ。三十年前の、聖樹さまが痩せた頃の話」
蜂蜜の甘い匂いの残る帳場で、その一言だけが、なぜか冷たく耳に残った。
三十年前。台帳の奥で、出荷の数字が一度だけ跳ね上がっていた、あの冬と。
同じ年だ。
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