第20話:暖炉と毒のけむり
「先生、また、なんだよ」
マーサさんが腰の薬を取りに来たついでに、世間話のように言った。
「織物長屋のおかみさんたち、今年も『冬眠病』にやられててさあ」
「冬眠病?」
「ああ。ノルデンの冬の名物さ。締め切った部屋で機織りしてるとね、頭が痛くなって、体がだるーくなって、こう、うつらうつら。ひと冬じゅう、熊みたいに眠くなるんだよ。雪国の血がそうさせるんだと」
頭痛。倦怠。眠気。締め切った、暖かい部屋。
私の手が、量っていた粉を取りこぼした。
「……マーサさん。その長屋、暖房は何を?」
「炭だよ。炬燵と火鉢。薪より煙が出なくて、上等だろ?」
煙が出ない。それは、毒が見えないということでもある。
「リタさん、店番を。往診に行ってきます――今すぐ」
*
織物長屋は、市場の裏手にあった。
雪に埋もれた窓。目張りされた戸。中に入ると、もわりと炭の匂いがした。薄暗い部屋で、女たちが五人、機を織っている。その手が、皆、どこか緩慢だった。
「ああ、薬屋の先生かい……すまないねえ、今、お茶を……」
立ち上がったおかみさんが、ぐらりとよろめいた。
唇の色を見る。爪を見る。――鮮やかすぎる紅色。間違いない。
「皆さん、申し訳ありません。今すぐ、窓と戸を全部開けます」
「ええ!? せ、せっかく暖めたのに!」
「お叱りは後で。リタさんに教わった台詞で言いますね――死ぬよりましでしょ!」
*
雪の往来に避難した女たちに、白湯を配りながら説明した。
「炭が燃えるとき、目に見えない毒の気が出ます。匂いもない、色もない。締め切った部屋に溜まると、頭痛、だるさ、眠気――進むと、眠ったまま目を覚まさなくなります」
「ど、毒!? でも炭なんて、みんな使ってるよ」
「使い方です。換気――空気の入れ替えさえすれば、怖くありません。一刻にいちど、戸と窓を開けて、新しい空気を入れる。それだけで『冬眠病』は防げます」
「……ちょっとお待ちよ、先生」
マーサさんの顔色が、変わっていた。
「じゃあ、あれかい。三年前の冬、織子のサリーが朝起きてこなかったのも……寝てる間に心の臓が止まったって言われた、あれも」
私は、嘘をつけなかった。
「……おそらくは。同じものだったと、思います」
往来が、しんとなった。
雪国の血のせいではない。熊のせいでも、冬の魔物のせいでもない。
名前を知らない毒が、毎年、静かに人を間引いていただけだった。
「教えてくれ、先生」
おかみさんの声は、震えていた。
「換気ってのを、ぜんぶ。あたしらに、ちゃんと教えてくれ。……もう、誰も『冬眠』させたくないんだ」
*
その日から、私の冬の往診に、新しい仕事がひとつ増えた。
名付けて「火の見回り」。
炭を使う家を回って、換気の習慣を教える。火鉢の置き場所を直す。寝るときは火を落とすか、必ず空気の通り道を作る。
『雪山で人を拾ったら』に続いて、二枚目の絵入り手順も刷った。
『炭火の部屋の三つの約束――一刻にいちど風を通す・寝るときは火を落とす・頭痛とだるさは「冬の毒」を疑う』
ユリウスさんの棒人間が、今回も大活躍である。彼の描く「うつらうつらする棒人間」は、なぜか妙に愛嬌があって、子どもたちがおもしろがって約束を暗唱してくれるのだ。
「しかし師匠……これ、薬を一つも売っていませんよね。診察代も取っていないし、紙代は持ち出しで」
帳簿をつけていたユリウスさんが、商人のような顔で言った。
「ええ。今回は売るものがありませんので」
「商売としては、どうなんです、それは」
「いい質問です。では、ユリウスさんに宿題。――この冬、『冬眠病』の患者が出なかった場合と出た場合、街の損は、どちらが大きいでしょう」
「……機織りが止まる損、看病の手間、薬代、葬式代……なるほど、予防は、街全体で見れば黒字……。いやしかし、その黒字はうちの帳簿には」
「入りません。かわりに、信用が入ります。信用は腐りませんし、利子もつきますので」
ユリウスさんは唸って、帳簿の隅に何やら書き付けていた。あとで覗いたら『信用・腐らない・利子つき』とあった。素直でよろしい。
*
夜、店じまいのあとで、ノエルさんがぽつりと言った。
「……下町を、思い出しました。王都の下町も、冬になると、ああいう亡くなり方をする人、いるんです。『寝たまま逝けたなら大往生だ』なんて言って……。あれも、これだったのかな」
「おそらく、いくらかは」
「先生。おれ、王都に帰ったら、これもやっていいですか。火の見回り」
「ノエルさん」
私は、刷り上がったばかりの絵入り手順を、ひと束、彼の荷物の上に置いた。
「そのために、刷りを多めに頼んであります」
ノエルさんが、束をそっと両手で受け取った。王都に持ち帰る荷の、一番上に。
*
その夜、調剤ノートの隅に、私は短く書きつけた。
『毒は瓶の外にもいる。前の世で習ったこの当たり前を、この世界に置いていくこと。それが、私が二度生きている理由の、半分くらい』
筆を置いた、そのときだった。
戸を、誰かが慌ただしく叩いた。雪を踏む足音は、軽い。子どもだ。
「先生っ、開けて! うちの子が、咳が止まんなくて。夜じゅう、ずっと……!」
見えない毒の見回りが、ひと段落つく前に。
次の冬の客は、もう、戸口に立っていた。
見えない毒のお話でした。炭をお使いの皆さま、換気は本当に大切です。次回、街に流感が来ます。お薬の一番むずかしい工程は「飲んでもらうこと」――子どもたちの咳止めシロップのお話です。ブックマークと評価も、一刻にいちど思い出していただけると幸いです。




