第14話:聖女さまは、祈りつづける
辺境からの薬が届いて、王宮は様変わりした。
殿下の発作は、ぴたりと止んだ。朝の謁見が再開され、侍医団の詰所からは二月ぶりに笑い声が聞こえ、廊下を行く侍従たちの足取りも軽い。
その中でひとり、ミレーユだけが、書庫の隅にいた。
「……あった」
埃をかぶった綴りを、震える指でめくる。
夜会の三月も前の、医薬局の議事録だった。
『納入価格の改定について、グランヴェル嬢より異議。「品質に対して不当に高額。業者の選定過程に疑義あり」――議長(クローヴ局長)、これを却下』
『グランヴェル嬢より、納入業者三社の検査記録の開示を要求。――局長、これを保留』
『局長より発言。「嬢の権限は婚約者としての慣例に過ぎず、本来、局の運営に容喙される筋合いはない」』
枚をめくるごとに、突き返された検品と、握り潰された異議の記録が続く。
そして夜会のひと月前、議事録は唐突に、彼女の名前ごと途切れていた。
(あの人は……ずっと、戦っていたんだ)
ミレーユは、思い出していた。
夜会で断罪の「証言」を読み上げたのは、殿下だった。でも、その紙を殿下に渡したのは? 「聖女様が階段で突き落とされかけたのを見た」という侍女を、わたしに引き合わせたのは?
『ミレーユ様は、お可哀想に。あの令嬢に妬まれておりますぞ』
そう繰り返し囁いてきた、あの白髭の――。
「――聖女様。このような場所に、おいででしたか」
背筋が、凍った。
書庫の入り口に、バルテルミー・クローヴが立っていた。
「殿下がお探しですぞ。本日も祈祷の刻限ゆえ」
「……殿下のご容態は、もう。お薬が、効いておりますから」
「薬で抑えているだけでしょうな」
局長は、聞き分けのない子どもを諭す声で言った。
「聖女様。薬とは所詮、草の搾り汁。あなた様の祈りこそが殿下をお守りしてきた。誰がなんと言おうと、儂だけは知っておりますぞ。……それとも」
白髭の下の目が、すっと細くなった。
「祈りを止められますかな? 止めた途端に殿下に万一のことあらば――それは祈りを止めた者の咎、ということになりますなあ」
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
それは呪いの言葉だった。一年間、ミレーユを縛り続けてきたのと同じ形の。
祈れ。お前の価値はそれだけだ。止めれば、お前のせいだ。
「……参ります。祈祷に」
「それがよろしい」
すれ違いざま、ミレーユは局長の袖から覗いた書類の束を見た。「辺境派遣薬師の人選(案)」の文字と、名前の上に並ぶ、いくつもの朱の丸印を。
*
祈祷は、形ばかりのものになった。
殿下は薬で安定している。それでも「念のため」と祈りは続けられ、ミレーユは今日も光を注ぐ。
「ミレーユ。君の祈りのおかげで、ずいぶん楽になった」
寝椅子の殿下が、屈託なく笑う。
「……いいえ、殿下。お加減がよろしいのは、お薬のおかげです」
「はは、謙遜を。あんな辺境の薬ごときで」
――この方は、まだ何も分かっていない。
自分の命が、たった一人の薬師の手の中にあったことも。その人を、自分の手で放り捨てたことも。
「殿下。ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」
気づけば、口が動いていた。
「夜会の証言の数々は……どなたが、お集めになったのですか」
「ん? ああ、クローヴ卿だ。卿が心を痛めてな、『聖女様をお守りせねば』と、方々から証言を集めてくれた。あれは忠義の臣だよ」
「その証言を、殿下は、お一つでもご自身でお確かめになりましたか」
殿下の笑みが、止まった。
「……ミレーユ? どうしたんだ、急に」
「わたし、階段から落ちかけたことなんて、一度もないんです」
声が、震えた。それでも、止まらなかった。
「ドレスも切られていません。悪い噂も、聞いたことがない。わたし、ずっと申し上げました。何度も。でも誰も――殿下も、聞いてくださらなかった」
「そ、それは、君が優しいから、庇って」
「庇っていません。本当のことを言っていました」
部屋が、静まり返った。
アロイス王太子は、生まれて初めて見るもののように、聖女の顔を見つめていた。やがてその顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。
聡明とは言いがたい方だ。けれど、馬鹿ではない。
証言を集めた男。令嬢を追い出して得をした男。そして令嬢の去った医薬局で、薬価と共に肥え太った男。点と点を結ぶ線は、一本しかない。
「……調査委員会の資料を、持ってこさせてくれ」
長い沈黙のあと、殿下は言った。その声は、ミレーユが初めて聞く、王族の声だった。
「それから、ミレーユ。……すまなかった。君の言葉を、一度も検めなかった」
*
その夜、ミレーユは自室で、一通の手紙を書いた。
宛先は、北方辺境ノルデン、市場通りの薬屋。
謝罪の言葉を書いては消し、消しては書き、結局、最後に残ったのは短い問いだけだった。
『わたしの祈りは、痛みを消すことしかできません。
それでも――誰かを治す側に、なれるでしょうか。
教えていただきたいのです。あなたの薬学を』
封をする手は、もう震えていなかった。
聖女さま、覚醒の一歩目です。手紙は雪の街道を北へ。ブックマークと評価は、祈りより確実に作者へ届きます。




