第12話:「行くのか」
王太子殿下ご危篤。
その報せが辺境に届いたのは、初雪の三日前だった。
「勅使が来る。今度は王宮府の正式な使節団だ。契約書と、前金と――公式の謝罪文の予告を携えてな」
領主館の応接室で、閣下は先触れの書状を私に差し出した。
読む。確かに、先日とは何もかも違った。要請ではなく依頼。奉仕ではなく契約。そして文末には、夜会の件について調査委員会を設けた旨が、固い言葉で記されていた。
「……ようやく、まともな窓口が開きましたね」
「ああ。――それで、だ」
閣下の声が、少し硬くなった。
「行くのか」
「はい?」
「殿下は危篤だ。文書のやり取りでは間に合わん容態かもしれん。となれば王宮府は必ず、貴女自身の上洛を求めてくる。……行くのか、と聞いている」
ああ、と思った。
この三日、街のみんなが私に同じ目を向けていた。リタさんが、グレタ婆が、マーサさんが、ゴルドさんが。口には出さずに、同じことを聞いていた。
先生は、王都に帰ってしまうのか、と。
「正直に申し上げると――迷っています」
「……ほう」
「危篤の患者がいて、その病態を正しく知るのが、おそらく世界で私一人。これで迷わなければ、薬師ではありませんので」
「迷う必要などない」
閣下の声に、初めて、刃のような響きが混ざった。
「王都が貴女に何をした。冤罪で着飾った断罪、無一文同然の放逐。挙句、薬が要るとなれば、まず無償で呼びつけようとした。……あの連中は、貴女を使い潰す。八年間そうしたように。今度は死ぬまでだ」
「閣下」
「行かせん。これは領主としての――」
「閣下」
私は、静かに、けれどはっきりと遮った。
「それ以上は、おっしゃらないでください。……『行かせない』は、王都が私にしたことと、同じ形をしています」
閣下が、息を呑んだ。
長い、長い沈黙が落ちた。暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「…………すまなかった」
やがて、絞り出すような声がした。
「貴女の言うとおりだ。……俺は、貴女の囲いになるところだった」
「いえ。……心配してくださったのは、分かっていますので」
閣下は、暖炉の火を見つめたまま、ぽつりと続けた。
「五年前、俺に毒を盛った何者かは、王都にいる。それが分かってから、あの街の影が、どうにも信用ならん。……そこへ貴女を一人で出すと思うと、どうかしそうになる。それだけだ」
それだけだ、という言葉に、どれだけのものが詰まっているのか。
聞こえなかったふりをするには、私の耳は、少しばかり良すぎた。
*
店に戻ると、リタさんが帳場で算術の練習をしていた。私の顔を見て、手が止まる。
「……師匠。王都、行っちゃうの」
単刀直入である。弟子はこうでなくては。
「リタさんは、どう思いますか」
「やだ」
これも単刀直入だった。
「やだよ。だって師匠が行ったら、誰があたしに調合を教えるの。マーサ婆ちゃんの腰の薬は? 閣下の解毒はまだ途中だよ。冬の常備薬の補充は? あたしまだ、半分しか作れないんだよ」
リタさんは、一息に言って、それから袖で目元をぐいとこすった。
「……でも。行くなって言ったら、師匠を独り占めするのと同じなんでしょ。王都には、病気の子がいっぱいいるんでしょ。あたし、偽薬の時の子の顔、覚えてるもん。……ずるいよ、こんなの。どっちを選んでも、誰かが正しくない」
ああ――この子は、本当に。
私は、弟子の頭を、くしゃりと撫でた。
「リタさん。今のお話、満点です。あなたは今、薬師の一番難しい問題を解きかけました」
「へ……?」
「身体はひとつ。患者は大勢。さて、どうするか。――前の職場の私はね、この問題を間違えたんです。全部に自分で応えようとして、身体の在庫を切らしました」
リタさんが、きょとんとする。閣下にもまだ話していない、私の一番古い処方箋の話だ。
「ですから今回は、解き方を変えます」
*
夕方、薬草の届け物にかこつけて、グレタ婆が店に寄った。
この人の「かこつけ」は、いつも本題が別にある。案の定、茶を半分も飲まないうちに、老薬師は切り出した。
「で、先生や。荷造りはいつ始めるんだい」
「……婆さままで。まだ何も決めていませんよ」
「ふん。なら、年寄りの昔話をひとつ。――あたしの師匠の、そのまた師匠の話さ」
グレタ婆は、炉の火を見ながら言った。
「その人はね、それは腕のいい薬師だった。北部一帯の流行り病を、たった一人で三度も止めた。けど、四度目の流行りのとき、隣の領と、そのまた隣の領から同時に呼ばれてね。馬で行ったり来たり、行ったり来たり……ひと月後、街道の途中で、馬の上で冷たくなってたとさ」
「……」
「三つの街が、その人の腕に頼り切って、誰も後継ぎを育てなかった。だから、その人が倒れた年から、北部の薬学は三十年遅れた。――いいかい、先生。腕のいい薬師ってのはね、いるだけで周りの足を止めちまう毒にもなるんだ。あんたほどの腕なら、なおさらさ」
老婆は、よっこらせ、と立ち上がった。
「行くなとも、行けとも言わないよ。ただ、考えな。あんたが馬の上で冷たくなる道と、ならない道と。……それだけさ」
戸口で、グレタ婆はにやりと笑った。
「ま、あたしとしちゃあ、膝の薬の都合があるんでね。冷たくならない道を、お勧めしとくけどね」
*
その夜、私は机に向かい、紙を広げた。
行くか、行かないか。問いの立て方が、そもそも間違っているのだ。
問うべきは――私がこの場所から動かずに、王都の患者を治す方法はあるか。
殿下の病態は、頭の中にある。八年分の経過も、効いた処方も、すべて。書き起こせる。
調合の手順も、書ける。図解も付けられる。
足りないのは、王都でそれを正確に作れる「手」。なら、その手をどうするか――。
ペンが、紙の上を走り出す。
窓の外、ノルデンに今年最初の雪が舞い始めていた。
三日後、勅使が来る。
私の答えは、決まった。
「行くか行かないか」ではなく。次回、先生の答え――「診ません。ただし、診られる人間を育てます」。ブックマークと評価で、初雪が積もります。




