第11話:王太子殿下、ご危篤
王太子アロイスが執務室で倒れた夜、王宮から眠りが消えた。
「脈が乱れておる! 強心の煎じ薬を、早く!」
「だめです、お吐きになる! 先ほどの薬も受け付けません!」
寝室に侍医が七人。廊下に大臣が十数人。祈りの間から駆けつけた聖女が、震える手で何度目かの祈祷を捧げる。
光が殿下の胸に満ちて――発作が、静まった。
「お、おさまった……聖女様の御業だ……」
安堵の息が広がる。けれど侍医長だけは、青い顔のまま、首を横に振った。
「……三日で、四度目ですぞ。祈祷で抑えられる間隔が、どんどん詰まっておる。これは時間稼ぎに過ぎん。根本の手当てをせねば、いずれ――」
「では聞くが、根本とは何だ! 病名は! 原因は!」
誰も、答えられなかった。
それが、この夜の王宮の、いちばん深い恐怖だった。
大陸一の侍医団が、王太子の病名を、誰一人言えないのである。
*
「五年だ。五年分の診療記録を洗い直せ!」
翌朝の侍医団の詰所は、戦場だった。
過去の診療記録が床に積み上がる。だが、めくってもめくっても、出てくる記録は「ご壮健」「異常なし」「軽い疲労」ばかり。
「おかしい……おかしいのだ」
最年少の侍医が、髪を掻きむしった。
「この発作、初発のはずがない。心の臓の周りの脈道が、生まれつき細い方特有の所見がある。であれば幼少期から兆候があったはず。なのに記録には、何もない」
「つまり、何者かが隠していたと?」
「いいや、逆だ。――誰かが、ずっと抑え込んでいたんだ。発作が記録に残る前に、毎回、芽を摘むように」
詰所が、静まり返った。
「……おい。殿下が長年飲んでいた、あの『栄養剤』はどうなった」
「分析は匙を投げた。成分の半分が、特定できん。だが効能の見当はつく。脈を整え、血の道を緩め、発作の芽を摘む――まさに、この病のための薬だ」
「誰が作っていた」
問いの答えを、その場の全員が知っていた。知っていて、誰も口に出せなかった。
二月前、この王宮から「悪役」の名を着せられて追い出された、公爵令嬢の名を。
*
「――グランヴェル公爵。単刀直入に問う。御息女の処方の記録は、公爵家にあるか」
王宮府の重鎮たちに詰め寄られたグランヴェル公爵は、面倒事を見るような目で答えた。
「ない。娘の薬のことなど、儂は何も知らん。……それと、ひとつ訂正を。あれはもう『御息女』ではない。婚約破棄の折に、籍は分家へ移した。当家とは関わりのない娘だ」
「な……っ、では、娘御に処方を問い合わせることも」
「『関わりのない娘』と言ったはずだが?」
公爵は、嫌味なほど優雅に茶を含んだ。
保身のために娘を切り捨てておきながら、その娘の価値が暴騰した途端、恩を売る窓口になる気も、火の粉を被る気もない。徹頭徹尾、関わらぬという賭けに出たのだ。
王宮府は、最後の頼みの綱を失った。
正確には――綱は最初から一本しかないと、認めざるを得なくなった。
北の辺境で薬屋を営む、あの娘本人である。
*
「料金表ですと!?」
会議室に、ダレル書記官の復命が読み上げられたのは、その日の午後だった。
「『検品手順書の納品、研修の受け入れ、処方箋ごとの調剤。すべて正規契約、対価は前払い』……ぐ、軍務卿、これは」
「ぐうの音も出ん、ということだ」
軍務卿が、苦虫を噛み潰した顔で言った。
「しかも娘の後ろには、今やシュトラール辺境伯がついておる。北の軍権を握る漢に『この方は荷物ではない』と凄まれて、力ずくの選択肢は消えた。残るは――正規の契約、それだけよ」
「お、お待ちくだされ!」
声を裏返したのは、バルテルミーだった。
「王宮府ともあろうものが、市井の小娘に頭を下げ、金を払うと!? 医薬局の威信は」
「その威信とやらで、殿下の薬を作ってみせよ、バルテルミー卿」
会議室が、しんとした。
発言したのは、それまで黙っていた宰相だった。老いた瞳が、医薬局長を静かに射抜く。
「卿が『替えはいくらでも利く』と言った替えは、二月経っても見つからん。卿の検印を受けた薬は、市中で効かぬと評判だ。……時に卿。近頃、医薬局の納入価が随分と上がったそうだな。あれはなぜかね」
「そっ、それは、薬草の市況が……」
「調べさせている。続きは、また後日聞こう」
バルテルミーの背を、初めて、冷たい汗が伝った。
「――決を採る。グランヴェル嬢への正規依頼の件、異議は」
異議は、出なかった。
「ではダレル書記官、再び北へ。今度は契約書と、前払いの金子を持って行け。それと――」
宰相は、しばし瞑目し、重々しく付け加えた。
「王宮府の公式文書として、もう一通。……あの夜会の件の、調査委員会を立てる。謝るべきことは、謝らねばならん。国の体面より、殿下の命だ」
*
その夜。聖女ミレーユは、殿下の寝室の隅で、膝を抱えていた。
祈りすぎて、指先の感覚がない。それでも、夜半になればまた発作が来る。
(わたしの力じゃ、治せない)
もう、認めるしかなかった。祈りは、痛みを消すだけ。あの老侍医の言ったとおりだった。
ふと、近くで囁き交わす侍従たちの声が、耳に入った。
「……辺境の薬師どのが、契約を受けてくだされば、だが」
「ああ。なにせ、殿下を八年間お守りしていた御方だ。あの『悪役令嬢』様がな……」
ミレーユは、顔を上げた。
八年間、お守りしていた――あの人が? わたしを階段から突き落とそうとしたと、断罪された、あの人が?
ずっと胸につかえていた違和感の輪郭が、ようやく、はっきりと見えた気がした。殿下の病は治らない。祈りでは治らない。なのに、あの人がいた八年間だけ、発作は記録に残らなかった。
それは、いったい、どういうことなのだろう。
聖女は、膝を抱えていた手をほどき、立ち上がった。向かう先は、王宮の書庫。
あの夜会の「証言」を、最初に言い出したのは、誰だったのか。
確かめずには、もう、祈れそうになかった。
王都、ようやく値札の読み方を学び始めたようです。次回、辺境に勅使到着。そして閣下と先生、初めての衝突。ブックマークと評価は前払い制ではありませんが、いただけると大変効きます。




