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第二十七話・裏:千早の緊張

事務所の控室は、夜になると驚くほど静かになる。

昼間はスタッフの声や、タレント同士の雑談、機材の音が絶えないのに、今は空調の低い唸りだけが耳に残る。

昼の喧騒が嘘のように消え、広い部屋の空気がひんやりと落ち着いている。

千早はソファに座り、膝の上に置いたタブレットを見つめていた。

画面には、明日の案件配信の概要が映っている。

白い光が千早の顔を照らし、緊張で固まった表情を浮かび上がらせていた。




本来、タレント側がここまで読み込む必要はない。

流れは当日スタッフが説明してくれるし、台本もある。

それでも千早は、何度もスクロールしてしまう。

ページをめくる指先が、ほんの少し震えているのが自分でも分かった。

「……案件って、やっぱり緊張するなぁ」

声に出すと、胸の奥がじわりと熱くなる。

普段の配信とは違う。

スポンサーがいて、企業が見ていて、視聴者もいつも以上に多い。

そして明日は、みこちと一緒に出演する。

先輩と並ぶこと自体は珍しくない。

雑談コラボも、ゲームコラボも何度か経験している。

けれど“案件”となると話は別だ。

自由にふざけるわけにもいかないし、テンションの調整も必要になる。

みこちの空気感に合わせつつ、案件としてのラインも守らなければならない。

そのバランスを取るのは、思っている以上に難しい。


「……後輩として、ちゃんとしないと」

千早はタブレットを閉じ、深く息を吐いた。

自分はまだ新人で、経験も浅い。

みこちのように場を回す力も、瞬発力もない。

それでも、明日は“並んで立つ”。

その事実が、千早の胸を締め付ける。

控室のテーブルには、マネージャーが渡してくれた差し入れのラムネが置いてある。

「千早ちゃん、緊張したらこれ食べるといいよ〜」

そう言って笑っていた先輩の顔が浮かぶ。

その笑顔を思い出すだけで、胸の奥が少し温かくなる。

「……緊張してるの、バレてたんだ」

苦笑しながら、千早はラムネを一粒口に放り込んだ。

甘さが広がると同時に、胸の奥のざわつきが少しだけ和らぐ。

ラムネの小さな粒が舌の上で転がり、溶けていく感覚が、ほんの少しだけ心を落ち着かせてくれた。

そのとき、スマホが震えた。

画面には「みこち」の名前。

千早の心臓が、ほんの少し跳ねる。


『千早ちゃん、まだ起きてる?』

千早は少し迷ってから返信する。

指先が緊張で固くなり、文字を打つのにいつもより時間がかかった。

『明日のこと考えてました。緊張してて……』

すぐに返事が来た。

『千早ちゃんはそのままでいいよ〜!明日は私が引っ張るから安心してね』

その一文に、千早は思わず息を止めた。

胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。


“そのままでいい”。

その言葉は、千早の胸にじんわり染み込んでいく。

自分はまだまだ未熟で、先輩のように器用に立ち回れない。

それでも、みこちはいつも自然体で受け入れてくれる。

その優しさが、時に心を締め付けるほど嬉しい。

「……先輩、ほんとに強いなぁ」

千早はスマホを胸に当て、目を閉じた。

緊張が少しだけ溶ける。

けれど、完全に消えるわけではない。


帰宅して布団に入ると、再び胸がざわつき始めた。

明日の段取りが頭の中でループする。

相手の配信者のテンション、みこちの動き、自分の立ち位置。

どうすれば先輩の邪魔にならず、ちゃんと存在感を出せるか。

考えれば考えるほど、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

「……大丈夫。大丈夫……のはず」

そう呟いてみても、心臓の鼓動は早いままだった。

枕に顔を埋め、布団の中で小さく足をばたつかせる。

緊張が身体の中に溜まっていくようで、じっとしていられない。


明日は失敗できない。

後輩として、ちゃんと役目を果たしたい。

みこちの隣で、恥ずかしくない姿でいたい。

「……よし、寝よう。寝ないと余計に緊張する」

そう言い聞かせて目を閉じるが、すぐには眠れない。

頭の中で、みこちの声が何度も再生される。

『千早ちゃんはそのままでいいよ〜!』

その言葉を抱きしめるように、千早は深呼吸を繰り返した。

先輩がそう言ってくれるなら、信じてみよう。


自分の“後輩としての自然体”を、明日は胸を張って出せばいい。

そして、眠りに落ちる直前、千早はふと思った。

――みこち先輩も、実は少し緊張してるのかな。


普段は明るく振る舞っているが、案件は先輩にとっても大事な場だ。

不安がないはずがない。

それでも先輩は、後輩の自分に「大丈夫」と言ってくれた。

「……なら、私が支えないと」

後輩として、先輩を支える。

その決意が胸に灯る。

その灯りを抱きしめるように、千早はようやく深い眠りに落ちていった。

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