呆然で寂々 5
千香良は頬を膨らませてベッドから降りると、ゲーミングチェアに腰掛け、左官施工法の本を開く。
各ページの端に小さな落書き。
後ろ向きの坊主頭の職人のイラストだ。
微妙にずれていく腕の動きに連動して、ハート型の壁が少しずつ塗られていく。
背中に肉眼では読めないほどの小さな文字で『プラスター工房ムラオカ』のロゴも入っている。
勉強時の気分転換に書いていた。
千香良の趣味 ‘パラパラ漫画’ に興味を示してくれたのは龍太だけ。
いつか、見てもらうつもりだった。
「ブ、ブ、プッシュ~」
唇を突き出すと、膨らませた頬が音を立てて萎んだ。
一頻りセンチメンタルに耽ると、千香良は恋愛なんて馬鹿、馬鹿しいと思えてきた。
(何も代わらないか)
そして手元のスマホを確認してみる。
ラインの既読も付いていない。
今度は唇を尖らかす。
淋しいのか退屈なのか、物足りない。
嫌ほど泣いて空っぽになったからだ。
千香良は立ち上がると、少しだけドアを開けた。
そして、一歩出ると階下を見下ろす。
リビングはまだ灯りが付いている。
PM10時なら、父は風呂か寝室。
母はリビングでテレビを見ている時間だ。
冷たいお茶も飲みたい。
千香良はそのまま階段を下りていく。
けれども、千香良の予想は大外れ。
リビングのドアを開けると兄が居た。
「相手の男の名前に龍が入っていて、乙葵に乙とで龍乙って付けたって」
千香良は拙いと、思った。
兄が乙葵の話をしている。
「あれ、千香ちゃん。こんな時間に珍しい」
「喉が渇いたから、お茶を飲みに来た」
千香良は早々に立ち去りたい。
何気ない素振りでキッチンに移動すると冷蔵庫を開ける。
けれども、キッチンとリビングを間仕切るドアは開いていて、母の視線が千香良に刺さる。
「ねぇ、千香ちゃん……千香ちゃんの兄弟子さんも龍が付かなかった」
千香良は聞こえなかったふりをして、コップに緑茶を注ぐ。
「千香良~母さんが聞いているぞ~」
千香良はゴクゴクと喉を潤し無視を決め込む。
「お~い、千香良」
それでも兄がしつこい。
「知らない」
千香良は、この窮地に踵を返して駆け出した。
「真逆……おい、千香良、待て……」
兄が追い掛け来た。
千香良は階段の手前で腕を取られる。
「マジか?で、本人に話したのか」
兄は緊迫状態だ。
千香良は切迫感に肩を強ばらす。
「どうした?」
そこに脱衣所から出てきた父が立ち止まる。
「どうもこうもない。千香良が勝手なんだよ」
「違うもん。ちゃんと龍兄の従兄弟の高城さんに相談したもん」
「何の話か知らないが、こんな廊下で兄妹喧嘩をするくらいなら、リビングで話し合え」
父に言われたら、もう観念するしかない。
千香良は家族の前で一部始終を話す覚悟を決めた。
すると千香良の思った通り。
兄は乙葵に無断で口外した、と激怒。
「乙葵が相手に知られたくなかったら、どうするんだ」と詰め寄ってきた。
「先方の身内に相談しているんだ、千香良に問題はないだろ。それに、父親なら知る権利があるだろ。分かっていて黙っているほうが問題だ。」
けれども父は千香良の味方。
暫く瞠目した後に言ってくれた。
「でも、8歳だろ。俺なら今更、知りたくないね。黙って生むなんて卑怯だ」
売り言葉に買い言葉。
負けず嫌いの兄が馬鹿のことを言う。
「お兄ちゃんにはがっかりだわ。自分の子供の存在を知りたくないなんて……見損なった」
そして、母のダメ押しに兄は俯く。
本音かどうかは分からないが兄らしい言い分だ。
「母さんも、そう言ってやるな。人それぞれだ。もう、この話題は終わりだ。乙葵さんのプライベートには口を挟まない。分かったな」
千香良はやっと安心して眠れる気がした。
嵐に後は凪。
けれども、暫くは濁っている。
千香良の視界が晴れるには、もう少し時間が必要だ。




