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「ギルフォード様、指貫は玩具ではありませんよ」
メイドのレイチェルは慌てたように、赤子の手から指貫を取り上げた。
当の本人は、それがとても不満らしく、返してと言わんばかりに手を振って抗議している。
「そんなに怒らないで、ギル。ほら、これはどう?」
リリーが笑いながら、綺麗に洗濯されたハンカチをヒラヒラさせると、ギルと呼ばれた赤ん坊は、すぐに手を伸ばした。
もう指貫のことなど忘れたように、夢中でハンカチをハムハムと甘噛みしている。
「最近のギルったら、何でも口に入れちゃうんだから。レイチェル、ごめんなさいね」
「いえ、私がポケットに入れてあったのがいけないんです。まさか、見つけてしまわれるとは思いませんでした」
レイチェルは絶対にギルフォードの手が届かない場所に指貫を置くと、ホッと息を吐き出した。
「それにしても、ギルフォード様は好奇心旺盛ですね」
最近では寝返りを覚え、あちこち転がろうとする。
乳母や使用人達は、そんなギルフォードが怪我をしないかと心配しているらしく、一瞬たりとも目を離せないと、気を張っていた。
ギルフォードが産まれて、約半年。
ギルフォードという名は、ダレンの曽祖父からいただいたものだ。
産後しばらくは体調を崩していたリリーも、今ではすっかり元気を取り戻している。
ギルフォードと過ごす時間は、リリーにとって何より幸せなひとときだった。
「奥様、そろそろジニー様がお越しになるかと」
「そうだったわね、準備をお願い」
ジニーの来訪に備え、お茶の準備をしていると、時間通りに彼女は訪ねてきた。
「いらっしゃい、ジニー」
「ご機嫌よう、お義母様。お身体のかげんはどうですか?」
「もう大丈夫よ、いつもありがとう」
「それなら良かったです。ギルも元気かしら?今日も良い子にしている?」
ギルフォードはハンカチに夢中で、ジニーの挨拶には見向きもしなかったけれど、それでもジニーは「可愛い」と言って、十分満足していた。
幼い弟を初めて見た時から、もうジニーは完全にギルフォードの虜である。
ジニーとは一度出産の件で揉めてしまったが、その後すぐに仲直りした。
エイミーと同じく、許さないで欲しいとジニーに言われた時は驚いたが、エイミーと話して彼女も何かしら思うところがあったらしい。
喧嘩できるくらい近しい存在になれたことが、リリーは妙に嬉しかった。
「今日、お父様は?」
「お仕事よ。宮殿に呼ばれているわ。あ、でも帰ってきたみたい」
窓から、ちょうど馬車を降りるダレンを見つける。
ジニーは幼い頃と同じように、ダレンを玄関まで出迎えに行くというので、リリーもギルフォードを抱きかかえ付き添った。
玄関で、リリー達の姿を見つけたダレンは、ぱっと顔をほころばせた。
まず、ジニーに、そしてリリーとギルフォードにキスをしてから「ただいま」と言った。
「お父様、おかえりなさい」
「早かったのね。もう少しかかるかと思っていたけれど」
「ジニーが来ると聞いていたから、早く帰って来たんだ。ジニー、まだ時間はあるのかい?良ければ、一緒に夕食をどうだ?」
「そうしたいけれど、ジャックがお家で待っているから」
「今日、彼の仕事は休みなの?」
「午前中だけ診察があったけれど、午後からは休みみたいです」
「じゃあ、彼も呼びましょうよ」
迷惑かもしれないと思ったけれど、ジニーは「喜んで」と二つ返事で答えた。
ジャックも快く応じ、その夜は久しぶりに家族全員で食卓を囲んだ。
仕事のこと、家族のこと、友人のこと、会話は絶えず、家族団欒の時間はあっという間に過ぎていった。
気付けば、すっかり遅い時間になっていたので、ジニー達には泊まっていってもらうことにした。
最近はこうして集まることも増え、お互いのライフスタイルに変化はあれど、変わらずに交流できていることが、とにかく嬉しかった。
「ギルは良く寝ているみたい」
リリーは、食後すぐにぐずり出したギルフォードの様子を見に、子ども部屋へと足を向けたが、当のギルフォードは幸せそうに夢の世界へと誘われていた。
ジニー達も客室へと移動した今、リリーとダレンは二人きりになった。
リリーがダレンの隣に腰掛け、寄りかかると、ダレンは優しくリリーの肩を引き寄せ、頬にキスをしてくれた。
「お疲れ様。今日は楽しかったね」
「ええ、あなたといるといつもそう。幸せだわ」
「私もだよ」
「そういえば、今日はどうして宮殿に呼ばれていたの?」
「ああ、公妃様の件だよ。君は陛下から聞いて知っているとは思うけれど、先日陛下が公妃様を訪ね、お二人は和解された」
「本当?それは良かったわ」
出産でバタバタしていて、その後女王と公妃がどうなったのか、よくわからなかったけれど、どうやら上手くいったらしい。
リリーは心底安堵した。
「公妃様はただ悲しんでおられただけだった。陛下をお責めになることはなく、家令と離れなくてはならないことも理解しておられた。妊娠の誤解も解けたよ。公妃様は実は腸閉塞だったらしい。そのせいでお腹が膨らんでいたようだ」
「公妃様は大丈夫なの?」
「ああ、先日、手術を受けられて、今は回復に向かっている。今日はその報告の為に宮殿に伺ったんだ」
「そうだったのね。でも、本当に良かった。安心したわ」
女王と公妃は、リリーが宮仕えを始めた時から、ずっと仲違いしていた。
和解したなら、万事うまくいったということなのだろう。
ーー陛下は随分と勇気を出されて、公妃様と向き合ったはず。それが報われて本当に良かったわ。
昔、リリーもまた人と向き合うことを恐れていた。
だからこそ、女王の苦悩は十二分に理解できたし、それを乗り越えることがいかに困難であるかもわかっていた。
手遅れになる前に、女王達がわだかまりを解くことができたのなら喜ばしい限りである。
「陛下も君に感謝していたよ。背中を押してくれてありがとうと仰っていた」
「私は、別に大したことはしていないわ。むしろ、あなたの方こそ尽力したんじゃないの?」
ダレンは詳しくは言わなかったけれど、この件は王家に関わる問題なだけに、首相が関わっていたのは間違いない。
以前、ダレンが言っていたように、首相が女性との接し方に難儀するタイプであるならば、きっとダレンも手を貸したはずだ。
特に、公妃との接し方にはコツが必要だった。
いくら女王が向き合おうと努力しても、肝心の公妃が素直になれなければ、二人が和解することはなかっただろう。
「何と言って公妃様を説得したの?」
「特にないさ。同じ親同士、通じ合うところがあっただけで」
「娘との向き合い方について、一度も悩んだことがない親はいないからね」とダレンは言った。
ダレンとジニーの仲はすこぶる良いので、困ったことなどないと思っていた。
けれど、そうではないらしい。
ダレンが良い親なのは、彼がそうあろうと努力した結果なのだ。
「あなたのそういうところが大好きよ」
リリーは自分からダレンに抱きついた。
ダレンも「わかってるよ」と抱き締め返してくれた。
こんな穏やかな日々が、いつまでも続けばいい。
そして、大切な人たちも皆、この先ずっと笑顔でいてほしい。
リリーは、そう強く願った。




