after 35
リリーは、誰かに手を握られたような気がした。
ダレンではない。
ダレンの手はもっと大きくて温かいからだ。
リリーの手を握る手は、少しひんやりとしていて、気持ちがいい。
誰だろうと考え、でも、その答えは出なかった。
ーーリリー。
どこか懐かしい声だった。
リリーはその声の主を知っている。
知っているのに、どうしても思い出せない。
ーーしっかりして。君はこんな所で死んじゃいけないんだ。
諭すような、縋り付くような、そんな声音だった。
どうしてだろう、この声を聞いていると、酷く切なくて涙が溢れてしまうのは。
ーーさあ、目を覚まして、リリー。君の愛する人達が待っているよ。
リリーが重い瞼を開けた時、周囲は暗闇に包まれていた。
目が慣れてきて、ようやく、ここがカントリー・ハウスの自分の寝室だと気付く。
暗いのは、どうやら夜中だからだろう。
皆、寝静まっているのか、物音さえしない。
そこで、初めてリリーは自身が置かれている状況を思い出した。
ーーそうだわ。私はお産中に意識を失ってしまったんだったわ。
赤ちゃんは無事に産まれたのだろうか。
目下の気がかりはそれだけで、リリーは周囲を確認した。
が、誰もいない。
リリーが誰か呼ぼうと口を開いた、ちょうどその時……。
ーー眩しいわ。
急に一所から光が溢れてきて、リリーは目を細めた。
誰かが扉を開けて、室外の灯りが漏れ出たようだった。
ーー誰なの?
そう尋ねたつもりだったが、声が出ない。
正解には、掠れた音しか出ていなかった。
喉に違和感を覚える。
お産の間、あれだけ叫べば、喉も痛んで当然だった。
「リリー?」
名を呼ばれただけだったが、誰かはすぐにわかった。
この優しい声を、リリーが間違うはずがない。
「…レ……ン」
か細い声音になってしまったが、相手には理解できたらしい。
慌てた様子で、ベッド脇にまで近付いて来た。
「ダレン……」
もう一度、呼ぶ。
小さかったが、今度ははっきりと声が出た。
「ああ、リリー。良かった、本当に良かった。君が目覚めなかったら、私は……」
「どうして……」
「え?」
「どうして抱きしめてくれないの?」
ダレンは困ったように笑った。
「抱きしめたい。でも……」と、彼の視線が腕の中へ落ちる。
そこで、ようやくリリーは気付いた。
ダレンの両手は塞がっていた。
ダレンは一人ではなかったのだ。
「あなたが抱き上げているのは、もしかして……私達の赤ちゃん?」
「ああ、そうだよ。私達の大切な、目に入れても痛くないくらい愛しい我が子だ」
ダレンはリリーにも見えるように、身体の体勢を変えてくれた。
が、いかんせん、暗くてよく見えない。
リリーが目を細めたのがわかったのだろう。
ダレンは急いで傍らに置いてあったベルを鳴らした。
「旦那様、いかがいたしました」
「蝋燭の灯りをつけてくれ。あと、ジャックをここへ。リリーが目覚めた」
言われた使用人は、あっという間に居なくなり、また別の使用人が来て、灯りを灯していった。
「いきなり明るくし過ぎると、この子が目覚めてしまうから、これで我慢して欲しい。どう、見えるかな?」
「ええ、よく見えるわ」
ダレンの腕の中では、小さな赤子が静かな寝息を立てていた。
頬はほんのり赤く、産毛のような髪が額に張り付いている。
そのあまりにも小さな姿は、この世界へたどり着いたばかりの小さな旅人のようだった。
「可愛い、なんて可愛いのかしら」
リリーは囁いた。
眠りを妨げないよう、そっと小さな指に触れる。
壊れてしまいそうなほど繊細な指は、しかし、温かく、確かにここに生きて存在していることを証明していた。
「子爵」
振り返ると、いつの間にか、ジャックが立っていた。
使用人に呼ばれて急いで駆けつけたのだろう、ジャックの息は荒かった。
「お気持ちはわかりますが、まず診察を」
「わかった」
ダレンは申し訳なさそうにリリーを見やった。
名残惜しくもリリーが頷くと、ダレンはそっと離れ、ジャックにその場を譲った。
リリーは診察を受けている間も、ずっとダレンと我が子が退室した扉の方を見やっていた。
「とりあえず危機は脱したようです」
診察を終え、ジャックがそう告げた時、リリーはふと気になって尋ねた。
「もしかして、私はかなり危険な状況だったのかしら?」
「はい。大量に出血されました。一時は危篤状態でしたが、止血処置と輸血が間に合いました。とはいえ、予断を許さない状況であることに変わりはありません」
「赤ちゃんは、大丈夫なの?」
「今のところ、大きな問題はありません。少なくとも、あなたよりは健康です」
「良かった」
リリーは深々と頭を下げた。
「ジャック、本当にありがとう。私と赤ちゃんがこうしていられるのは、あなたと助産師さんのおかげだわ。特に、あなたには大変なリスクを背負わせてしまってごめんなさい」
母体優先が医学的な規範である以上、これでリリーが亡くなっていたら、それは全てジャックの責任になっていた。
医師としての彼の評判とキャリアは地に落ちていただろう。
ジャックはそれを承知で、リリーの出産に立ち会ってくれた。
感謝してもしきれない。
「頭を上げてください。あなたはジニーにとって大切な存在で、それは私にとっても同じこと。私は彼女が悲しむ姿は絶対に見たくなかった。だから、この出産に立ち会ったのです。一時はどうなることかと肝を冷やしましたが、まあ、結果良ければ全てよしです。ただ、まだ予断を許さない状況であることに変わりはありません。無理は絶対にしないこと、いいですね?」
「……わかったわ」
つまり、また赤ん坊に会えるのは先ということだ。
リリーは肩を落とした。
「でも、少しだけなら大丈夫でしょう。あなただって我が子をその手で抱きしめたいでしょう?」
「それって……」
「待っていてください。子爵を……お義父さんを呼んできます」
「あ、ありがとう!」
しばらくして、ダレンと赤ん坊を抱いたレイチェルが入って来た。
ダレンは開口一番「無事で良かった」と言って、リリーを抱きしめた。
ダレンの手は震えていて、相当の心配をかけていたことが伺える。
リリーは涙が溢れそうになって、思わず震える声音で言った。
「沢山、心配をかけてごめんなさい。私の我儘に付き合ってくれてありがとう」
「いいんだ、我儘だなんて思っていない。君がこうして私の腕の中でいてくれるんだ。今は、もうそれだけでいい」
リリーは何度も頷いた。
自分で選んだこととはいえ、本当は怖くて怖くて仕方がなかった。
死ぬことが、ではなく、ダレンともう二度と会えなくなることが、何より恐ろしかった。
こうして抱き合えることが当たり前ではないのだと、リリーは身にしみて感じたのだった。
リリー達がひとしきり喜び合った後、後ろで控えていたレイチェルが「奥様、本当にご無事で何よりです」と破顔して言った。
「ありがとう、レイチェル。心配をかけたわね」
「彼女はずっと君に付き添っていたんだよ。ジャックと共に、夜通し処置の手伝いをしてくれたんだ」
ずっと付き添ってくれていたのは、その目の下のクマを見れば一目瞭然だった。
忠義に厚いレイチェルには、本当に感謝しかない。
「そうだったのね。本当にありがとう。何かお礼が出来れば良いのだけれど」
「構いません。私が奥様に尽くすのは当然ですから。それよりも、早くお子さまを抱いて上げてください」
「いいの?」とジャックを見やると、彼はニッコリと微笑んで「少しだけなら」と言って頷いてくれた。
促されるまま、リリーは恐る恐る両手を差し出した。
レイチェルから丁寧に赤ん坊を預かり、胸に抱く。
小さな胸は忙しなく上下し、赤子特有の甘い香りがした。
「私の赤ちゃん。あなたはなんて可愛いの」
優しく語りかけると、赤ん坊はかすかに目を開き、口を小さく開閉させた。
その無垢な行動を見ているだけで、優しい気持ちになれた。
「性別はどっち?」
「男の子だ。名前を考えないといけないね」
女の子なら祖母の名前を貰おうと思っていた。
男の子の場合は、まだ考えていない。
昔なら、詩の一節からリチャードと名付けようと思っていたが、その名を持つ子はすでにいる。
新しい名前を考えなくてはならなかった。
「どんな子に育って欲しい?」
「元気で優しい子に育ってくれたら嬉しい」
「そうね、私もそう思うわ」
リリーがそう言った時、ふと赤ん坊が何かに気付いたように、その小さな手を伸ばした。
まだ産まれて間もない赤子の視力は未発達で、明るさがぼんやりわかる程度だというのに、これはどうしたことかと、リリー達は顔を見合わせた。
伸ばされた手の先を追って、ベッド脇にある窓へと視線をやるも、当然、そこには誰も何もない。
「どうかしたのかしら?」
やたら手を振り振りしているので、ダレンは窓を開けた。
燭台で辺りを照らし、まだ暗い室外を確認する。
「おや?これは……」
「なあに?」
「花だ。窓枠に、花が置いてあった」
振り返ったダレンが手にしていたものを見て、リリーは驚いた。
その花には見覚えがあったからだ。
「……ネリネだわ」
ユリに似たピンクの小さな花が放射上に咲いている特徴的な花だ。
リリーにとって思い出深い花だったので、見間違えるはずがなかった。
「確かに、言われてみればネリネだね。ほら、燭台の光で花弁がキラキラと光っている。その子が反応したのも、このせいかもしれないな」
「ええ、そうかもしれないわね。でも、どうしてそんな所にネリネが?」
「さぁ、誰かが置いたのかな。レイチェル、わかるかい?」
「いえ、奥様にずっと付き添っていましたが、誰もそんな所に花は置いていません。可能性があるとすれば、先ほど奥様が目覚める直前、私は水を取りに席を外しておりましたので、その時かと」
「ここは二階ですが、木が近くにあるので、外から誰かが置いた可能性も……」
ジャックはそこまで言って、はたと口を閉じた。
ダレンと険しい視線を合わせているので、もしかすると不審者を疑っているのかもしれなかった。
しかし、リリーにはどうしても良からぬ人間の仕業とは思えなかった。
ーーさあ、目を覚まして、リリー。君の愛する人達が待っているよ。
ふと、リリーは目覚める前、呼びかけられたあの懐かしい声音を思い出した。
そうだ、どうしてすぐに気付かなかったのだろう、あの声の主は……。
ーーサイラス、あなたなの?
以前、湖に落ちて死にかけた時、亡きジェイソンとリチャードが夢に出て来て助けてくれたように、サイラスもまた会いに来てくれたのだろうか。
生死を彷徨うリリーに「生きろ」と激励を飛ばしてくれたのだろうか。
ーーでも、そうだとしたら、このネリネの花は一体……?
これは夢ではなく、ここに実在する物だった。
現実的に、誰かが置いたとしか思えない。
ということは、あの声はリリーの妄想ではないということだろうか。
リリーはもう一度、ネリネの花を見つめた。
ネリネの花言葉は「また会いましょう」。
その意味を考えるも、やはり答えは出なかった。
しかし、一つだけ確かなことがある。それは……。
ーーサイラス、私、母親になったわ。可愛い男の子のお母さんになったのよ。
サイラスのおかげでダレンと結婚し、諦めていた子どもにも恵まれた。
この幸せは、サイラスが繋いでくれた縁の先にあった。
絶対に幸せになろうと思った。
それが、最後にサイラスが願ってくれたことだったから。
ネリネを見つめながら、リリーは自分の右手にそっと左手を重ねた。
あのひんやりとした温もりが、まだ残っているような気がした。




