after 31
妊娠中のリリーを襲ったのは、今まで経験したことがない身体の変化だった。
ホルモンの影響で、とにかく疲れやすく、腰痛に悩まされては、少しでも楽な姿勢を探し、寝台に横になる時間が増えていった。
そんな中、特にリリーを悩ましたのは、酷い悪阻の症状だった。
洗面器を抱えたまま朝を迎えることも珍しくなく、脱水症状が起こり、発熱することも多々あった。
精神的に辛く、不安かと問われれば、リリーは大きく首を縦に振るだろう。
それでも、妊娠して間もなく流産した過去を持つ彼女にとっては、自分の体調以上に、お腹の子が無事に育っているのかが気掛かりだった。
だからこそ、ダレンが用意してくれた医師やお産に詳しい使用人達の存在はありがたかった。
不安なことがあっても、すぐに診てくれ、アドバイスをくれたからだ。
そして、何より心の支えになったのは、やはりダレンをはじめとする家族と友人達、そして忠義の使用人達だった。
夜通し付き添ってくれたダレン。
医師として相談に乗ってくれたジニーの夫ジャック。
少しでも楽なドレスを仕立ててくれた友人のシルビア。
そして、四六時中、傍を離れなかったメイドのレイチェル。
他にも多くの者が、リリーの身体のことを、リリー以上に心配し、気遣ってくれた。
おかげで、リリーは決して一人ではなかった。
特に、胎動を感じるようになってからは、お腹の子への愛おしさが増し、さらにリリーに勇気をくれた。
ーー私のお腹の中で、赤ちゃんが育っているなんて、未だに信じられない。まさに生命の神秘だわ。
お腹を優しくさすりながら、リリーは感慨に耽っていた。
辛い悪阻の時期を過ぎ、安定期に入ったリリーは、ようやく食欲も戻り、体調も随分と良くなっていた。
今でも、頭痛や浮腫が酷い日はあるものの、山場は過ぎたと、リリーは感じていた。
「これも、あなたのおかげね」
リリーは傍らで本を読んでいたダレンに微笑みかけた。
ダレンは「うん?」と顔を上げ、リリーに笑みを返した。
彼が読んでいたのは、医学書だ。
義理の息子であるジャックに用意してもらったもので、今やダレンの愛読書になっている。
彼は、リリーとお腹の子の為にできることは全てやると決めているようだった。
妥協するつもりなどないのだろう。
「何の話だい?」
ダレンは、医学書に栞を挟み、傍らのテーブルに置くや、リリーが横になっているベッドに腰掛けた。
リリーが手を伸ばすと、その手を取り、口付けをしてから、ダレンはもう一度「どうかしたの?」と問うた。
「あなたのおかげで、私はとても満たされているって思ったの。勿論、私だけじゃない、この子にとってもね」
「それは、私の方だよ。君達のおかげで、私は夫としても父親としても、これ以上ない幸せな人生を歩めている」
ダレンにぎゅっと抱きしめられ、リリーもそれに応えた。
ダレンからは昔のように香水の匂いはしない。
リリーが酷い悪阻に悩まされるようになったのを機に、ダレンは香水を付けるのをやめたのだ。
それでも、ダレンからは優しく暖かい陽だまりのような匂いがした。
出会った時と変わらぬ清廉さだった。
リリーはさらにダレンのことが愛おしくなった。
「そういえば、今日は夕方から先生が往診に来られるんだ。こんな風に抱き合っていては、また恥ずかしい思いをしてしまうよ」
妊娠が判明した時、周囲の目を忘れて二人の世界に入ってしまったことを思い出し、リリーとダレンは声を出して笑った。
穏やかな午後に相応しい、家族の団欒だった。
だからこそ、夕方にやって来た医者に言われた内容は、二人にとってかなりの衝撃であった。
「え?先生、今、何と仰いましたか?」
「ですから、奥様は妊娠中毒症の恐れがあると申し上げたのです」
医師の神妙な表情から、リリー達はすぐに事の深刻さを悟った。
とはいえ、素人のリリー達にとって"妊娠中毒症"ということばは、初めて聞く単語であった。
それを良く理解していた医師は、こちらが尋ねる前に口を開いた。
「妊娠中毒症というのは、妊娠中、高血圧になる病気のことです。奥様は今、浮腫や頭痛症状がありますね?」
「は、はい。日によりますが……」
「検査しましたが、奥様は血圧が高く、尿の性状にも異変があります。高齢で、初産婦であることからも、妊娠中毒症の可能性が高いと私は考えています」
「それは、大変な病気なんでしょうか?血圧が高いだけですよね?」
「単に、血圧が上がることが問題ではないのです。母体にも、お子様にも生命の危険が及ぶ病です」
「そんな……!」
医師は「最悪の場合、奥様もお子様も助からない可能性があります」と硬い表情で言った。
リリーは一気に血の気が引いていくのがわかった。
ダレンも険しい表情で、唇を噛み締めている。
「勿論、母子共に健康なまま出産できる可能性はあります。ですが、最悪な状況になった時、今の医療技術ではどうすることもできません。こんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、そうなった場合に備えて、心構えをしておいた方がよろしいかと」
「……心構えというのは?」
「医学の世界では、母体優先という原則があります。私達医師は、結果的に胎児の命を危険に晒してでも、母親の命を優先させなければならないのです」
母体優先というのは、母体が危険になれば、母親を救うことを選ぶのが医師として当然の務めだという考え方らしい。
つまり、医師は危険な状況になれば、お腹の子よりもリリーの命を守ると言っている。
リリー達に、我が子の生命を手放す心構えをしておけと、そう宣言しているのだ。
なんて辛辣なんだろうと思う一方で、医師もまた好き好んで、こんな事を口にしている訳ではないという事も理解できる。
リリーは目を閉じた。
瞼の裏に、亡きリチャードの姿が過った。
妊娠してすぐ流産してしまったので、実際には産まれてさえいない我が子。
でも、心から愛する我が子だ。
ーーねえ、僕のこと、目が覚めても覚えていてくれる?これからもずっと好きでいてくれる?
生死を彷徨った時、夢の中でリチャードに問われたことばを頭の中で反芻する。
あの時、リリーは「ずっと愛している」と答えた。
「ダレン」
呼びかけると、ダレンは既にリリーを見つめていた。
理知的な榛色の瞳は、何も言わずともリリーの心を見透かしているようだった。
ーーああ、この人と結ばれて本当に良かった。
ダレンとは初めて会った時から、お互いに好意を寄せていたように思う。
一度は諦めて、心に蓋をしたけれど、思い切って想いを伝え、永遠の愛を誓い合った。
それら全ての思い出が、リリーにとっての幸福そのものであった。
ダレンの手を探すように、リリーは震える指を伸ばした。
指先が触れると、張り詰めていた心が少しだけ解けた。
「ダレン、愛しているわ」
リリーの頬を涙が伝った。
細められていたダレンの目が大きく見開く。
ダレンの表情には一瞬の苦悩が見てとれたが、それを振り払うように微笑を浮かべ「私も愛しているよ」と言って、リリーの涙を拭ってくれた。
「だからこそ、わかる。君は産みたいんだね」
「ええ」
せっかくダレンが拭ってくれたのに、また涙が溢れてしまう。
死ぬことが怖くて流れている涙ではない。
この愛する人を残して逝ってしまうかもしれない後悔の涙だ。
リリーはダレンとおでこをくっ付けて、秘密を打ち明けるように囁いた。
「私ね、この子を愛しているの。この半年、私のお腹にいて酷い悪阻で私を苦しめたこの子を心から愛しているのよ。だからね、もし何かあった時は、その時は……」
「わかってる。君の意思を尊重するよ」
「ごめんなさい」とは口が裂けても言えなかった。
代わりに「ありがとう」と囁く。
ダレンはただ微笑んでいた。
残された者の苦しみは十分知っているだろうに、それを微塵も感じさせない穏やかな笑みだ。
リリーはもう一度「ありがとう」と言って、ダレンに身を委ねた。
諦めかけて、でも想いを伝える為に、彼の胸の中に飛び込んだあの時のように。




