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after 32


「今日は調子が良いみたいで良かったです」


リリーの血圧を確認しながらそう言ったのは、ジニーの夫であり、医師でもあるジャックだった。

几帳面に血圧値を記録していた彼は、小さく息をついた。

その安堵した様子につられ、リリーも胸を撫で下ろした。

妊娠中毒症の一件以来、診察はジャックに任せることにした。

今までお世話になっていた医師からは、胎児を優先させるというリリー達の決断に対して、どうしても納得してもらえなかったからだ。

腕の良い医師だっただけに残念ではあるが、分娩に関して経験豊富な助産師も手配することになり、リリーには大きな不安はなかった。


「他に、何か体調面で変わったことはありますか?」

「特にないわ」

「それは何よりです。少しでも何かあれば遠慮なく仰ってくださいね」

「ありがとう。家族に医学に精通している人がいるのは、本当に心強いわ。これからもよろしくね」


ジャックは穏やかに微笑むと「では、これで」と言って立ち上がった。


「もう行ってしまうの?久しぶりに顔を合わせたのだから、もう少しゆっくりしていけばいいのに」

「申し訳ありません。これから別の患者さんの診察が入っているので」


町医者として、ジャックはかなり有能らしい。

沢山の患者を抱え、日々彼らの為に尽くしているのだろう。

時間を惜しんで診療を続ける姿には、頭が下がる思いだった。


「じゃあ、引き留めてはいけないわね。お仕事頑張って。ジニーにもよろしくね」

「はい」


ぺこりと頭を下げてから、ジャックは部屋を出て行った。

本当は見送りたかったけれど、いつもジャックには丁寧に断られるので、提案するのは諦めている。


「奥様、この後はノートン伯爵夫人がお越しになられる予定ですが、体調はいかがですか?」


傍らに、静かに控えていたメイドのレイチェルに尋ねられ、リリーは「大丈夫よ」と請け合った。


「あなたも聞いていたでしょう?今日は調子が良いのよ。でも、お出迎えはあなたにお願いしても構わないかしら」

「かしこまりました」


休憩がてら、リリーは少しだけ横になった。

欠伸が一つ漏れ、うつらうつらし始める。

瞼を閉じて暫くしてからだろうか、レイチェルから声がかかった。


「夫人がいらっしゃいました」

「あら、もうそんな時間なの?じゃあ、ご案内してちょうだい」


伸びをしてから、身体を起こし、簡単に身だしなみを整えると、まもなくして、エイミーが室内に入ってきた。


「お久しぶりね、エイミー」

「ご無沙汰しております。体調はいかがですか?」

「大丈夫よ、ありがとう。でも、ベッドの上からで構わないかしら」

「勿論です。どうかそのままで」


エイミーは勧められるまま、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。

今日もエイミーは華やかで美しい。

幸せな結婚生活が、彼女をより一層輝かせているように見える。


「今日は手土産を持参いたしました。夫のハロルドからです」

「まあ、ご丁寧にありがとう」

「手作りの敷物です。使用人の方に預けておりますが、外国で人気の工芸品だそうです。彼は、本当は紅茶の茶葉やコーヒー豆を用意したかったようですが」


リリーが妊娠中なので控えさせたのだと、エイミーは言った。

なかなか納得せず大変だったと、ため息混じりに首を振る彼女の様に、リリーは思わず笑ってしまった。


「伯爵は相変わらずね。でも、あなたも負けていないわ」

「当然です。私達は対等ですもの」


自慢げに微笑む姿を見ていると、やはりエイミー達は上手くいっているのだなと改めて思った。

ハロルドから一方的に愛情を向けられていた頃とは違う。

夫婦としての絆の積み重ねを感じた。


「ハロルドは幸せ者ね。貴女みたいな素敵な女性と結婚できて」

「……そうですね」


エイミーの表情が曇ったことを、リリーは見逃さなかった。

その圧倒的な美貌で、いつも自信に満ち溢れているように見える彼女だが、その華やかさの裏には、年相応の繊細さが今も残っている。

エイミーのことを放っておけないのは、その為だ。


「エイミー、どうかしたの?」

「いえ、別に何でもありませんよ。それよりも、せっかくですから、ハロルドの手土産をご覧になってください。とても美しい刺繍が施されているんです。今、お持ちいたします」


エイミーはそう言って、取り繕うように微笑んだ。

そのまま立ち上がり退室する。

その後ろ姿を、リリーはじっと見つめた。


ーー言いたくないことを無理に詮索するのは良くないわね。


ここは、やはり話してくれるまで待つべきだろうか。

そう考えていると、何やら玄関の方が騒がしくなった。

今日はエイミー以外、来客はいなかったように思ったが、違ったのだろうか。


「見て参ります」


控えていたレイチェルが俊敏に動く。

エイミーもレイチェルも退室し、誰も居なくなった室内で一人リリーが待っていると……。


「お義母様!」


突然、室内に入って来たのは、ジニーだった。

どうしてジニーが?そう思うと同時に、騒がしかったのは彼女が原因だろうかと考える。

ジニーであれば使用人達も、今さら騒ぎ立てることはないと思うのだが。


「突然のご訪問ごめんなさい。でも、私、どうしてもお義母様に直接会って確かめたいことがあったのです」

「謝ることないわ。貴女に会えて、私はとても嬉しいもの。とりあえず、座ってちょうだい」


促すも、ジニーは腰をかけることなく、リリーのベッド傍らまで一気に詰め寄って来た。


「お父様から聞きました。お腹の赤ちゃんのこと。本当に産むおつもりですか?」

「ええ」

「お義母様が死んでしまうことになっても?」

「ええ……」

「そんなの嫌です!」


ジニーはポロポロと大粒の涙を流して叫んだ。

未だかつて、彼女がここまで大声を出したことなどない。

それほど、ジニーにとっては切実な事だったのだろう。


「やっと家族になれたのに……私のお義母様になってくれたのに……それなのに死んでしまうなんて絶対に嫌です!」

「落ち着いて。まだ死ぬと決まった訳ではないわ」

「でも、危険な状況になった時、お義母様はご自分の命よりも赤ちゃんの命を優先するのでしょう?!そんなのあんまりです!どうか考え直してください!」


ジニーは泣きながら、リリーの手を取った。

祈るようにリリーの瞳を見つめる様は、まるで初めて出会った時のような幼さを感じさせた。


「子どもならまた授かれるかもしれない。でも、お義母様の代わりはいないのです。お腹の子は……その子は別に居なくてもいいじゃないですか!」

「ジニー……」


あまりにも悲痛な叫びだった。

苦悩で歪むジニーの表情を見ていられなかった。

彼女は理解しているのだ。

自分が酷い事を言っているという事を。

リリーは握られた手を、もう片方の手で優しく包み込んだ。


「ごめんなさい。あなたをこんなに苦しめてしまって……。こんな決断しかできない愚かな義母ははで、本当にごめんなさい。でもね、ジニー、私にとってはこの子の代わりなんていないの。半年以上、私のお腹にいて私を悪阻や不眠症で悩ませたこの子だから産みたいのよ」


ジニーは殴られたように、肩を揺らした。

リリーの手を勢いよく振り払って、距離を取る。

それは完全な拒絶であった。


「お義母様は自分勝手だわ!残された人達の事なんて何も考えていない!お母様が亡くなった時、どれだけお父様が嘆き苦しんだかことか!私に心配かけまいと、必死に悲しみを隠していたお父様にまた同じ苦しみを与えるなんて、あまりに身勝手で酷い仕打ちだわ!お義母様なんて、大嫌い!」


ジニーは叫ぶやいなや、その場を走り去ってしまった。

リリーが慌てて追いかけようとすると……。


「お待ちください」


手土産を持って戻ってきたエイミーに制止される。

エイミーは近くのテーブルに手土産を立てかけると、静かに言った。


「私が追いかけます。だから、どうかそのままで」

「でも……!」

「今は、貴女にだけは追いかけて来て欲しくないはずです。きっと今頃、酷く後悔していると思うから……だから、私に任せていただけませんか?」


問われ、リリーは頷くしかなかった。

今リリーが追いかければ、ジニーをさらに追い詰めてしまうからだ。


「……ジニーのこと、お願いします」

「はい」


エイミーは請け合った後、すぐさま踵を返した。

リリーはただ二人が出て行った扉を見つめる他ない。

そのなんと辛いことか。


ーー私はなんて酷い事をしてしまったんだろう。でも……。


どうしても、この子を産みたかった。

まだ産まれてもいないお腹の子を、リリーはすでに愛してしまっていたから。


「入ってもいいかしら」


突然、話しかけられてリリーは肩を揺らした。

声の主があまりに意外な人物だったからだ。


「陛下……?どうして、こちらに?」


今日、来訪の予定はなかったはずだ。

そもそも女王を招待するなら、それは茶会だったり夜会だったり、大々的なもの以外にはあり得ない。

が、今のリリーには、そんな集まりを開く事など出来ようはずがなかった。


「ごめんなさいね。招待なく来てしまって。でも、どうしても直接会って話したい事があったの。入っても?」

「ど、どうぞ」 


リリーは慌てて立ち上がろうとしたが、女王はそれを手で制した。


「あなたはそのままで。妊娠中なんだから」

「あ、ありがとうございます」


咄嗟に、どうして玄関先が騒がしくなったのか理解した。


ーー陛下の突然の来訪に、驚かない人はいないわ。


リリーでさえ、頭が真っ白になっているのだ。

使用人達はそれ以上だろう。

と、そこまで考えて、ようやくリリーは女王にお茶さえ出していない事に気付いた。

誰かを呼ぼうと口を開き、しかし、それはまたしても女王によって遮られた。


「結構よ。使用人達にもそう伝えてあるわ。私、貴女と二人きりで話したかったの」


つまり、人払いしたという事なのだろう。

リリーは混乱しながらも、素直に頷いた。

すると、女王は本題に入る前に「ごめんなさい」と前置きしてから話し始めた。


「先程の会話、私、聴いてしまったの。不躾な質問で申し訳ないけれど、あなたは本気でお腹の子の為に死ぬつもりなの?」

「この子の為ではありません。私の為です。私自身が、お腹の子に生きていて欲しいと思ったから決断いたしました」

「それは……それは一般的な事なのかしら。つまり、あなたが愛情深い人間だから出産する道を選んだ訳ではなく、母親って、皆、そういうものなのかしら」

「母親にも様々な人がいます。けれど、少なくとも私はお腹の子を愛しています。陛下、もし、よければお腹に触ってみますか?」


問うと、女王は逡巡の後に小さく頷いた。 


「あ、動いたわ!」


ちょうど、女王が手を当てた瞬間に、振動が伝わったようだ。

女王は、初めてリリーが胎動を感じた時と同様、心打たれたように、瞳を輝かせた。


「凄い、この中に赤ちゃんがいるなんて……」

「信じられないですよね。でも、確かにこの子はここにいる。私のお腹の中で生きているんです。だから、どうしても産みたいと思ってしまう。これは理屈ではないんです」

「……あなたはもう母親なのね」

「はい。私はこの子の母で、心から愛しているのです」


女王は、微笑むリリーの表情をじっと見つめた後、そっと手を離した。


「お母様も……お母様も私の事を愛してくれているかしら。酷い仕打ちをしてしまった私を、それでも愛してくれるかしら」


急に公妃の話題になったので、リリーは首を傾げた。

女王は憂鬱そうに「実はね」と口を開いた。


「先日、首相からあの男……以前、話したお母様の家令を排斥するべきだと言われたのよ。お母様の、ひいては私自身の信用を貶められる前にって。どうやら、あの男、直接、首相に打診したみたい。公妃の元を離れてやる代わりに、爵位と手切れ金を寄越せと」


そこで、女王はことばを切った。

思い出して、余計に腹が立ったのだろう。

唇を強く噛み締め、一点を睨み付けている。

リリーは心底、同情した。


「私は当然、そんな無礼極まりない提案に乗るつもりはなかった。でも、首相は実益を取るべきだと言って……結局、私は了承してしまった。お金だけ渡して、お母様の元を去らせたのよ」


爵位はさすがに与えられなかったのだろう。

何の功績もない者にホイホイと授爵できるほど、爵位というものは安くはない。

とはいえ、手切れ金を渡すだけでも女王からすれば屈辱的だったに違いない。


「ご心痛お察しいたします」

「違うの。心痛めているのは、私じゃない。お母様なの。あの男が去ってから、お母様はずっと部屋に引きこもって出てこない。あいつを追い出した私の事をきっと酷く恨んでいるんだわ」


ギュッと自身の肩を抱きしめ、女王は「怖いの」と吐露した。


「お母様に責められることが、突き放されることが怖くて怖くて仕方がない。あんな男、お母様には相応しくないし、居なくなってせいせいしているけれど、お母様にとってはきっと大切な人だった。私よりもずっと大切で愛する人だったんだわ。私、取り返しのつかない事をしてしまったのかもしれない……。私はどうすればいいの?」


縋り付くように問われ、リリーはただ「会いに行けばいいんです」と静かに言った。


「部屋から出てこないくらい悲しんでいるのであれば、陛下から会いに行ってさしあげなければいけません」

「でも、どんな顔をして会いに行けというの?私が決めたのよ?お金を渡すから、お母様と別れろって」

「違います。見返りを要求したのは家令自身です。以前、陛下が仰っていた通り、彼は公妃様のことを愛してはいなかったんです。ですから、陛下が責められる謂れはありません。公妃様はただ別離を悲しんでいるだけ。陛下が訪ねれば喜ばれますよ」

「そ、そうかしら」

「はい。愛する我が子が会いに来てくれて、それを無碍にするような母親はいません」


女王のことをロッティと愛称で呼び、迷惑がられても足繁く宮殿まで会いに来るような人だ。

女王のことを愛していない筈がない。

そもそも、本当に女王よりも家令の方を愛しているのであれば、あの公妃のことだ、ウジウジと引きこもらず、決定を覆す為に抗議をするなり、家令を追いかけて行ったりしそうなものだ。

それをせず、公妃が大人しく受け入れている時点で、女王の心配はそもそも杞憂なのだ。


ーーでも、これは第三者だからわかることだわ。


当事者だからこそ、距離が近過ぎて見えなくなるものがある。

だから、リリーは迷わず言えた。

「今すぐ会いに行ってください」と。

女王はしばらく俯いていた。

やがて、小さく、それでも確かな決意を宿したように頷いた。

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