after 30
雨の匂いを敏感に感じながら、リリーはその日、王宮に出向いていた。
妊娠を機に、しばらく宮仕を休む許可を得る為だ。
最近はずっと弱い吐き気に見舞われていたものの、今日は比較的、調子が良く、身体を動かす目的もあっての外出であった。
高齢なリリーにとって、妊娠における注意事項は多く、休暇の申し入れは、女官長によってすぐに受け入れられた。
後は、女王の許可を得るだけなのだが……。
「いえ、陛下は今、その……」
歯切れ悪く、なかなかリリーと視線を合わせようとしない女官長に、リリーは首を傾げた。
「ご都合が悪かったでしょうか?それでしたら、日を改めます」
「ええ、そうしてくださると……」
「余計なお世話よ!」
女官長のことばを遮るように叫んだのは、女王だった。
突然、現れた女王に、リリーは目を丸くしたが、そんなリリーには目もくれず、女王は女官長に食ってかかった。
「どうして貴女が私が誰と会うのかを決めるのよ!いくら女官長だからって、いちいち首を突っ込むのはやめてちょうだい!」
「申し訳ありません」
女官長は素直に謝ったが、その後「ですが」と続けた。
「陛下は今、冷静ではございません。そんな状態ではとても……」
「もう、やめて!貴女まで、私を蔑ろにするというの?!不愉快だわ!」
そう言って、現れた時同様、嵐のような激しさで女王はその場を立ち去ってしまった。
リリーは一瞬、呆気に取られたものの、傍でため息混じりに、こめかみを何度も揉む女官長を同情気味に見つめた。
彼女が今日は都合が悪いと判断した理由を悟ったのだ。
「醜態を晒したわね、申し訳ないわ」
「いえ、私は……」
そう言いながら、リリーは近くにあったカップに紅茶を入れ、女官長に差し出した。
女官長は素直に受け取り、一口飲むと、深いため息を漏らした。
「本当にごめんなさい。陛下は朝からあの様子で手がつけられないんですよ」
「何かあったのですか?」
「それが……」
重い口を開いた女官長によると、朝から例によって、公妃が突然、女王に会いに来たのだと言う。
その後、二人の間でいざこざがあり、激しい口喧嘩にまで発展した挙句、誰もその仲裁ができなかったらしい。
「でも、何が原因でそのようなことに?」
「それが、よくわからないのですよ。私が少し離席していた間に、突然、口喧嘩が始まったようで……」
「他に、同席していた方は?」
「使用人が居たには居たのですが……彼女達は話したがらないんです。内容が内容だからと」
女官長にさえ言えないとなると、かなり個人的で、口外しづらい内容なのかもしれない。
リリーは少し思案した後、小さく頷いた。
「差し支えなければ、私が陛下に直接お話を伺ってみましょう」
素直に話してくれるとは限らないが、このまま放置しておくのは、何となく良くない気がしたのだ。
以前、泣き崩れていた女王を見ている以上、リリーにとっては寄り添ってあげたい気持ちもあった。
リリーは根っからの、優しくて面倒見が良い人間なのだ。
リリーが決心して立ち上がると、女官長は心底、感心したようにリリーを見つめた。
「あなたみたいな責任感が強い女性を女官に抜擢して、本当に良かったわ。でも、体に障らないかしら」
「大丈夫です。今日は調子が良いので、話すだけなら、特に問題はないと思います」
リリーが請け合うと、女官長は安堵したように微笑んだ。
「ありがとう、本当に助かるわ。あなたは陛下に信用されているから、もしかすると詳しい事情を話していただけるかもしれない。きっと陛下は使用人を追い出して、自室に閉じこもっておいででしょうから、誰かに案内させるわね」
「よろしくお願いします」
呼ばれた使用人と共に、リリーは女王の自室がある宮殿内部へと急いだ。
回廊を抜け、階段を上がり、また長い廊下を歩いた先、女王の自室はあった。
豪奢な扉の前で、オロオロと室内を伺っている様子の使用人がいたので、どうやら女官長の予想通り、女王は自室に引きこもっているらしかった。
「あなた達は下がっていてくれるかしら?」
案内してくれた使用人と自室前にいる使用人に向かって言うと、彼女達は何度も頷き、去って行った。
それを苦笑して見送った後、リリーは扉に向き直った。
優しく扉を叩き「陛下」と呼びかける。
応えはなかったけれど、リリーは構わず話しかけた。
「女官長から伺って参りました。リリー・アルバーンです」
アルバーンと名乗った時、少しだけ声が大きくなってしまったのは、ダレンの妻になったことを心から誇らしいと思っているからだったが、果たして女王はそのことに気付いただろうか。
そう考えた時、室内から小さな物音がしたような気がした。
リリーはもう一度「陛下」と呼びかけた。
「先だっては、ご多忙な中、結婚式に足を運んでいただき、本当にありがとうございました。私共をはじめ、参列者みな、光栄に思っております」
返答はなかった。
が、何となく女王は耳を傾けてくれているような気がして、リリーは続けた。
「新婚ゆえ、暫くこちらには伺っておりませんでしたが、相変わらず、王宮は華やかで美しいですね。陛下のご意向の賜物でしょう」
その後も、リリーはひたすら他愛もない世間話を続けた。
Sの新作のドレスの話から今朝の朝食の話まで、リリーは優しい声音を心掛けながら話し続けた。
どのくらいの時間が経ったのか、リリーにもよくわからなかったけれど、ちょうどリリーが新しく保護した犬の出産話をした時、小さな物音と共に、扉が少しだけ開かれた。
中から、女王が顔を覗かせる。
「無事に産まれたの?」と不安げに問うてくる彼女を、リリーは優しい人だと思った。
元々、犬好きであるとはいえ、出産した犬の体を心配するあまり、その頑固さを捨てて、部屋から出てきてくれたのだから。
リリーは大きく頷き「三匹、産まれましたよ」と答えた。
「皆、元気です。もちろん、お母さん犬も。親子揃って、寝ている姿は本当に可愛いらしいんですよ」
「まあ!想像しただけで、表情が緩んでしまうわ!今度、その子達に会いに行ってもいいかしら?」
保護施設に、わざわざ来てもらうのはさすがにしのびないと思ったが、女王は以前から興味があったらしく、ぜひ行ってみたいと言って引かなかった。
警備の心配もあるので、安請け合いはできなかったけれど、女官長に相談してみるとリリーは提案した。
が、その言葉を聞いた途端、女王の表情は曇ってしまった。
「あの人はきっと反対するわ。お母様と同じだもの」
「お二人は、陛下の御身を一番に考えていらっしゃるだけで、陛下がお望みなら、きっと反対はなさらないと思いますよ。もし、よろしければ、私がかけ合ってみましょうか?」
「本当に?じゃあ、お願いできる?」
「はい」
リリーが頷くと、女王は嬉しそうに微笑んだ。
そうしていると、まだ少女然としていて、幼く見える。
国で一番、敬われる立場である女王には到底見えなかった。
「そういえば、ご報告が遅れてしまいました。実は、私、妊娠いたしましたの。本日はその報告の為に参りました」
「え、妊娠……」
何を思ったのか、女王は俯き、不安そうに眉を下げた。
何度か口を閉開し、かと思えば、思い切ったように、顔を上げる。
その表情は切羽詰まっていた。
「入って。あなたに話したいことがあるの」
「は、はい」
手を取られ、リリーが室内に入るや、女王は辺りをキョロキョロと確認してから、しっかりと扉を閉めた。
「座って」と促されるまま、リリーはベッド脇にある豪奢な椅子に腰掛ける。
女王はベッドの周りを何度か往復した後、覚悟を決めたように切り出した。
「まずは妊娠の件、おめでとう」
「ありがとうございます」
「それで体調はどうなの?悪阻とか」
「まだ、そこまで酷くありません。体調も良いですよ。ただ、暫くはこちらに伺うのを控えようと思っております」
「当然よ。安定期に入るまでは、あなたもさぞ心配でしょうね」
リリーはおや?と思った。
女王が思った以上に、妊娠について詳しかったからだ。
尋ねると、女王は「少し調べたのよ」と言った。
「だって、お母様が……。私、お母様は多分、妊娠していると思うの」
リリーは目を大きく開いた。
喧嘩の原因はこれだと悟ったのだ。
ーー同席した人達が口を閉ざす訳ね。こんなこと、絶対に言えないわ。
あまりにも私的で、下手をすると、不敬に当たる内容。
口に出さなかった彼女達は、きっと正しかった。
一言でも話してしまえば、文字通り、彼女達の首が飛ぶのだから。
「お母様のお腹、膨らんでいたわ。それを隠す為に、ゆったりとした装いで、他の者達は気付いていなかったようだけれど……。私にはわかるの。お母様は私と違って、元々細かったから」
女王は最近、自身の太りやすい体質をとみに気にしている。
年頃ゆえか、それとも他に理由があるのかはわからないが、だからこそ、人の体型に目がいきがちなのかもしれない。
以前、女王が心配していた家令との関係があってこその発想なのだろうが、いくら女王とはいえ、母親を貶めるような推測を容易く口にするべきではない。
リリーは慎重に口を開いた。
「陛下の仰りたいことはわかりました。でも、一つ質問をさせてください。外見以外で、何か妊娠を示唆する事柄はありますか?」
「具合が悪そうだったわ。お腹は膨らんでいるのに、体重は減ってしまって。きっと、悪阻のせいよ」
お腹の膨らみが、イコール妊娠だとは思わないけれど、公妃の身体に異変が生じていることは確かなのかもしれない。
娘だからこそ、母親の変化は見逃さないのだろう。
とはいえ、妊娠というのは、あまりに飛躍した解釈ではなかろうか。
「私、もし、お母様があの男との子を産むつもりなら、絶対に許さないわ。そんな醜聞、絶対にあってはならないもの。私達の評判だって、地に落ちてしまう」
ギュッと拳を握りしめ、一点を睨みつける女王は表情こそ強張っていたが、その実、怖くて怖くて仕方がないのかもしれない。
“私達の評判だって、地に落ちてしまう“というのは、女王と公妃二人を指して、憂慮しているのだろうと思われた。
決して自分本位な人ではない。
母親のことを心配しているのだ。
「お母様は未婚よ。あなたのように妊娠しても喜ばれることはない。だから、私、心配で心配で仕方がないの。お母様がどうなってしまうのか……。なのに、お母様ったら、今日いきなり現れて、私のドレスが派手ではしたないだの、縁談相手は血筋のしっかりした殿方を慎重に選べだの、文句ばっかり。自分のことを棚に上げてあんまりだわ。それに……」
そこで、女王はグッと唇を噛んだ。
足元の豪奢な絨毯を見つめ、微動だにしない。
が、それも一瞬のことで、女王は吐き出すように続けて言った。
「それに、あの男はきっとお母様のことを愛してはいない」
その時、女王の瞳からハラハラと涙がこぼれ落ちた。
それは、まさに母親を愛する娘そのもので、リリーの胸は苦しくなった。
「あの男は、女王である私の母親だからお母様を利用しているだけ。それなのに、お母様は彼を頼って疑ってさえいない。愛されていると思い込んでいるの。立場だって釣り合っていないのに、どうしてお母様は気付かないのかしら。こんな状態では絶対に幸せになんてなれないのに」
女王は顔を覆って、その場に崩れ落ちるようにして座り込んでしまった。
リリーは慌てて立ち上がり、女王の傍らに寄り添おうとしたのだが……。
「うっ……」
突然、リリーは猛烈な吐き気に襲われた。
急いで口元を押さえるものの、そんなことで吐き気を抑えることなどできる訳もなく、リリーは椅子に崩れ落ちた。
「え、大丈夫?!」
リリーの突然の体調不良に、女王は初めこそ気が動転したようだったが、すぐに我に返り、声を上げて使用人を呼んでくれた。
使用人が駆けつけるまで、ずっと背中をさすってくれた女王には感謝よりも申し訳なさが勝って、リリーは使用人に支えられながら、力なく女王を見つめた。
「へ、陛下。申し訳ありません。お話の途中でしたのに……」
「何を言っているの。謝らないでちょうだい。私こそ、あなたが妊娠中だって聞いたばかりだったのに、配慮が足りなかったわ」
「私のことは気にせず、ゆっくり安静にしてね」と気遣ってくれる女王に、今のリリーは何もしてあげられない。
そのことが、こんなにも歯痒く苦しいことなんだと突き付けられたリリーは、己の無力さに肩を落とす他なかった。




