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魔法の便器  作者: 好月
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6/11

引っ越し

その日の田中は、いつになく機嫌がよかった。


千鶴との初めての本格的なデート。


お台場の海沿いを散歩し、海の見えるレストランで食事をした。


彼女の意外な一面も知ることができた。


帰り際には「また一緒に来ようね」と言ってもらえた。


(今日は楽しい一日だったな……)


田中は赤いセリカ・ダブルエックスを運転しながら、助手席で笑っていた千鶴の顔を思い出していた。


自然と口元が緩む。


こんな気分で帰宅するのは久しぶりだった。


『最高だ!』


自宅のアパートに到着し、玄関のドアを開けた。


『最悪だ!』


床一面に水が広がっている。


天井からも水滴が落ちていた。


壁紙は濡れ、家具にも水が染み込んでいる。


「な、なんだこれ!」


慌てて部屋に入ると、天井からぽたぽたと水が落ち続けていた。


どうやら上の階で水漏れが発生したらしい。


「ちょっと待ってくれよ……」


さっきまでの幸せな気分は、一瞬で吹き飛んだ。


---


翌日。


田中は大家に連絡した。


「昨日帰ってきたら、部屋が水浸しだったんですよ!」


「いやあ、それは大変でしたね。申し訳ありません」


「申し訳ないじゃ済まないですよ。家具も濡れてるし、こんなところで生活できませんよ!」


大家は電話の向こうで、何度も謝っていた。


しかし、田中の怒りは収まらない。


「修繕が終わるまでホテルに泊まらせてもらえませんか? もちろん、そちらの負担で」


「いやあ、それはちょっと…」


「ちょっとって、どういうことですか?」


大家は少し黙り込んだ。


実のところ、今回の水漏れ事故に対する保険の補償は十分とはいえなかった。


修繕費用や宿泊費まで負担するとなれば、大家自身の出費が増えてしまう。


できることなら、余計なお金は使いたくない。


「そうだ! ちょうどいい家があるんですよ」


大家は思い出したように声を上げた。


「いい家?」


「私の親戚が所有している家なんですが、今は誰も住んでいないんです。そこを使ってもらうというのはどうでしょう?」


「そこに住めるんですか?」


「ええ。かなり広い家ですよ」


田中にとっては願ってもない話だった。


「それなら助かります!」


「家賃もいりません。今回の水漏れの補償ということで」


「本当ですか?」


「もちろんです」


電話を切った大家は、ほっとしたように息を吐いた。


これならホテル代も払わずに済む。


修繕の間、田中には親戚の家に住んでもらえばいい。


実は、その家の持ち主である叔父は、以前から奇妙なことを言っていた。


「絶対に誰も住まわせるな。私が死んだら、家を跡形もなく解体しろ」


そんなことを何度も口にしていたのだ。


しかし、叔父は現在長期入院中。


家に戻れる見込みもない。


(まあ、今は入院しているんだ。空き家にしておくよりいいだろう)


大家は、叔父の言葉を深く考えないことにした。


---


その日の内に紹介された家の下見に向かった。

伝えられた住所を頼りに車を走らせる。


しばらくすると、立派な門構えの建物が見えてきた。


「……ここ?」


目の前にあったのは、想像していたものとはまるで違う家だった。


重厚な瓦屋根。


堂々とした門。


広い敷地を囲む塀。


現代的な住宅とは違うが、どこか気品があり、荘厳な雰囲気を漂わせ伝統的な日本家屋だ。


門をくぐると、手入れの行き届いた大きな庭が広がっていた。


松の木や石灯籠が配置され、落ち着いた日本庭園になっている。


「すごいな……」


田中は思わず声を漏らした。


こんな立派な家を無償で貸してもらえるとは、なんともありがたい話だった。


ふと、庭の片隅に目を向ける。


そこには、工事現場などで見かける青い仮設トイレがぽつんと置かれていた。


「……なんでこんなところに?」


少し不思議に思ったが、田中はそれ以上気に留めなかった。


---


家の中も、外観に負けず立派だった。


広い玄関に、長い廊下。


磨き込まれた木の床や、太く立派な柱。


部屋数も多く、田中が一人で暮らすには十分すぎるほどだった。


「いやあ、贅沢すぎるだろ……」


この家の持ち主は、金属回収業を営んでいるらしい。


仕事だけでなく、地域の福祉活動や慈善事業にも熱心に取り組んでいる人物だという。


「立派な人なんだなあ」


田中は感心した。


ただ、なぜこれほど立派な家を空き家にしているのかは分からなかった。


持ち主は現在、長期入院中。


それ以上のことは聞いていない。


---



水漏れ事故という災難から始まった引っ越しだが、結果的には以前よりずっと快適な住まいを手に入れた。


しかも家賃は無料。


「そういえば、濡れちゃった家具や家電の補償は、ちゃんとしてもらえるんだろうなあ……」


「まあ、そこは大家さんに確認しておくか」


「人生、何があるか分からないもんだな」


田中は満足そうにつぶやいた。


その頃。


広い屋敷の奥にあるトイレには、誰も気に留めない、ごく普通の便器が静かに置かれていた。


それが、この家に残された最大の秘密だった。

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