初夏のお台場
六月上旬。
梅雨入り前の空は、雲ひとつない青空だった。
田中は、少し早めに待ち合わせ場所へ到着していた。
赤いセリカ・ダブルエックスの運転席で、何度も腕時計を確認する。
(まだ30分前か……)
別に急ぐ必要などないのだが、どうにも落ち着かない。
今日は千鶴との初めての本格的なデートだった。
やがて、駅の改札から千鶴が姿を現した。
紺色のワンピース。赤と白の小物がさりげなくアクセントになっている。
いつもの雰囲気とは少し違う。
田中は思わず見とれてしまった。
「お待たせ!」
「あ、いや。俺も今来たところ」
実際には40分ほど前から待っていた。
「かっこいい車ですね。赤い色も素敵」
「そうかな。ありがとう」
田中は少し照れくさそうに運転席へ戻った。
車はゆっくりと走り出す。
行き先はお台場。
車内では、最近見たテレビの話や仕事の話など、他愛のない会話が続いた。
田中は普段、女性と二人きりで出かけることなどほとんどない。
何を話せばいいのか分からなくなることもあったが、千鶴は自然に話題を広げてくれた。
気がつけば、田中の緊張も少しずつ解けていた。
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お台場に到着すると、二人は海沿いを散歩した。
潮風が心地よい。
「気持ちいいね」
「そうだな。天気もよくてよかったよ」
海を眺めながら、千鶴がふと話し始めた。
「そういえば私、学生の頃は陸上部だったんだよ」
「へえ、陸上? 何の種目?」
「短距離。県大会にも出たことがあるんだから」
「えっ、すごいじゃないか!」
「ふふっ。でもね、実は小さい頃はプロレスラーになりたかったんだ」
「プロレスラー?」
田中は意外そうな顔をした。
「そう。男の子たちとよくプロレスごっこしてたの。結構強かったんだから」
「それは想像できないなあ」
「でしょ!」
千鶴は笑いながら田中の腕を軽く叩いた。
「でも、本当なんだから。今度技を見せてあげよましょうか?」
「いやいや、遠慮しておきます」
田中は苦笑した。
千鶴には、まだ知らない一面がたくさんあるらしい。
そんなことを考えながら、二人は再び歩き出した。
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昼食は、商業施設の六階にあるレストラン『0141』に入った。
店内からは海が見渡せる。
店名は『おいしい』だそうで入口の壁には有名人のサインがいくつも飾られていた。
「ここ、人気のお店なんだって」
「へえ、そうなんだ」
メニューを開くと、肉料理を中心においしそうな料理が並んでいる。
田中は少し迷った末に注文を決めた。
「千鶴さんは?」
「私はこれにしようかな」
料理が運ばれてくると、二人は食事を楽しんだ。
「おいしいね!」
「うん。ここにして正解だったな」
食事をしながら、二人は仕事のことや休日の過ごし方について話した。
田中は自分の不器用な失敗談を話し、千鶴はそれを楽しそうに聞いていた。
「田中さんって、なんだか放っておけない感じがするね」
「それ、褒めてる?」
「もちろん!」
千鶴は笑った。
田中もつられて笑う。
そのときだった。
千鶴の表情が、ほんの少しだけ曇った。
「どうかした?」
「ううん。ちょっとね……」
千鶴は窓の外に目を向けた。
「田中さんには、話しておこうと思っていたことがあるんだ」
「何?」
「私ね、ときどき記憶がなくなることがあるの」
田中は箸を置いた。
「記憶が?」
「うん。気がついたら時間が経っていたり、さっきまで何をしていたのか分からなくなったりすることがあるの」
「それは……いつも?」
「いつもじゃないよ。たまになの。自分でもよく分からなくて」
千鶴は困ったように笑った。
「だから、もし私が変なことを言ったり、覚えていないことがあったりしたら、ごめんね」
「謝ることじゃないよ」
田中は少し考えてから答えた。
「俺にできることがあるなら言ってほしい。無理に話さなくてもいいし」
「ありがとう」
千鶴は小さくうなずいた。
それ以上、彼女は詳しいことを話さなかった。
田中も無理に聞こうとはしなかった。
ただ、千鶴の笑顔の奥に、少しだけ気になるものを感じていた。
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食事を終えた二人は、再び海沿いを歩いた。
午後の日差しが水面に反射し、きらきらと輝いている。
「今日は楽しかったね」
千鶴が言った。
「俺も。来てよかったよ」
「また一緒に来ようね」
「もちろん」
帰り道、田中は赤いセリカのハンドルを握りながら、助手席の千鶴をちらりと見た。
彼女は窓の外を眺めている。
今日一日で、千鶴のことを少し知ることができた。
陸上部だったこと。
小さい頃はプロレスラーになりたかったこと。
そして、ときどき記憶が抜けてしまうこと。
まだ知らないことは、きっとたくさんある。
それでも、少しずつ知っていけばいい。
田中はそう思いながら、アクセルを踏んだ。
赤いセリカは、初夏の街を静かに走り抜けていった。




