↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔法の便器  作者: 好月
PR
4/11

少しだけ特別な夜

店の奥にある個室には、すでに男性陣が集まっていた。


「いやあ、今日は楽しみだな」


そう言って笑うのは、今回のコンパを企画した会社経営者の男だった。人当たりがよく、初対面の相手とも自然に会話を弾ませる。こういう場には慣れているらしい。


隣に座る医師の男も、落ち着いた様子でグラスを傾けている。


一方、田中はというと、慣れない雰囲気に少しばかり落ち着かなかった。


「お前、緊張してんの?」顔がひきつってるぞ!


隣に座る友人が小声で尋ねてくる。


「当たり前だろ!合コンなんて何年もしてないんだぞ」


「そりゃぁ、顔に出るわ」


そんなやり取りをしているうちに、店員が個室の扉を開けた。


「お待たせしました」


女性たちが入ってくる。


「どうも、こんばんは!」


経営者の男がすぐに立ち上がり、笑顔で迎えた。


医師の男も姿勢を正し、自然な笑顔を向ける。


友人は急に声が大きくなり、田中も慌てて背筋を伸ばした。


そして、その中に彼女がいた。


橘千鶴。


優しい栗色の髪は、肩のあたりでふんわりと緩やかなカーブを描いている。派手さはないのに、自然と目を引く。整った顔立ちに、明るく柔らかな笑顔。モデルや芸能人だと言われても、きっと誰も疑わないだろう。


それでいて、どこか親しみやすい雰囲気があった。華やかなのに気取ったところがなく、周囲の空気まで明るくしてしまうような人だった。


田中は、しばらく彼女から目を離せなかった。


「田中、ぼーっとしてるぞ」


友人に肘でつつかれ、ようやく我に返る。


慌てて目をそらす田中を見て、友人が小さく笑った。


席に着くと、まずは簡単な自己紹介から始まった。


経営者の男は仕事の話を交えながら場を盛り上げ、医師の男も穏やかな口調で会話に加わる。女性たちも楽しそうに笑い、個室はすぐに賑やかになった。


田中も何度か会話に加わろうとしたが、なかなかタイミングがつかめない。


そんな中、経営者の男が女性たちに尋ねた。


「そういえば、もし仕事の都合とかお金のしがらみとか、そういうのを全部なくしたら、皆さんどこに行ってみたいですか?」


「えー、私はハワイ!」


「いいですね。やっぱり海ですか?」


「そう!水上コテージに泊まって、海を眺めながらのんびりしたい!」


「私はヨーロッパかなあ。石畳の街を歩いて、おしゃれなカフェに入ってみたい」


「ヨーロッパもいいですね。僕は以前、イタリアに行ったことがあるんですが、現地の料理が本当においしくて」


医師の男が話に加わる。


「僕もイタリアは好きですね。特に北の方は景色もきれいで、食事も最高でしたよ」


「えー!いいなあ!」


「ホテルも素敵なところが多いんですよ。朝食をテラスで食べたりしてね」


「そんな旅行してみたい!」


会話はどんどん弾んでいく。


経営者の男も医師の男も、旅行の経験が豊富なようだった。訪れた場所の話や料理、ホテルの思い出など、次々と話題が出てくる。


二人とも決して自慢しているわけではない。ただ、経験が豊富で、話し方も上手なのだ。


田中はその会話を聞きながら、グラスを口に運んだ。


ハワイもヨーロッパも、もちろん知っている。テレビや雑誌で見たこともある。


だが、実際に行ったことはない。


話に入ろうにも、何を言えばいいのかわからない。


「すごいですねえ」


結局、そんな相づちを打つのが精いっぱいだった。


そのとき、女性の一人が男性陣に目を向けた。


「そういえば、皆さんはどんな車に乗ってるんですか?」


「車ですか?」


経営者の男が笑顔で答える。


「僕はポルシェのカイエンですね」


「えー!ポルシェ!」


女性たちから歓声が上がる。


「すごーい!」


「医師の先生は?」


「僕はメルセデスのGクラスです」


「ゲレンデってやつですか?」


「そうです。あれ、見た目が好きでね」


「かっこいいー!」


二人の車の話に、女性たちは興味津々だった。


「田中さんは?」


千鶴がこちらを向いた。


「えっ、俺?」


突然話を振られ、田中は少し驚いた。


「どんな車に乗ってるんですか?」


「俺のは……ちょっと古い車だから」


「古い車?」


すると、経営者の男が助け舟を出してくれた。


「いやいや、田中の車は単に古いっていうだけじゃないよ。今となっては、なかなか見かけない貴重な車ですから」


「えっ、そうなんですか?」


女性の一人が興味を示した。


「写真とかないんですか?」


「あ、あるよ」


田中はスマートフォンを取り出し、車の写真を探した。


画面に表示されたのは、赤いボディのクーペだった。


「トヨタのセリカXX、2000GTっていう車なんだ」


「わあ、なにこれ!」


「前、ながーい!」


「ライトがないんだけど?」


女性たちが画面をのぞき込む。


「ライトはね、ここに隠れてるんだよ」


田中は千鶴の反応が気になったが、千鶴はただ写真をじっと見つめているだけだった。


田中は思い切って話しかけてみた。


「この車は1982年式で俺より年上なんだ」


「そんなに古いんだ!」


「でも、なんだかかわいい車ですね」


千鶴がそう言って、微笑んだ。


田中は少し照れくさそうに笑う。


「そうかな。ありがとう」


千鶴はもう一度、画面の車を見た。


「田中さんは、この車のどこに惚れ込んだんですか?」


「えっ?」


思いがけない質問だった。


「どこって……」


田中はスマートフォンを持つ手に力を込めた。


「まず、この長いボンネットかな。セリカXXっていう車なんだけど、当時の国産車としてはかなり伸びやかなデザインでね。低く構えたスタイルも好きなんだ」


「へえー」


千鶴はうなずきながら聞いている。


「それに、エンジンが直列6気筒なんだよ。1G-GEUっていうエンジンで、排気量は2000cc。DOHCの24バルブで、最高出力は160馬力。最大トルクは18.5キロなんだ」


「160馬力……?」


「そう。DOHCっていうのはダブル・オーバーヘッド・カムシャフトのことで、シリンダーヘッドの上にカムシャフトが2本ある方式なんですよ。吸気側と排気側をそれぞれ別のカムシャフトで動かす仕組みなんです」


「そうなんですね」


「それに24バルブっていうのは、6気筒だから1気筒あたり4バルブ。吸気側が2つ、排気側が2つで……」


そこまで話したところで、田中はふと気づいた。


自分ばかり話している。


しかも、かなり熱く語ってしまっている。


周囲を見ると、友人は苦笑いを浮かべ、女性たちは少し困ったような顔をしていた。


「あ……ごめん。つい夢中になっちゃって」


田中は慌ててスマートフォンを下ろした。


すると千鶴が、にこやかに首を横に振った。


「いいえ。楽しそうにお話しされるんですね」


「え?」


「好きなものの話をしているときって、すごく楽しそうです」


田中は返事に困り、照れくさそうに笑った。


千鶴は画面をもう一度のぞき込む。


「ところで、このドアのところにあるものは何ですか?」


「え?」


千鶴が指さしたのは、車内の写真に写っていた小さなハンドルだった。


「ああ、これね。窓を開けるためのハンドルだよ」


「窓を?」


「そう。今の車みたいにボタンを押すんじゃなくて、これを手でクルクル回すんだ」


田中は手で回す仕草をしてみせた。


「へえー!手で開けるんですね」


「そうそう。昔の車はこういうのが普通だったんだよ」


千鶴は面白そうに写真を見つめていた。


「なんだか楽しそう。今度、実際に見てみたいなあ」


「えっ?」


「今度、見せてください」


「もちろん!いつでも!」


田中は即答した。


千鶴は嬉しそうに笑う。


「楽しみにしてますね」


「う、うん!」


田中はスマートフォンをしまいながら、心の中でつぶやいた。


(……ん?)


(今度?)


たった一言。


それだけなのに、胸の鼓動が急に速くなった気がした。


その後も会話は続き、店内には楽しそうな笑い声が響いていた。


田中はいつもより少しだけ、グラスを持つ手が軽くなったような気がした。


そして、帰り際。


千鶴と目が合うと、彼女は小さく手を振ってくれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。