2026年 春 地獄の高校生活⑤ 壁、崩壊
私と葵ちゃんは、学校近くの喫茶店にいた。
昭和の空気がそのまま残ったような、小さな店だ。中年の店主が一人で切り盛りしていて、店の奥ではテレビが流れている。
制服姿の女子高生が平日の昼間に入ってきたものだから、店主は露骨に迷惑そうな顔をした。
私は何も言わず、ダーキニー認定証を差し出す。
店主の表情が、一瞬で変わった。
「……こちらへどうぞ」
無言で席へ案内される。
しばらくして注文した飲み物が運ばれてきた。
「お代は……結構ですから」
それだけ言うと、店主は目も合わせず厨房へ戻っていった。
歓迎されているわけじゃない。
できるだけ関わりたくない。
その空気だけは痛いほど伝わってきた。
なるほど。
ダーキニーの特典というより、厄介事に巻き込まれないための処世術らしい。
葵ちゃんは黙ったまま向かいに座っている。
私は頬杖をつき、ストローを意味もなく上下に動かしていた。
生まれて初めて学校をサボった。
しかも教室で暴力まで振るった。
とんだ不良少女だ。
おまけに、真面目な葵ちゃんまで巻き込んでしまった。
……でも、あの教室に葵ちゃんを置いていくことだけは、どうしてもできなかった。
しばらく沈黙が続き、
ようやく葵ちゃんが口を開いた。
「……私ね。」
小さな声だった。
「高校に入ったら、教団に献上されるかもしれないって、家族がずっと心配してたの。」
私は黙って聞く。
「だから目立たないようにって、髪も短くしたし、なるべく男の子みたいにしてた。」
葵ちゃんは苦笑した。
「……結局、無駄だったね。」
胸が痛くなった。
どれだけ前から、この子は怯えていたんだろう。
「ねえ。」
私は努めて明るく言う。
「こうして二人で学校サボってるじゃん?
きっと不真面目な奴って判断されて、ダーキニー候補から外されるよ。」
「……そうかな。」
「私は上級信者も蹴飛ばしてきたし。」
葵ちゃんが少し笑った。
「澪ちゃん、勇ましいよね。」
「葵ちゃんも蹴ればよかったのに。」
「無理だよ。」
「じゃあ、このまま逃げちゃう?」
「え?」
「この認定証があれば、どこでも顔パスなんじゃない?
飛行機もタダだったりして。」
「外国まで?」
「うん。」
「外国だったら、その認定証、意味ないでしょ。」
「……あ。」
二人とも、思わず吹き出した。
さっきまで泣いていた葵ちゃんが、ようやくちゃんと笑った。
それだけで少し救われた気がした。
元の世界の学校に通っていたら、学校帰りには、こうして葵ちゃんと取り留めのない話をしていたのかな。もっとオシャレな店で。
私は残っていたジュースを飲み干した。
その時だった。
店の奥からテレビの音声が聞こえてきた。
「……ベルリンの壁が崩壊しました。
東ベルリンでは市民が次々と――」
思わず振り返る。
画面には、大勢の人々が壁の上に登り、歓声を上げていた。
ベルリンの壁。
私の世界では、平成元年を象徴する歴史的事件だ。
それが、この世界では三十年以上遅れて起きた。
西ドイツ。
東ドイツ。
そんな呼び方まで、新鮮に聞こえる。
「大変なことが起きたんだね。」
葵ちゃんがテレビを見つめながら言った。
「これから世界、変わるのかな。」
「うん。」
私は静かにうなずく。
「変わるよ。」
歴史は、また動き始める。
なら、この狂った日本だって。
止まったままのこの国だって。
いつかは変わるはずだ。
そうであってほしい。
「そういえば私ね。」
私は思い出したように言った。
「ベルリンの壁の欠片、持ってるよ。」
「え?」
「昔、お父さんが知り合いからもらったんだって。
現地のお土産屋さんで買ったらしいけど。」
葵ちゃんはきょとんとした顔で私を見る。
「……澪ちゃん。」
「うん?」
「それ、絶対偽物だよ。」
「え?」
「だって、本物は今日壊れたんだから。」
――あ。




