過去編: 1989年 初夏 大学祭は世紀末の様相だった 前編
――この小説はフィクションですが、この章で描かれる出来事の多くは、作者が当時実際に見聞きした体験に基づいています。――
……なんだ、これ。
そんな言葉しか出てこなかった。
俺は、高校の同級生数人と、地元では名門と呼ばれる旧帝大の大学祭へ遊びに来ていた。
子どもの頃から毎年のように来ている大学祭だ。
焼きそば。
たこ焼き。
お好み焼き。
屋台から漂うソースの匂いも、人混みの賑わいも、例年と変わらない。
おかしいのは校舎の中だった。
教室ごとに展示や企画が並んでいる。
毎年なら、お化け屋敷や喫茶店、研究室の公開実験なんかが人気なのに、今年は様子が違う。
「気」を体に巡らせるという健康法。
歴史上の人物を降霊させるという集まり。
超能力を科学的に研究するサークル。
手かざしで病気を治すという実演……。
「やべえ……」
一人が小声で呟く。
別の友人は、手かざしを始めた教室を見た瞬間、
「行くぞ」
と俺たちの腕を引っ張って廊下へ飛び出した。
「危うく治されるところだったな」
誰かが言う。
みんな笑った。
笑ったけれど、何とも言えない居心地の悪さだけは残った。
当時の大学では、新入生に
「原理研には近づくな」
「統一教会には気をつけろ」
そんな話をするのは珍しくなかった。
学生運動が下火になった頃から、代わりに宗教団体が大学へ入り込むようになったと聞いていた。
もっとも、その頃は俺も、
「そんなのに引っ掛かる奴なんかいるのか」
くらいにしか思っていなかった
それなのに気がつけば、似たような団体が次々に現れ、この大学祭でも大きな存在感を放っている。
世の中全体が、そんな空気だった。
世紀末。
ノストラダムス。
超能力。
精神世界。
テレビも雑誌も、そんな話題で溢れていた時代だ。
「いやー、驚いたな」
「今年こんなの多くない?」
「大学って自由すぎるな」
「世紀末だな」
そんな話をしながら、キャンパス中央の並木道を歩く。
屋台からは、たこ焼きのいい匂いが漂ってくる。
俺は、「たこ焼きでも買うか?」とつぶやく。
その時だった。
白衣姿の若者たちが、道の真ん中をゆっくり歩いてきた。
全員、実験用の白衣を着ている。
その一人がメガホンを握り、声を張り上げた。
「ご来場の皆様。
私たちはオウム真理教を実践するサークルです。
これより、ヨーガに伝わる浄化法の実演を行います。
ぜひ、ご覧ください」
オウム真理教?
最近、名前だけはよく耳にする宗教だ。
しかし……。
宗教なのに、なんで白衣なんだ?
道路の真ん中に三つのバケツが並べられる。
その前に白衣の男たちが立った。
それぞれの足元には二リットル入りのペットボトル。
中身は透明な液体だった。
「この中には食塩水が入っています!」
メガホンの男が元気よく説明する。
「これは古来から伝わるヨーガの浄化法です!
しかも、非常に科学的です!」
……科学的
その言葉を言いたいがために白衣を着ているんじゃないか。
そんな気がした。
男たちはペットボトルをゆっくりと飲み干した。
断食中だという。
空っぽだった胃に、二リットル近い塩水が流し込まれていく。
見ているこっちまで腹が苦しくなる。
やがて全員が親指を立てた。飲み終えたという事だろう。
「それでは始めます!
ヨーガ秘伝、クンジャル・クリヤです!」
次の瞬間だった。
げろげろげろげろげろげろげろげろ――。
三人が一斉にバケツへ吐き始めた。
透明だった塩水は、胃液が混じって黄色っぽくなっている。
その様子が、嫌でも目に入る。
「皆さん!
ご覧いただけましたか!
これが究極の健康法です!」
白けた雰囲気の中、解説役だけが興奮していた。
「究極」という言葉は、この頃やたら流行っていた。
でも。
本当に究極なんだろうか、これ。
横を歩いていた年配の女性が、
「いやだねぇ」
と顔をしかめながら通り過ぎていく。
周囲の観客も、拍手するでも歓声を上げるでもない。
ただ、
「うわぁ……」
という空気だけが広がっていた。
それでもメガホンの男は叫び続ける。
「これが!
究極の健康法です!」
空だけは、雲一つない青空だった。
やがて実演は次へ移る。
今度は細長い布を飲み込み、ゆっくり引き抜く。喉の浄化法らしい。
続いて鼻から水を入れ、反対側の鼻から出す。
「これもヨーガの浄化法です!」
なるほど。
鼻うがいか。
……だから何だという話だが。
「何なんだ、あれ」
「宗教らしいぞ」
「へぇ」
「変なの」
俺たちはその場を離れた。
たこ焼きを食う気持ちは、すっかり失せた。




