第六章 夢に思い出なんて映らない
今日は、昨日のような奇妙な夢は見なかった。けれど、言葉にしがたい不思議な感覚だけは残っている。体全体が、温かい水面にぷかぷか浮かんでいるような、そんな頼りない浮遊感。
眠りに落ちるまえ、あれほど名残惜しかった髪の香りも、声も、しだいに遠ざかっていく。
「……ん」
どれくらい経ったのか。体の倦怠感が薄らいだところで、ゆっくりと目を開けた。
目覚めかけの感覚は、水底から顔だけが水面へ浮かびあがるのに似ている。夢という無意識のなかに沈んでいた体が引き上げられ、呼吸のかたちを借りて現実が全身を巡っていく。
「どれだけ寝てた……真咲?」
指先でそっと目じりを拭いながら、小声で真咲の名を呼ぶ。電車のなかには人が多いし、あまり大きな声を出すのは気まずい。
ところが、意識がはっきりし、視界がしだいに明瞭になっていくなかで、思わず息を呑んだ。
肌に感じる空気が、さっきまでの秋口の乾いた冷たさではない。夏のうっとうしい暑さが戻っている。それに――
「え?」
目に映ったのは、住宅地らしい無数の家並み。俺は道路のまんなかに立ち、朱色に染まった夕焼けのほうを向いていた。
これは夢か。試しに自分の頬をつねってみると、かなりはっきりとした痛みが走って、いやでも理解させられる。これは夢じゃない。かといって、現実でもない。
両手を持ちあげて服を見おろすと、今朝家を出るまえに着たのと同じ格好だった。つまり、夢で過去にもどるような話ではないらしい。
……あらためて見回すと、まわりの建物には見覚えがあった。細部は少し違うけれど、まちがいなく、俺が住んでいるあの住宅地だ。
「なんのつもりだ、これは……」
電車に乗って白河や真咲と家へ帰る途中、真咲の肩にもたれて眠った。それから目が覚めたら、この通りだ。状況そのものは、そう説明がつく。この驚くべき事態に戸惑っているのではない。どうしてこんなことになったのか、わからないでいるだけだ。
とにかく、あたりを歩いてみよう。ただの寝ぼけかもしれないし。なるべく、目の前の現実を受け入れようとした。記憶にある景色と大差はないし、少なくとも知らない土地に放り出されたわけじゃない。
気持ちを立て直し、ひとつ深く息をついて落ちつく。記憶をたよりに足を動かし、自分たちが住んでいるアパートへ向かった。
暑さのせいで、秋の服を着ている俺はもう汗ばみはじめ、汗の粒が頬をつたう。そのときようやく、季節が変わっているのだと気がついた。困惑と疑問を抱えたまま、とりあえず上着を脱いで少しでも楽になり、記憶どおりの住宅地へ入っていく。
「……ん?」
角を曲がったところで、すぐ近くの公園に見おぼえのある人影がすわっているのが見えた。
つややかな黒い長い髪、透けるような白い肌、なによりそのおとなしげなたたずまい。近くへ寄らなくても、それが誰だかすぐわかった。
「真咲?」
夕焼けに照らされて、長い髪がふわりと揺れ、こちらを向く。
口もとはかすかにゆがみ、瞳には言いがたい悲しみが影を落としている。いまにも泣き出しそうなその顔に、気がつくと早足で駆け寄っていた。
「お兄ちゃん……掃除、してたんじゃなかったの?」
掃除?
咄嗟には具体的な事情が思いつかなかったが、いまそれを尋ねたところで、かえって彼女の気持ちを軽くはできないだろう。
……おそらく、俺たちが兄妹だからこそ、その心根のつらさが手に取るようにわかる。どれほど混乱し、疑問を感じていても、こんな妹を見捨ててはおけない。
「ひとりでぽつんと座ってたから、ちょっと心配でさ」
「……」
いつものようにふざけて笑いかけてきたりはせず、真咲はうつむき、表情はいっそう翳った。こういう顔を見せられると、誰かに心臓をぎゅっと握られているみたいで、呼吸までおぼつかなくなる。
となりに腰かけ、無意識に手を伸ばして彼女の頭を撫でた。
「どうしたんだ?」
「……あたし」
俺の言葉に、真咲は胸のまえに手を置き、なにか言おうとしてためらう。そのしぐさは、この街に越してきたばかりのころの真咲を思いださせた。まだあんなに人見知りで、なにかあっても胸のなかへ溜めこんでばかりいた。
顔をあげ、遠くに朱く染まった空をながめる。あちらから吹いてくる風は気持ちよく、夕暮れどきはひどく静かだ。
「お兄ちゃん、あたしのこと、邪魔だと思ってる?」
どれだけ経ったか。となりの真咲は、自分の髪を撫でていた俺の手をそっと外させ、ずっと向こうを見つめながら言った。公園全体を見わたそうとするみたいに。
「バイトに行ってもいつもミスばかりで、お金だってろくに稼げない……お兄ちゃんは、あたしを守るために家を出てきてくれたのに、結局こんなに足をひっぱって」
「……そうかもしれないな」
俺が遠くの空を見たままそう答えると、真咲はくるりと身をこちらへ向けた。
「だったら、やっぱり私、帰っ――」
「でもな、真咲。おまえはたぶん、おまえが俺にとってどれだけ大事か、わかってないんだろうな」
「え?」
真咲はとまどい、なにを言っていいのかわからないように俺を見つめた。
「だいじ……?」
「そんな恥ずかしい台詞、わざわざ言わせる気か?」
「お兄ちゃん、ばか」
「あー、なんつうかだな。たしかにおまえの言うとおり、生活のためにあちこち働いて、そのうえ学業も両立させるのはすごく大変だし、俺だって何度も愚痴ったさ。でもな、おまえのためだって思っただけで、なんだかそれに意味が出てくるんだよ」
まくしたてるみたいに小声で言うと、真咲は適当に相槌を打ってから、ぽかんとした顔になった。
「お兄ちゃんにそう言われると、なんかへんな感じ」
「ゴホン……と、とにかく、あのときおまえと一緒にここへ来るって決めたからには、それなりに覚悟はできてるんだ」
「つらいことの覚悟?」
「ちがう。妹とのふたり暮らしが、ああ幸せだなあって噛みしめる覚悟だ」
ちょっと口もとを上げ、親指をぐっと立ててみせる。俺の答えに、真咲は驚いてぱちぱちとまばたきをして、頬がほんのり紅潮してきた。それが夕焼けの色だからなのか、うまく見分けられない。
「真咲みたいなかわいくて素直な妹がいてくれれば、俺も独りぼっちじゃない。そういう意味じゃ、むしろこっちが感謝してるくらいだよ」
「お兄ちゃん……」
「だからさ、ずっと気に病む必要なんてないんだ。おまえが俺に寄りかかるのと同じで、俺もおまえから安心をもらってきたんだから」
兄妹なんて、きっとそんなものだろう。少しこじつけがましく聞こえるかもしれないけど。
「もー、お兄ちゃんはなに言ってんのさ」
「こんな真顔で語れるのは、いまのところ真咲だけだぞ。ありがたく思えよ」
「ぷっ……そんなの、ぜんぜん嬉しくないし」
真咲は声を上げて笑い、今度は満足そうに大きく息を吐いて、伸びをした。黒く長い髪が風にそっと揺れる。ふわりとシャンプーの匂いがただよってきた。
「じゃあ、お兄ちゃんがそう言うなら……これからは、わがまま言わせてもらうからね」
「おう、どんどん甘えてこい。かわいい妹よ」
「きっしょ……でも、すごく頼りになる。これこそお兄ちゃんだよね」
真咲はベンチに手をつき、足をのばしてぶらぶら揺らし、ずっと向こうの空をじっと見た。どうやら、もうだいじょうぶそうだ。
胸のなかにはまだたくさんの疑問が残っているけれど、こうやって真咲が気持ちを打ち明けてくれたのを見ると、自分がやってきたことにも意味があったんだと思える。
夕暮れの風にようやく冷気が混ざりはじめ、公園のスピーカーからのんびりした音楽が流れだした。それとほぼ同時に、西の空を夕日が焼き尽くしていく。
なにも言わずに、黙って空を見あげ、しばらく経ってからベンチを立った。
「じゃあ、先に家に帰るけど、おまえはどうする?」
「もうちょっとここにいる……帰りに、ついでに買い物してくから」
「りょーかい。じゃ、たのんだぞ」
軽く手を振ってから、くるりと背を向けて公園を出る。角まで来ても、あの温かくて熱っぽい視線は、ずっと消えずに俺を見送っていた。
まちなみは、記憶のなかとそれほど変わらない。さっき真咲が口にした「引っ越してきたばかり」という言葉をつなぎ合わせれば、だいたいの察しはついた。
「いまは、俺と真咲がこっちに越してきたその日、か……」
口にしてみても、現実感はちっとも湧いてこない。それでいて焦燥感もないから、いまさら慌ててもしかたない。
とにかく、自分にできることをしよう。
そう考え、上着のポケットへ手を突っ込み、スマホを取りだして白河に連絡しようとした。彼女は俺と同じく「ありえない」体験をしたはずだから、なにか手がかりを知っているかもしれない。
だが、指にふれたのはスマホとは違う、別の感触だった。
「これは……?」
手に取ってよく見ると、今日、女子校で見つけた白河のペンダントだ。違うのは、はめ込まれた宝石が半分しかないこと。あのペンダントはたしか白河に渡したはずなのに、いまは俺の手のなかにある。
……なんだか、なにかに導かれているようで気味が悪い。けれどまちがいなく、ペンダントのもう半分を探せ、と言われているのだろう。
だったら、それを探せる相手は白河だけだ。
一縷の望みをかけて、スマホのLINEで白河にメッセージを送ったが、しばらく待っても返事はなかった。試しに電話をかけ、受話口を耳にあててみたが、なぜか呼び出し音が聞こえない。一度切ってもう一度かけ直しても、やはり同じだ。
ここは現実じゃないんだから、通信機器に障害が出てもドラマの常套句だよな……こうして設定に文句をつける羽目になるとは思わなかった。
だめもとで朝霧の携帯にもかけてみたが、結果は同じ。
「こうなりゃ直接、家に行くしかないか……でも、どこなんだ?」
だいたいの範囲はわかっているけれど、どの家なのかまでははっきりしない。まして白河は、まだこの街へ越してくる前だ。いっそう居場所は絞りづらい。
「こいつは困ったぞ……」
いま思いつく手がかりといえば、俺と同じ奇妙な夢を見た白河だけ。それ以外のことはなにも知らないし、なにも気づいていない。唯一おかしいのはこのペンダントだけ――つまり、原因はこいつにあるのか?
このまま家に乗り込んで確かめたいところだが、もし本当に自分自身と出くわしたらとてもまずい。それに、むかし読んだタイムトラベルものの小説にも、過去の自分に会ってはいけないと書いてあった。
知り合いの誰かをたよってみるしかないか……。
「ねえ、そこのお兄さん」
思考が袋小路に迷いこんだちょうどそのとき、声がした。すきとおるような、とても透明感のある声だ。音量は小さいのに、活力を秘めたやさしい響きが感じられる。
とっさにふり返って確かめる。風にそよぐ淡いピンクの髪を押さえた、ベージュのスウェット姿の女子高生だった。下はありふれたジャージとスニーカー。ベレー帽にマスクのせいで顔は見えないが、星のようにきらめく目からは、青春のまっただなかにいる少女特有のバイタリティがありありと伝わってくる。
見たことのない子で、名前どころか呼び名すら浮かばない。
彼女はこちらの視線を認めると、いたずらっぽく笑った。
「なにかお手伝いしましょうか?」
「できることなら、その素顔を拝みたいところだけどね」
「私、じつは大スターなんで。あんまり表に顔を出すと面倒なんです」
「じゃあ、大スター様からサインをいただけますか」
そう言って、ポケットからバイトのときにいつも持ち歩いている手帳を取りだし、一ページ破って差し出した。
彼女は一瞬きょとんとしてから、にやりと受け取り、シャーペンでなにか書きはじめる。
「おもしろい人ですね」
「自分でもそう思う」
「はい、ふだんなら一時間は並んでもらうところなんですから、ありがたく思ってください」
言いざま、彼女はさっと歩み寄ると、そのサインを俺のポケットへねじ込んだ。俺がまばたきするよりも早く、ほんの一瞬、髪の香りが鼻をかすめる。
「帰るまではぜったいに取りだしちゃダメですよ。消えちゃいますから」
「……」
「サインのお礼です。静岡までお土産を買ってきてください」
「強制売買ですか」
「ずいぶんお得な取引でしょ? 人気タレントの直筆サインなんて、フリマに流せばとんでもない値がつきますよ」
そう言うと、彼女は半歩さがり、口もとになんとも言えない笑みを浮かべた。
「それじゃあね、見知らぬお兄さん」
「どうも、大スター」
名前くらい聞いてみたかったが、スターなら口を割る気はないだろう。しかたなく肩をすくめる。なにがなんだかわからないが、行く場所はもうひとつしか思いつかなかった。
「いまから行くとすれば……」
到着するのはおそらく夜の七時だ。どうせなら理由をちゃんと聞いておけばよかったが、さっきの口ぶりでは「お土産」で煙に巻かれただけだろう。
ひとつ息を吐き、足を動かして近くの駅へ向かった。なぜか不安はまるで込み上げてこない。かわりに、やけに落ちついている。きっとさっきの真咲のせいだろう。
駅のホームに立ち、発車時刻の電光掲示板を見あげた。いまは六時二十分。あと五分で電車が入線する。静岡県がどこにあるのかはよく知らなくとも、路線図と車内放送さえあればまず大丈夫だろう。
ホームのベンチに腰かけ、電車を静かに待つ。やがて昇りはじめる月を見あげていると、心のなかも自然と静まってきた。
「……そんなことが起こるなんてな」
そういえばむかし、真咲の誕生日に付き合ってやったとき、あいつはいたく素直に俺にまつわりついて、こんな話をしてくれたのを思いだす。引越してきたあの日、公園で俺がかけてくれた言葉に、どれだけ生きる勇気をもらったか、と。
そのときは忙しさのあまり忘れてしまっただけだと思っていたが、もしかしてあのとき真咲が言っていた相手は、いまここにいる俺のことなんだろうか。
つまり……ここで起こした行動が、現実にも影響を与えるのか?
もしそうなら、感謝しなきゃならないのは俺のほうだ。
ほどなく電車が入線し、俺はベンチを立ち、二番ホームに停車中の静岡ゆきに乗り込んだ。車輪とレールが立てる軋みや、レールの継ぎ目から伝わる振動が、子守唄のように体へ響く。
窓ぎわの席に腰かけ、同じ車両には三人ほどスーツのサラリーマンが遠くに座っているだけで、ほかに人影はない。気分的にはひとりでいるのと大差なかった。
……この感覚は、ずいぶん久しぶりだ。こうして夜の電車に揺られ、しばらくぼんやり過ごすだけの時間。夏休みに倒れてからは真咲がいつもそばにいてくれたせいで、自分がどれだけ彼女のめんどうを見るのに必死だったか、すっかり忘れてしまっていた。
あごを手の甲にのせて、窓の外の夜景をただ静かに眺める。外はもちろん真っ暗で、景色を楽しむ余裕などない。それでもなお、窓下の小さなテーブルに肘をついて、知らない土地の光景を目で追った。
「……」
真咲はあのころからずっと、自分を責めていたのか。
うすうす感じてはいたけれど、まさか……俺がここにいるのも、このことを俺に伝えるためなんだろうか。
まったくわからない。
やがて、次の停車駅が終点・静岡であることを告げるアナウンスが流れた。ホームに降り立ったのは、夜の八時三十分ごろ。
ここへは一度も来たことがない。バス乗り場まで歩きながら、つい足を止めてスマホのマップアプリを開く。あたりは駅ビルと商店街ばかりだから、たとえ何も得られなくても、とりあえず雨露をしのぐ場所くらいは見つかるだろう。
すぐ近くに、わりと小さめの住宅地がある。どうせなら、お土産がてら立ち寄ってみよう。目的をはっきり決めて動くのは性に合っている。幸いにもそこまではそれほど遠くなく、歩いて十分ほどで着くはずだ。
もしかしたら、あの住宅地で知り合いに会えるかもしれない。
淡い期待を抱いて、退勤の人波を抜け、角を曲がって家々のあいだの道へ足を踏み入れた。ときおり表札に目を留めながら、できれば不審者扱いされる前に手がかりを見つけたい。
「……」
ところが、適当に歩きまわろうとした矢先、最初に飛び込んできた表札に、俺は思わず固まってしまった。年季の入った表札に、整った字でこう記されていた――『白河』。
……もしかして、さっきの「大スター」は、わざと俺をここに行かせたのか。白河を見つけさせるために。
「いまさら、別の選択肢なんてないよな」
緊張で湧いた唾を飲みこみ、ドアをノックしようと手を伸ばす。だが指がふれるよりも先に、鍵がかかっていないのに気がついた。
思いきって中へ足を踏み入れ、玄関でそろそろと歩みを進める。この家の主に会うまでは、あまり図々しくならないほうがいい。
「警察を呼びますよ」
「うおおっ⁉」
突然かけられた声に、本気で肝をつぶした。よく見れば、そこにいるのは白河で、それも今日デートしたときと寸分違わぬ格好だ。
「い、いまの白河か?」
「……いま?」
「いや、なんでもない。やっと見つけた……」
「月島くん、まさかあなた……」
俺の表情からなにかを察したのか、彼女の目にわずかに心配の色がよぎった。
「こっちは電車を乗り継いで来たんだけど……白河の実家って、静岡だったんだな」
「ええ……でも、どうしてここが?」
「話せば長くなる。妹との交流を深めたあと、大スターのご指導を仰いで、電車に一時間揺られてここまで来た」
「……」
彼女はまた半眼になり、やや軽蔑のまじった目で俺を睨む。
「変態シスコン」
「どうか誤解しないでほしい。本当に、字義どおりの交流だ」
「そういうことにしておきます……それで、この状況になにか心当たりは?」
「こっちのセリフだ」
俺は半分だけになったペンダントを取りだし、白河にもう半分を出すよう目でうながす。俺たちがここに飛ばされたのは、まずまちがいなくペンダントがらみだ。真咲がいまもむかしの真咲のままだったのは、彼女がペンダントに触れなかったからだろう。
こちらの意図をすぐに読みとった白河は、ポケットからもう半分を取りだし、俺の目の前へ差し出した。
…………
なにも起こらない。
「やっぱり、現実へ帰るのはそう簡単じゃなさそうだな」
「なにか知ってるんですか?」
「さっぱり。ずいぶん探したけど、家族らしい人影もないの」
やはり彼女はいつもどおり落ちついていて、ふたりが持ちよった手がかりをじっくり吟味している。
「ここ、白河がむかし住んでた家なんだろ。なのに、けっこう落ちついてるんだな」
「どういう意味ですか?」
「いや……俺はもう、妹のことが気がかりでしょうがなかったから、公園で迷ってたあの日の真咲にまた会えた。だからもしかしたら、白河もここでなにかに出会うんじゃないかって」
「ああ、そういうことですか」
白河は困ったように苦笑し、俺を連れて客間へ回った。室内は飾り気がなく、住人の質素倹約ぶりがうかがえる。それでいて、ちゃんと家族のあたたかさも感じられる佇まいだ。
彼女は一室の前まで来ると、ドアを押し開き、俺を先に招き入れた。
「ここは?」
「私の部屋です」
「女の子の部屋に入れるなんて、しあわせだなぁ」
「変なことをしたら、すぐに蹴りだしますからね」
「それでも、こっちは得した気分だ」
あきれた顔の白河に見守られながら、ふたりで足を踏み入れる。生まれて初めて女子だけの部屋に入ったが、普段ずっと真咲と一緒に暮らしているせいか、生活習慣も似たり寄ったりで、普通の男女間とはまったく勝手が違うようだ。
なかはとてもきれいに片づいている。『清楚で上品』という言葉がぴったりくる佇まいで、机のうえには教科書と漫画が少し乗っているだけだった。こんな清潔さを基準にしたら、俺は二日も維持できないだろう。
「けっこうきれいな部屋だな」
「いまは私と父だけですから、分担はしないと」
「お父さん、きっと鼻が高いだろうな」
「だといいんですけどね」
言葉でははにかみながらも、口もとは自然にほころんでいる。
「俺みたいに、思い出のいちばん濃い場所に立っても、過去や未来を見たりはできなかったよ」
「そうだな……でも、あのときのおまえに俺たちが見えていなかっただけかも」
「タイムトラベルみたいなややこしいことはやめてください。私、理系じゃないんで」
「そう言われても、こっちも――」
ガチャ。
言いかけたところで、玄関のほうからドアの開く音が響き、俺と白河は同時にそちらを向いた。
「……誰?」
「わかるわけないでしょ。今日が何日なのかすら見当もつかないし……とにかく、どこかに隠れないと!」
白河の表情に焦りの色がちらつき、目が部屋のなかを必死にまさぐった。そうだ、こんな時間にこの部屋へ入ってくるのは、昔の白河かその家族だけだ。もし見つかれば、たいへんなことになる。
すた、すた、すた――。
もうすぐドアが開く。なすすべのない白河は、カーテンの陰にでも隠れようとした。
「おい、そんなとこじゃすぐ見つかるぞ」
「なっ……うわ⁉」
すぐそばにクローゼットがあるのに気づき、とっさに白河の手を引き、ふたりしてなかへ飛び込むと、勢いよく扉を閉めた。
クローゼットのなかは、女の子らしいほのかな香り――とはいかず、衣類の繊維の匂いしかしない。けれど、持ち主の趣味は思ったより多彩で、学校の制服だけでなく、ふだん着や部屋着までいろいろ吊られている。
「あんまりきょろきょろしないで。目に指を突き立てますよ」
「白河でも慌てるんだな」
「あなたがいきなりこんなところへ引きずり込んだせいでしょ」
もしカーテンの陰なんかに隠れていたら、影でばれてしまっただろう。そんな疑問を抱えつつ、隙間からそっと外をうかがうと、銀白色の長い髪の女の子がひとり、かすかに見えた。いまの白河の、驚きと気まずさの入り混じった顔からすると、どうやらあれは過去の白河らしい。
見つからないようにこっそり腰をうかがわせ、小声で彼女に言った。
「昔は長かったんだな」
「ええ……」
「おお、よく似合ってるよ」
「今日それ、三回目ですよ。あなたは恋愛の達人か何かですか」
「残念、俺がデートしたことのある子は、真咲とおまえだけだ」
「はあ? デート?」
いま彼女から向けられた困惑の目は無視して、ふたたび隙間から様子をうかがう。となりにいる白河も、まあ渋々ながら、俺のやりかたを認めてくれたようだ。帰る方法を探すためだし、背に腹は代えられない、というところだろう。
外の白河は、どうやら外でなにか運動してきたらしく、肩で息をしながら上着を脱ぎ、ベッドのうえへふてくされたように放り投げた。
「先に言っとくけど、これがいつなのかはこっちもわかってない。もしもこの私が突然、着替えでもはじめたら――」
「ああ。俺はしっかり目に焼きつけるつもりだ」
「そんなことをしてみなさい。本当に目に指を突き刺しますからね」
両腕を胸のまえで組み、あきれたように息をついた。
ちょうどそのとき、外の彼女がポケットからスマホを取りだし、画面のなにかをじっと見つめている。何を見ているかはわからないけど、その顔つきからして、あまり楽しい内容じゃなさそうだ。
しばらくして、彼女は「やっぱり……結月に会いに行かなくちゃ」と小さくこぼした。
「なにがあったんだ?」
「……」
となりにいる白河は押し黙ってうつむき、きゅっと唇を結んでいる。暗がりではその顔色まではよくわからない。だが、たしかに思う――胸の底にあるのは、罪悪感だ。
しばしの沈黙ののち、ようやく彼女は顔をあげて、俺と目を合わせた。
「なんとなく、これがいつの日かわかってきた……」
「昔話を聞くのはやぶさかじゃないが、白河……ここ、狭くないか?」
「黙って」
それを考えたくなかったのか、白河はぷいと横を向き、俺を見ようとしない。目の前にあどけない顔がある。うっすら桜色に染まった唇、その吐息がかすかに頬をくすぐる。俺はすこし体勢を直し、うっかり触れてはいけない部分に触れてしまわないように気をつけた。
これ、なにかの特殊プレイか……。
もうこれ以上、妙な邪推が働かないよう、仕方なく目を閉じて視界を遮断した。けれど視覚が閉じたぶん、他の感覚はかえって研ぎ澄まされていく。少女のほのかな体臭が、鼻腔の奥をくすぐった。
やがて、過去の白河がスマホを片手に部屋を出ていったのを見届けてから、俺たちはようやくクローゼットから脱出する。途端に、離れていく香りと体温が、少しだけ寂しかった。
「はあ……ずっと閉じこもってたら、さすがに息が詰まる」
「あのあと、外のコンビニまで行ったはずだから、しばらくは戻ってこないと思う」
「だったらいいんだけど……」
なにかを思いだしたのか、白河はベッドに腰かけ、ぽんぽんと隣を叩いて座るよう促した。女の子のベッドに腰かけていいものかと思ったが、じとりと不満げな視線を感じて、素直に隣へ腰をおろす。
「なんだか、自分で自分の黒歴史を掘り返しにいってる気分で、気が滅入るわ」
「いやなら、無理に話さなくても構わないんだぞ」
「いやじゃないの。ただ、すごく退屈な話で、聞いたところでなにも変わらないと思うから」
「だからって、べつに構わない。俺は、白河の話を聞きたいんだ」
白河は目をほんの少し大きくして、すぐにぷいと横を向いた。
「ただの暇つぶしみたいなものだから、適当に聞き流していいから」
「とんでもなく真剣に、静かに、最後まで聞くつもりだ」
「……もう」
しばし考え込んだあと、彼女は記憶のなかのできごとをひとつひとつ探るように、じっと俺を見た。
「前に話したわよね。母のこと」
「ああ。とても優しくて、まるで魔法少女みたいだったって」
「私、母のことがとても大好きだった……だから、母が事故で亡くなった日は、ずっと心の整理がつかなくて、毎日塞ぎ込んでいた」
内容は最初から重苦しいが、それでも彼女の声は落ち着いている。
「父は私と違って、きっと母への愛情があったからこそ、私を養って育てる気力を取り戻せた。私もまた、そんな父をがっかりさせないために、なにかで自分を証明したくなった」
俺は相槌も打たず、うなずきもせず、黙って耳を傾けていた。
「それで、ある同級生に出会ったの。明るくてやさしくて、いつもみんなの先頭に立って、笑っていた……」
「想像できるよ」
そういうタイプの子はうちのクラスにもいる。まるで太陽のように、まわりをあたためる存在だ。
「その子の提案で、一緒に歌の練習をはじめたの。学校の文化祭で発表すれば、みんなに楽しんでもらえるし、自分たちの頑張りも示せるからって。でも……最後に、ちょっと色々あって」
「うん……」
考えがまだ追いつかないまま、彼女はつづける。
「私ばかり自分に夢中で、あの子の気持ちに気づけなかった……それで結局、卒業公演のあとに大喧嘩して、それっきり会ってない」
「というと、彼女は君に嫉妬して、どこかへ行ってしまったのか?」
「私のせいよ……少なくとも、私は魔法少女みたいに誰かを温めたかったのに、逆に、無意識のうちにあの子を傷つけてしまった」
そう言った彼女の、膝のうえに置かれた手が小さく震えているのに気がついた。ずっと彼女は、とても強く、なにがあっても冷静に立ち向かえる子だと思っていた。けれど本当は逆で、もう同じ思いをしたくないからこそ、平静を装ってまわりを気遣っていたのだ。
「ざっと、こんなところ。あんまり長々と話すのは好きじゃないの。なんだか、自分の感情をあなたにぶちまけてるみたいで」
「俺は、それでも構わないと思うけどな」
「恥ずかしすぎるから、やっぱりやめとく」
そう言った彼女の顔に、ごくわずかな笑みが浮かぶ。これまでのどこかよそよそしいものとは違い、心までじんわりと温めてくれるような、あたたかな表情だった。
「そのあと、父に話したの。どうしても彼女を探し出して、謝りたいって」
「それで、高校からこっちへ引っ越してきたのか」
「うん。てっきり女子校にいるんじゃないかと思ったんだけど、名簿を確認しても名前がなかった」
「そうなんだな……」
彼女はその友人を探すために、こっちの高校を選んだのか。
「その友だちの名前は? 俺もそれなりに長く住んでるし、知ってるかもしれないぞ」
「……雪村真冬」
聞きおぼえのない名前だ。
記憶のなかをざっと探ったけれど、やっぱり見つからず、仕方なく首を横に振る。
「俺も聞いたことがないな。でも……どうしてその子がここにいると思ったんだ?」
「……夢に見たから」
「そういうことか。じゃあ、いまはお手上げだな」
近ごろ、どうにも変な夢と縁が切れない。昔の出来事を見たかと思えば、これからのことを見るはめになる。……これから春夢を見るにしても、十分に用心しなくちゃな。
× × × × ×
やがて戻ってくる白河に見つからないよう、俺たちは先に家を出て、電車に乗ろうと駅へ引き返した。静岡を出た電車は海沿いを西へ進み、俺たちを家路へと運んでいく。とっくに深夜を回り、駅に停車するたびに乗客は減っていった。行きとは違い、なるべく人のいない席を選び、四人がけのボックス席にふたり並んで座る。
「やっぱり……なんかおかしいわよね。夢で過去を見るとか」
スマホをいじっていた白河が、ふいにそう言った。
「たしかにちょっと不思議だな。まさか女の子とふたりで電車に乗って帰る日が来るとは」
「青春ドラマでもあるまいし、不思議がること?」
「だって、ふたりきりだぜ」
この車両には他にほとんど人がいないから、気分的にもうふたりきりでいるのと変わらない。
白河はそっとため息をつき、耳もとでくしゃくしゃになった銀白色の髪をうしろへ流した。
「ありがとう」
「え?」
礼を言われるようなことはなにもしていなかったので、思わず首をかしげる。
「俺、なにもしてないけど」
「いろいろしてくれたわ。母のペンダントを見つけてくれただけで、もう充分すぎるくらい感謝してる」
「……そうか」
そういう理由で女の子からお礼を言われるのは、なんともこそばゆい。
「……」
「……」
ふたりとも口を閉ざせば、その隙間を埋めるように、走行音だけが規則正しく響く。それから無言のまま、おそらく十分ほどが過ぎた。
「ねえ、月島くん」
「ん」
「あなた、まだ自分のことを話してなかった」
「ああ……」
俺は真正面から向きあわず、窓越しに、ガラスに映った白河の目を見る。宝石のような彼女の瞳が、斜めを向いた俺をとらえている。
「なにも面白い話はないし、気分が落ち込むだけだ」
「じゃあ……まだいいわ。どうせ、これから知っていく機会はあるでしょうし」
「わかってくれてありがたい……え?」
一歩遅れて、俺ははっと顔をあげた。
「それって――」
「あなたは、ペンダントを見つけただけのつもりかもしれないけど、それが私にとってどれだけ大切なものか、きっとわかってない」
「……」
「それに、私、男の子にいきなり抱きつかれたことなんてなかったんだから。責任、とってくれるんでしょうね?」
「まるで小悪魔だな」
「どうも」
ほんの少し嬉しそうに、彼女はそう言った。その顔が、寂しい夜も忘れてしまいそうなほど、やけに温かくて、ずっと目が離せなかった。
「私の顔、なんかついてる?」
「別に」
帰りの電車は、余計な物音ひとつ立てず、まるで子守唄でも奏でるみたいに静かに走っていく。目的地まではもうしばらくかかる。ふと気づくと、白河は疲れたように目をしばたたきはじめていた。
「白河?」
「だいじょうぶ……まだ一時間もあるから……」
「それでも休んだほうがいい。俺はそばにいるから、安心して少し寝るといい」
「ん……じゃあ……少しだけ」
そう言って白河は、窓ぎわの小さなテーブルに肘をつき、ゆるやかに目を閉じて、静かな寝息を立てはじめた。
どうすれば現実へ戻れるのか、さっぱりわからないけれど、少なくともいまは、白河がそばにいる。
俺もすこし眠ろう。全身の力を抜き、まわりの気配から意識を遠ざけていく。あの規則正しい音のなかで、目をとじると、心地よい眠りのなかへ落ちていった。
深く、深く、夢の底へ――。




