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第七章 最後に見えたのは

意識が水面に浮上しはじめる。誰かがそっと揺すってくれているのがわかった。


「……お兄ちゃん」


力加減はとてもやさしい。わたあめみたいに甘い声が、耳もとでこだまする。


「……たよ」


声がしだいに近づいてくる。懸命に目を見開くと、暗闇の世界に、オレンジ色の光が射し込んできた。


「ん……?」


意識がはっきりするにつれて、ゆっくりと目を開ける。寝ぼけてぼやけた視界に映ったのは、夕日を受けて停車中の電車の車内だった。アナウンスが間もなく到着するのを告げている。それと、もうひとつ――ほのかに赤らんだ真咲の愛らしい頬。


「ふわあ~~ん……真咲……?」


「もう着いたよ。つうか、いい加減起きてよ。肩、めっちゃ凝ったんだけど!」


「え? あ……わ、わかった」


自分の頭がずっと真咲の肩にもたれかかっていたことに、いま気がついた。どうりでときおり、かすかな髪の香りが鼻をかすめていたわけだ。真咲はこういう、心を落ちつける術を意外なほど心得ている。


俺は白河と一緒にあくびをこらえながら、上体を起こした。


「おふたりとも、寝るのがほんとお上手ですね……」


「もちろんだ。俺と白河は息がぴったりなんだ」


「軽口はいいから、さっさと降りるよ」


白河は俺より一足先にホームへ下りた。俺と真咲はすぐ後ろに続く。外の空はもうオレンジ色の夕焼けに染まり、時刻はそろそろ七時になろうとしていた。


「私は次の電車で帰るから、ふたりは先に帰って」


数メートル歩いたところで足を止め、白河は振り返ってそう言った。


「うん。それじゃ、ここでお別れだな」


「おやすみなさい、ふたりとも」


「おやすみなさい、白河お姉ちゃん!」


軽く手を振ったあと、白河は別の改札へ向かおうと身をひるがえした。


「そうだ、月島くん……」


ところがそのまえに、ふと思いだしたように、くるりとこちらへ振り向く。それから、いま目の前にひろがる美しい夕焼けのような、莞爾とした微笑みを見せた。


「ありがとう」


「当然のことをしただけだ」


俺たちのやりとりの意味がわからず、真咲は驚いて目をしばたたかせ、しきりに視線を往復させている。


「え? なにがあったの?」


「なんでもない。さ、帰ろう」


「もー、ふたりだけで内緒にして!」


渋谷駅の改札を抜けたときには、あたりはもう暗くなっていた。土曜の駅前は人でごったがえし、夜になっても、おそらく多くの人が朝まで遊び明かすつもりなんだろう。


真咲とふたりで信号を二つ越え、角を曲がって住宅地へ入ると、まわりもしだいに静かになってきた。もの静かな街路に響くのは、俺たちふたりのゆっくりした足音だけだ。


「お兄ちゃんがあんなにぐっすり寝てるの、初めて見たかも」


「よだれ、垂れてなかったか?」


「うん、大丈夫だったよ」


「そっか……」


男としての沽券は守られたようで、ほっと胸をなでおろす。歩きながら、頭のなかで先ほどの出来事を反芻した。あれはいったい、現実だったのか、それともただの夢だったのか。ううん……白河と別れるまえに、ちゃんと話して確かめておくべきだった。


しかし、あれは夢とも現実ともつかない、なんとも奇妙な体験だった。


「お兄ちゃん?」


「ん? どうかしたか?」


「なんだか変な顔してるよ。寝ぼけてるんじゃない?」


口ではそっけないことを言いながらも、その目は意外なほど気づかわしげだ。


「いや、あまりに気持ちよく眠れたから、ちょっとぼうっとしてただけさ」


「肩にもたれて寝てるお兄ちゃん、赤ちゃんみたいな寝顔だったよ」


「やめろ、はずかしい」


妹の肩で眠りこける。ご近所さんに聞かれでもしたら、陰で何を言われるかわからない。最悪、シスコン扱いだ。


「冗談だよ。でも、たしかに寝言は言ってたよ」


「え、マジか……変なこと、口走ってなかったか?」


「えっとね……『大スター』がどうとか」


真咲からその呼び名が出たとたん、ぱっと思いだす。夢のなかで静岡行きを教えてくれた、あのピンクの長い髪の少女のことを。


…………。


…………あ。


お土産を買い忘れた。


「なあ、真咲」


「ん?」


「今度、一緒に静岡まで行ってみないか?」


「え、話が飛びすぎ!」


「ふたりだけでさ。旅行がてらと思って」


「え……そ、そういうことなら、お兄ちゃんと一緒なら、べつにいいけど」


「じゃあ決まりな」


真咲は照れくさそうに鞄をひっさげ、足早にアパートへの道をたどる。俺はなにも考えず、素直にそのあとを追った。


ただし、今回のできごとを――べつに「事件」と呼ぶほど大げさなものじゃないにせよ――こうしてまた一つ、超常現象めいたものを信じざるをえなくなった。もしあれが本当なら、ペンダントを見つけただけでも、もう充分すぎるほど怪しい。


「そういえば……」


立ち去るまえ、あの女の子がサインをよこして、帰ってから開けろと言ったのを思いだした。真咲の横を歩きながら、ポケットに手を差し入れる――指先があの紙きれに触れた瞬間、思わずはっと息を呑んだ。夢のなかで手にしたものが、まさか、まだここにあるなんて。


すこしの緊張を抱えながら、深く息を吐き、それを手に取って、書かれた名前を見る。


「……うそだろ」


目にした瞬間、そう小さくつぶやいた。なぜなら、そこに書かれた名前こそ、ついさっき聞いたばかりのものだったからだ。


――雪村真冬。

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