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第四章 夢に学校なんて出てこない

今日の昼休みも、真咲と一緒にいつもの場所——保健室の裏にあるグラウンドのそばに来ていた。兄妹で連れ立って毎日昼食をとっていると、傍目にはずいぶん変わって見えるかもしれないが、俺たちにしてみれば、互いに寄り添うことで得られる安心感のようなものだ。


ただ、今日は少しだけ違うところがある。


「毎日ここで食べてるんですか……?」


「うん、ここは兄貴が見つけたんだよ。景色いいし、あんまり人に邪魔されないし」


俺の隣にいるのは真咲だけじゃない。昨日転校してきたばかりの白河が、俺たちの誘いを受けて——やや不本意そうな顔ではあったけれど——こうして時間通りにやってきたのだった。


少し気の毒にも思うが、真咲のほうは妙に乗り気だし、ここで断るわけにもいかない。


「……」


目で白河に謝意を伝えると、彼女は「構いません」とでも言うように小さくかぶりを振り、真咲の横へ腰を下ろした。白河はおそらく、人から頼まれると断れない質なんだろう。


「白河さんの、お弁当にはなにが入ってるの?」


「え? ああ……じゃがいもの煮っころがしです」


「すごい、自分で作ったの?」


料理に関しては永遠の初心者である真咲にとって、じゃがいもの煮っころがしをひとりで完成させるのはよほど高度なスキルに思えるらしい。俺もむかし一人で煮物を作ったときには、拍手喝采しながら「お兄ちゃんすごーい!」と騒いでくれたものだ。やっぱり、ちゃんと甘えてくれて、ちゃんと褒めてくれる妹こそ、いちばん尊い存在だよな。


そんなことを心のなかでしみじみ感じつつ、俺は自分の弁当箱を開ける。中身は作り置きのカレーと味噌汁だ。


「これ、全部月島が一人で作ったんですか」


「まあ。真咲は料理ができないから、普段は俺が台所に立ってるんだ」


「失礼な。私だってトマト炒めくらい作れるもん!」


面目を保とうと、真咲が唯一成功した料理の名を叫ぶ。


「落ち込むな。トマト炒めができれば、たいていの料理人と同じ土俵に立てる——って言葉もあるしな」


「それ、だれの言葉?」


「俺だ」


「兄妹、仲いいんですね」


俺たちの掛け合いを眺めながら、白河が落ち着いた声で言う。


「まあね。うちの兄貴、放っておけないところがあるから」


「放っておけないのはどっちだよ……」


軽くツッコミを入れつつ、俺は目の前のグラウンドをぼんやり眺め、購買で買ったホットドッグをかじった。両隣にふたりの美少女が座っている——片方はぜんぜん可愛くない妹だが——それでも妙にむずがゆい気分だ。もっとも、女の子がそばにいるからといって調子に乗っていると、あとで痛い目にあうのは血と涙の教訓として身に沁みている。


「そういえば、白河さんが探してるペンダントって、いつごろ無くしたものなの?」


「それは……」


白河は少し迷う素振りを見せてから、俺のほうへ相談するような視線を向けてきた。そういえば彼女は「話すと変に思われる」とも言っていた。だが、俺自身がすでに魔法少女に遭遇した身だ。どんなに突飛な話でも、いまさら驚いたりはしない。


俺がうなずき返すと、白河はひとつ息を吸い、身の内で言葉をまとめるようにしてから、ぽつりと口を開いた。


「じつは……夢のなかで無くしたんです」


……。


……。


は?


「ど、どうしたんです、変に思わないでくれるって言ったじゃないですか」


「あ……ごめん、ちょっと反応が遅れただけで」


「わ、私も……」


じとりと恨みがましい目を向けられて、俺と真咲はようやく我に返った。それでも、なんと答えたらいいのかすぐには思いつかない。


「あの、夢のなかで無くしたっていうのは、どういう意味?」


「文字どおりの意味です」


「そっか……」


ある程度突飛な話だろうとは身構えていたけれど、まさかここまで予想を超えてくるとは思わなかった。


「なんだか魔法みたいだね、お兄ちゃん」


「うーん……ただの偶然ってことはないのか? たとえば寝る前にペンダントをどこかに置いて、ちょうどそれに関係する夢を見て、起きたら忘れちゃった——みたいな」


俺が目を向けると、白河は首を振った。


「あのペンダントは大事なものだから、いつも肌身離さず持っていたんです。たぶん、うっかり無くしたりはしないと思うんですけど……」


「んー、謎は深まるばかりだねぇ」


真咲は腕を組んで、もっともらしく考えこむ。おそらくテレビドラマの探偵役の真似だろう。夢のなかで物を無くすだなんて、映画でもあまりお目にかからないシチュエーションだ。


ううん……。


「どうかしましたか?」


弁当をきれいに片づけた白河が、膝をかかえて顔をうずめ、上目づかいで俺をうかがってくる。


「夢といえば、俺も昨日、変な夢を見てさ」


「え?」


「俺たち三人が誰もいない学校のなかを歩いてて、それで一つの教室に入ったら、机の上にあのペンダントが置いてあったんだ……」


「そんなことがあったんですか」


白河の目がわずかに見開かれる。口調こそ抑えられているけれど、その驚きは隠しきれていない。


「お兄ちゃん、また変な話をしてる……」


「今度ばかりは返す言葉もないよ。でも、そっちが夢の話を出したなら、俺も言っておくのが筋だと思ってさ」


「オカルトから探しものを探すっていうのも、なんか変な感じだけどね」


たしかに、超常現象マニアでもないかぎり、こういうときはまず落とし物の張り紙をするか、防犯カメラにあたるのが普通だ。


いまひとつ腑に落ちない気持ちでいると、真咲がポケットからキャンディを取り出して、俺たちに差し出した。


「ミントキャンディだよ。どうせ昼休み、まだ寝るわけにいかないでしょ」


「お……ありがとよ」


気が利くじゃないか。さすがは俺の妹だ。


真咲からミントキャンディを受け取って、包装をむいて口に放り込む。乾いた甘みが唾液のなかでゆっくり溶けはじめ、すぐにひんやりとした清涼感が広がった。


「あの学校の外観、まだ覚えてる?」


「うん……たしか時計塔に、翼の彫刻があったはずだ」


「翼?」


「それって、例の女子校じゃない?」


白河が口をはさむより早く、真咲がぱっと思いだしたように声をあげた。


「ちょっと前に閉鎖された女子校が、ちょうど廃校になって一ヶ月経つんだよ」


「うん。うちの学校の建物にも、そういうところがあるの」


かつての女子学院の生徒だった白河の言葉は、おそらく間違いない。だが、それならなぜ、行ったこともない学校の夢を俺が見たんだろう。


うーむ……。


「ばか兄貴」


いきなり真咲に罵られて、反射的に「あんだって?」と聞き返す。


「じゃあさ、週末にみんなで行ってみようよ」


「は?」


「なに驚いてるのさ。どうせあそこは探検スポットとして有名だし、ついでに探しものもできるよ」


「夢で見ただけのことにそこまで本気になるのもな……」


「心霊現象はともかく、ペンダントを元の学校に置き忘れただけって線もあるんだし」


「ううん……」


これでふりだしに戻った。いったいどこをどう手がかりにして、忽然と消えたものを見つければいいんだろう。


「私、一人で見に行きます」


「え?」


白河の声で、思索を断ち切られた。


彼女は腰かけていた階段から立ち上がり、飲み終えた牛乳の紙パックをきちんと畳んでゴミ箱へ投げ入れた。


「もともと通っていた学校だから、ついでに懐かしんでこようかなって」


「待って……」


いったんは一緒に探すと約束したのに、結局彼女ひとりに頼らせてしまうのは、どうにも気が咎める。気がつくと、俺は白河の袖をつかんでいた。なにを言えばいいのかわからなくて、日差しの下で彼女の黒い髪と瞳をただ見つめる。


「あの、いつ行くつもりだ?」


「明日は週末ですし」


「ちょうど俺も明日はバイトがない」


「……昨日のことはもう許したから、無理しなくていいですよ」


やっぱり、昨日いきなり抱きついてしまったことを気にしているんだろうか。いや、たしかにそれへの負い目はあるけれど、俺が言いたいのはそういうことじゃない。


「一度引き受けたことを、途中で投げ出すのはごめんだ」


「べつに嘘をついたことにはならないでしょ」


「でも、気持ちが落ち着かないんだ。だから、俺にも一緒に行かせてほしい」


「……」


俺の言葉に、白河は少し意外そうに目をぱちぱちさせた。


「そんなに言うなら……べつに、構いませんけど」


「よし。白河ってLINEやってる?」


「はあ、やってますけど」


「私も私も!」


こちらの意図を察したらしく、白河は上着のポケットからスマホを取り出した。三人でお互いのLINEの連絡先を交換する。白河のプロフィール画像は白くてふわふわした猫で、そのまますんなり彼女自身を連想させた——小さくまとまった、物静かな白い猫、というふうに。


「ありがとう……それじゃ、夜にでも時間を決めましょう」


「問題ないよ」


「探検だね!」


「探検じゃないって。そういう言い方はおかしいって」


とは言ったものの、たかが夢ひとつでわざわざ出向こうという俺たちも、十分おかしな話だ。


昼休みの終わりが近づき、俺たち三人は弁当箱を片づけて腰をあげた。教室へ向かうあいだ、すれちがう生徒たちの「あの男子、二股か?」といったひそひそ声が、かすかに耳に届く。やっぱり少し距離を置いておかないと、変な誤解を招いてしまう。


「老哥、歩くのおっそい」


「足腰よぼよぼなんだよ。どんならおんぶしてくれるか?」


「いやだ。潰れそうだもん」


「お兄ちゃん、心がいたい……」


「妹を押し倒す」なんて四文字熟語ができそうだが、べつにどうでもいい。


真咲はむくれた頬をさらにふくらませ、二、三歩さがって俺のとなりにぴったり並んだ。校舎へ向かうあいだ、しばらくはくっついて来るつもりらしい。……まあ、妹だし、べつにいいか。


× × × × ×


午後の授業は数学と国語。もうすぐ行われる運動会のせいか、クラスの大半は上の空で、あちこちからこそこそと私語が洩れ聞こえてくる。まだちゃんと講義を聞いてノートを取っている生徒は、俺を含めて十人もいない——もっとも俺は聞いているふりをしているだけで、気持ちはまるで別のところへ飛んでいた。


明日の週末は、予定どおり白河と旧女子校へ行くことになる。できれば無事にペンダントを見つけたいところだ。そのあとはバイト探しにも手をつけなきゃならない。べつに急ぐ必要はないけれど、早めにケリをつけておけば、いつまでも気に病まずに済む。駅前のファミレスがよさそうだから、こんど面接を受けに行ってみようか——もっとも真咲に知られたら、また説教されるのは確実だけど。


「……」


俺はこっそりと白河の横顔を盗み見た。銀白色の髪が頬のわきに落ちかかって、あどけなく愛らしい容貌とは裏腹に、人を寄せつけない雰囲気をまとっている。ただ、実際にしゃべってみてわかったのは、彼女は冷たいのではなく、少し人見知りなだけなのだろうということだった。それに、あのとき屋上で見た光景は、本当に幻覚だったんだろうか。いくらなんでも、そこまで視力も集中力も落ちてはいないと思うんだが。


「──しまくん」


たぶん、そうした考えごとのせいで、授業中ときどきぼんやりしてしまうらしい。


「月島くん、月島くん!」


「あっ、はい!」


ワンテンポ遅れて教師に呼ばれているのに気づき、俺はとっさに立ち上がった。なんとも間の抜けた顔になっているにちがいない。


「いま説明したばかりの内容を、もう一度言ってみなさい」


「あ……忘れました」


「はあ……放課後、職員室へ来るように」


やってしまった。


椅子に腰かけ、片手であごを支えながら、空いた手で教科書をめくる。視線は教科書、黒板、ノートと、順番に行ったり来たりするだけだ。やがて、放課を告げるベルが鳴り、担任は最後に点呼だけ取ると、教室を去っていった。


「月島、がんばれよ」


「勘弁してくれ」


体育の時間に少しだけ口をきいた男子が、俺の肩を叩いていく。俺は苦笑いで返しつつ、机の上のものを片づけ、勢いよく立ち上がった。


足早に廊下へ出、前をゆっくり歩く教師の後ろ姿を追う。


「ここに座りなさい」


職員室へ着くと、促されるままに教員の向かいに腰を下ろした。先生は俺から見て右斜め前に座る。


「夏休みのケガの具合はどうだい?」


「たいしたケガじゃないので。ちょっと体力が落ちたくらいで、もうすっかり戻りました」


「そうか。でも、最近の君は授業に身が入っていないように見えるけどね」


「バイトのことでちょっと悩んでて……授業の内容はだいたい頭に入ってるので、家で復習すれば問題ないです」


俺の返事に、先生は少しむっとした顔をした。


「君の家庭の事情は把握しているし、口出しはしない。でも、もし急な出費で困ることがあれば、いつでも相談しなさい」


「ありがとうございます。でもお金のことは、なんとか自分でやってみようと思ってます」


「まったく、君は頑なな生徒だね。だからこそ、心配にもなるんだけど……」


先生はやるせなさそうに息をひとつもらし、しばらくしてから、引き出しから一枚の用紙を取り出して、俺に差し出した。


「これは?」


「カウンセリングの用紙だ」


「べつにメンタルに問題なんて……」


「入学時に、全員一度は受けることになってるんだ。君は当時バイトが忙しくて来られなかったし、私も無理にとは言わなかったろ」


「ああ……そういうことでしたか」


つまり、いま受けろということか。まあ、授業をまともに聞いていなかった罰みたいなもんだろう。


「悪いようにはしないわ。担当してくれるのも、とても優しい生徒だから、話すだけでもきっとためになると思うよ」


「わかりました……ええと、いますぐ行ったほうがいいですか?」


「たいして時間は取らないよ。場所はその紙に書いてある。終わったら、カウンセラーの子に判子を押してもらって、私に提出すること」


「了解です」


俺が立ち上がると、先生はふと微笑み、軽く手を挙げて見送った。


足早に職員室を出て、そのまま四階のカウンセリングルームへと向かう。多少は時間がかかるかもしれないので、先に真咲へメッセージを送っておいた。


(真咲:ちょうど私も今日は当番で、終わったら学校のそばのシェアサイクル置き場で待ってるね)


(俺:ダメだ。先に学校の中で待ってろ)


(真咲:はーい)


たった一人で校外で待たせるのは、どうにも心もとない。


放課後の階段や廊下にはほとんど人の姿がなく、あたりは妙にしんとしている。もっとも、足早に歩いていると、気温のことはあまり気にならない。


校舎の四階には、三つも部室がないせいか、一段とひっそりとしている。やがてカウンセリングルームの前に着き、ひとつ大きく息をついてから、扉をノックした。


「どうぞ」


中から聞こえてきたのは、やわらかくて、どこか聞き覚えのある声だった。


そっとドアを押し開けて中へ入ると、教室のなかには机や椅子が乱雑に積み上げられ、黒板にはチョークで描いた黒板アートがそのまま残されていた。普通の教室とさして変わりはないように見える。


けれど、ひとつだけはっきりと違うところがあった。それは、教室のど真ん中に腰かけている、一人の少女の存在だ。


青みがかった長い髪をふたつに分けて三つ編みにし、胸の前にだらりと垂らしている。前髪は薄めのシースルーバング。髪のわきには、小さな銀色のヘアピンがちょこんと留めてあった。


「朝霧?」


このカウンセリングルームで待っていたのは、よりによってクラスの委員長――朝霧来海その人だった。


俺の来訪にも、彼女はさして驚いたようすはない。


「月島くん、来てくれたんだね」


「先生から聞いてたのか?」


「うん。もうすぐカウンセリングを受ける生徒がいるから、ここで待っててほしいって」


「なるほど……やっぱ、あの人が仕組んだことか」


部屋のなかを見回すが、中央に置かれた長机と長椅子をのぞけば、とくに設備といったものは見あたらず、厚ぼったい資料の束が積んであるだけだ。


「月島くんが入学したとき、ちゃんとカウンセリングを受けていなかったのが、少し心配だったの」


朝霧はにっこりと笑いながら、俺を向かいの席へ座らせた。


「あのときはとにかく忙しかったからね。そんな余裕もなかったし」


「ということは、いまはもう気持ちにゆとりがあるんだね」


「まあ、そんなところかな……」


カウンセリングってもう始まっているのか? そう尋ねようかと一瞬迷ったが、朝霧の水のように澄んだ瞳を見ているうちに、なぜだか急に気恥ずかしくなってきた。


「最近、なにか悩んでることはある?」


「べつに、ないけどね」


「嘘だ。口調と視線でわかるよ」


「……わかった。たしかに、悩みは山ほどある」


どうやら朝霧みたいな天使の慧眼は誤魔化せないらしい。しかし、よりによってクラスで一番人気の委員長と二人きりで向かい合っているなんて、この状況を知られたら、きっとひどく妬まれるに決まっている。


「そういえば、朝霧は毎日ここでカウンセリングを?」


「今日は少し特別なんだ。いつもは先生がついていてくれるんだけど」


「そういうことか……」


つまり、わざわざ先生がこの場をこしらえたんだな。俺を心配してくれているのはわかるけど、生徒としてはなんだかむずがゆい。いや、朝霧とこうして面と向かっているだけで、すでにむずがゆいんだけども。


カウンセリングは至って簡素なもので、いくつか質問に答え、その結果をもとに性格の傾向やアドバイスをもらう、という程度だった。朝霧は俺のカルテにさらさらと何かを書き込むと、それをファイルのなかにしまう。


「あの、それって先生に渡さないと……」


「あとで私が帰りがけに届けておくから、心配しないで」


「ありがとう。朝霧は本当に親切だよな。みんなが憧れるわけだ」


「そんなことないよ。ただの、お節介だと思うし……」


「俺はそうは思わないけどな」


彼女が口にしたその四文字を、ついさえぎってしまった。朝霧はクラスで起きる揉め事に片っ端から首を突っ込むから、どうしても一部の人間からは「お節介」と言われてしまう。そんな声が俺の耳に入ることも、たまにある。


「もし朝霧がいなければ、クラスのみんなが抱える問題は解決しなかったし、俺だってそうだ。みんな君に助けられてきたんだよ」


「そう……かな」


「カウンセラーのくせに、自分自身は解放してないんだな」


俺の言葉を意外に感じたのか、朝霧はわずかに目を大きくした。


「そうかもしれないな……月島くんの前で取り乱すのは、これで二度目だね」


「これくらいで取り乱したうちに入るもんか」


俺たちはお互いしんみりと苦笑した。窓の外では、オレンジ色の夕日がちょうど沈もうとしていて、明かりをつけていない室内はすでに薄暗くなっている。そろそろ戻らないと、真咲をあまり待たせられない。


「じゃあ、俺はこれで帰るよ」


「うん。明日は週末だから……じゃあ、また月曜日に」


「月曜日に」


みんなが一番好きな委員長に挨拶までしてもらえるなんて、ちょっと得したかも。


朝霧と手を振りあって別れ、カウンセリングルームのドアを閉めてから、足早に階下へ急いだ。


真咲はもう校門のところに立っていた。制服姿のまま誰かを待つその横顔は、まるで恋人と待ち合わせしているヒロインのように見えなくもない。ただし、待っている相手は俺という兄なわけで……なんだか申し訳なくなる。


「お兄ちゃん、遅いよ」


「カウンセリングって、そんな簡単に終わるもんじゃないんだな」


真咲の隣に追いつくなり、彼女は文句たっぷりの目で俺を見てきた。そしてそのまま、ふたりで歩き出す。


西の空にはあかね色の残照がにじんでいる。駅へ続く小道では、街路樹もまた夕映えに染まっていた。真咲の鞄を持ってやり、枝葉のあいだからこぼれるほのかな光のなかを歩く。


「いま待ってるあいだにね、白河さんと会ったよ」


「そうか。なにか話したのか?」


「もし暇じゃないなら、明日は無理して来なくてもいいって」


「いかにもあいつが言いそうなことだな」


やっぱり白河はなるべく一人で動いて、誰の世話にもなりたくないんだろう。借りを作るのも面倒だろうし。ただ、今回はむしろ俺のほうが借りを作った身だから、彼女が遠慮する必要はないと思うんだが。


「忙しいなら、俺ひとりで行ってもいいんだぞ」


「いや。お兄ちゃんのその薄いリアクションじゃ、ずっとロボットみたいになってるに決まってるし」


「べつにデートに行くわけじゃないんだがな……」


「そうやって斜に構えてるから、いつまで経っても彼女ができないんじゃない」


吐き捨てるようにため息をつき、真咲は腰に手を当てて俺をじろりと見やる。積極的に行けば女の子と特別な展開になるというなら、世の中に片想いの純情男子なんて存在しないだろう。だから、保守的な戦略で正解なのだ、うん。


「私だってお兄ちゃんを心配してるんだからね——」


「恋愛を甘く見すぎだ。現実はラノベみたいにうまくいかないし、俺はただでさえ生活費を稼ぐだけで手一杯なんだ」


その言葉の端に、少しだけ責めるような響きが混ざった。真咲を怒らせようとしたわけじゃない。でも、真咲のほうはそう受け取らなかったらしい。


「でもさ……」


「心配してくれるのはありがたい。でも、それなりにチャンスは自分で掴むから」


気圧された彼女の様子に気づいて、あわてて真咲の頭を撫でてやる。まるで叱られた子どものように、「ごめん、ちょっと急ぎすぎた」と真咲は小さくつぶやいた。こういう素直なところは、ラノベの妹よりずっと愛おしい。


「さて、今夜はなにが食べたい?」


「オムライス……」


「りょーかい」


ふたりであれこれ話しながら、いつの間にかアパートの前まで帰り着いていた。


ドアを開け、玄関でスリッパに履き替えるとき、後ろにいる真咲がなにかもじもじと迷っているような気配を感じた。ここ数日の彼女は、いつもの快活さが鳴りを潜めている。俺もわざとプレッシャーをかけようとしたわけじゃないのだが……たぶん、彼女はなにかを曲解しているのだろう。


「真咲」


「……うん」


真咲は長い黒髪を前に垂らし、おどおどとうなずいた。


「俺がこれまで必死にバイトしてきたのは、おまえに健やかに幸せに暮らしてほしかったからだ……それはなにも、おまえが俺の妹だからってだけじゃないんだ」


「え?」


前後がつながらない台詞に、真咲は不思議そうな顔をあげた。なぜだろう、こうして目が合うと、ひどく心が落ち着く。


「だって、そうすることで、俺のやってることが無駄じゃないって思えるから」


「……きっしょ、お兄ちゃん」


「こっちはせっかくのポエムを披露してるんだから、もうちょっと優しくしてくれても」


「いや」


言いざま、真咲はくるりと背中を向け、片手にスリッパを持ったまま、俺に顔を見られまいとした。まあ、大丈夫そうだな。べつに真咲のリアクションを期待していたわけでもない。むしろこれくらいがちょうどいい。もし急に「ありがとう、お兄ちゃん、大好き!」なんて言われたら、そっちのほうがよほど戸惑ってしまう。


「風呂、先に入れ。俺は夕飯を作るから」


「うん。ありがと、お兄ちゃん」


さっきまで罪悪感に沈んでいたせいか、返事の声にはまだ少し元気がなかった。真咲はこういうふうに、すぐ自分を責めるきらいがある。引っ越したばかりのころはもっとふさぎこんでいたから、いまこうして明るく毒舌を吐く美少女になったのは、なかなかの変わりようだ。


彼女がベッドに座って制服を脱ぎ、部屋着に着替えはじめるのを確認してから、俺もコンロの前に立ち、扉をきっちり閉めてほっと息を継ぎ、夕飯の支度に取りかかった。


「ふう……」


炊飯器から上がる湯気が鼻の奥に届き、食欲をそそる香りを漂わせている。正直なところ、もう五年近く一緒に暮らしているのに、俺は真咲の考えていることがさっぱりわかっていない。ただ、俺といることをこいつなりに楽しんでくれているらしい、それだけはなんとなく感じている。もしかしたら、そろそろ一度きちんと話し合う機会を持ったほうがいいのかもしれない。それもまた、兄としての役目なのだろう。そんな謎の使命感がふつふつと湧いてきて、思わず自信たっぷりに腰に手を当ててしまう。


……これじゃもう、立派なシスコンだな。


どれほど時間が経ったのか、やがて浴室の水音がやみ、すりガラスの向こうに、彼女が体を拭いてパジャマに着替える気配がぼんやりと伝わってきた。


「真咲、夕飯できたぞ」


「うん、いま行く」


できたてのオムライスを皿に盛りつけて、ベッドわきの机のうえへ運び、真咲のぶんの座布団も用意する。


ほどなくして、髪を乾かしてポニーテールに結んだ真咲がトコトコと歩いてきて、俺の向かいに腰を下ろした。


「いただきます」


ふたり同時に手を合わせると、部屋は箸と茶碗の触れあう音しかしなくなるほど静かになった。


なんだか、今日は気まずいな……。


「そういや……真咲は最近、恋愛したいとか思うか?」


「え?」


こちらの不意打ちに、真咲ははっと顔をあげ、まじまじと俺を見つめた。瞳孔まで揺れている。おや、この反応は予想外だ。もしや好きなやつでもいるのか!?


「そ、それは……ないことも、ないけど……」


「おっ! もしなにか望みがあるなら、遠慮なく言えよ。恋愛中にデート代がなくて困ったときのために、ちゃんとへそくりも用意してあるんだぞ」


「恋愛……え? あ、ちが、そういう意味じゃなくて……ありがと」


なにか言いかけて訂正しようとした真咲だったが、こちらの大げさなノリに押されたのか、結局は真っ赤になって顔をそらしてしまった。そうか、実の兄に好きな人の話をするのは、さすがに恥ずかしいか。俺だって、真咲と恋愛トークで盛り上がれと言われたら、きまり悪くて丸くなってしまう。


「恥ずかしがるなよ。真咲だって、いずれは俺のもとを離れていくものだし。それで当然なんだから」


「……お兄ちゃんは、そう思ってるの?」


「え?」


途端に、彼女の声はまた沈んでしまった。感情の起伏が激しすぎて、まったくついていけない。俺が面食らっているあいだに、真咲はオムライスをぺろりと平らげ、「ごちそうさま」と立ち上がって、そのまま台所で食器を洗おうとした。


「いや、皿は俺が洗うから……」


「今日はやらせて」


「あ、はい……」


我知らず、こっちの声も勢いを失ってしまう。怒った妹は怖いが、それ以上に、心の読めない妹はもっと怖い。


うん。この理屈だけは、骨身に染みた。

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