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第二章 突然女の子に抱きついたりしない


昼休み。


クラスに転校生が加わったところで、みんなの日常習慣が変わるわけではない。終業のベルが鳴ると同時に教室の空気は一気にゆるみ、机を寄せ合って友だちと弁当を広げる者、ほかの教室へ向かう者、食堂へ急ぐ者と、思い思いに動きはじめる。


俺にも行くべき場所があったから、ベルが鳴るとすぐ席を立ち、教室を出た。


白河という転校生も、どうやら別の場所へ向かったらしい。俺が教室を出る前にもう姿が見えなかった。見たところ、筋金入りのぼっちのようだ。クラスの連中からすれば俺も同じようなものだろうが、なにも毎回ひとりで昼飯を食っているわけじゃない。そうでなきゃ、とっくに教室でひとりで昼休みを過ごしている。


俺は朝に作っておいた弁当を持って、保健室の斜め裏までやってきた。ここは校庭全体を見渡せる、なかなか良い場所だ。


すでに先客がいた。


「お兄ちゃん、遅い」


「おまえ、俺より上の階なのに、どうやって先に着いてるんだよ……まさか転送魔法でも使えるのか?」


「あ? そんなものあるわけないでしょ。ちょっと授業を早めに抜け出しただけ」


そう言いながら、先に到着していた真咲は敷物を広げ終え、ぽんぽんと隣のスペースを叩いて座れと促す。


ひゅう。


遠くから風が吹いてきて、俺たちの頬をなでていった。


真咲は自分の弁当箱を開け、なかが一面の緑色であることに気づくと、露骨にがっかりしたため息をついた。


「また野菜ばっかり……ちょっとは肉がほしいなあ」


「このあいだ食事制限するって言ったのはおまえだろ。それに、いま肉を買うのは家計に響くんだぞ」


「うう、ひどい」


悔しそうな真咲の表情を見るのは、なんだか妙に楽しい。俺はもしかして、妹をいじめるという歪んだ趣味でもあるんだろうか。


「ちょっと炒め物をほじくってみろよ」


「え? ほじくる?」


真咲は箸を手に取り、まだほのかに温もりの残る炒め野菜を脇へよけた。その下に隠れていた焼き肉とたこさんウインナーを見つけると、目を大きく見開き、「わあっ!」と歓声をあげる。


「これ全部、お兄ちゃんが用意してくれたの⁉」


「夏休みに倒れるまで働いたのを無駄だと思ってるのか。しかも相手は俺の妹だぞ」


「ううう……お兄ちゃん、ありがとう!」


妹を甘やかすって、なんて幸せなんだろう。


俺は満足げにうなずくと、自分のぶんの弁当箱を開け、箸で料理をつまんで口に放り込んだ。ほどよい暖かさの風を感じながら、妹とふたりで昼飯を食う。この時間が、毎日の学校生活でいちばん贅沢なひとときだ。


もちろん、シスコンじゃない。


「そういえばお兄ちゃん、そっちに転校生って来た?」


「転校生? まあ、女子学院からひとり来たけど、それがどうかしたか?」


「あのね、女子学院って心霊現象があって閉校になったんだって」


「心霊現象?」


トイレで美少女の幽霊に会えるっていうなら、ちょっと興味があるけどな。


「それってただのゴシップだろ。校長が資金をちょろまかして脱税したとか、そういう理由のほうがまだ現実的じゃないか?」


「すごく現実的な発想……」


なんだかつまらなそうに、真咲は膝の上の弁当箱へ視線を戻し、ふたたび食事をはじめる。


「でもね、うちのクラスの子たち、週末にあそこへ遊びに行く計画してるんだよ」


「真咲も行くのか?」


「私、友だちいないし、もちろん行かないよ」


「……そうか」


正直、その言葉は胸に小さく刺さった。真咲には幸せな高校生活をおくらせたいと思って頑張ってきたのに、結局ふたりそろって友だちなしのぼっち兄妹だ。


はあ……。


「お兄ちゃん」


「ん? ……むぐ」


俺が顔を上げるよりも早く、熱々でやわらかななにかが唇に押し当てられた。甘くて、ふんわりしていて……卵焼きだ。


真咲が箸でつまんだ卵焼きで、俺の口をふさいだのだ。


「私、友だちがいなくて高校生活が楽しくないなんて思ったこと、一度もないからね」


「真咲……」


「それに、こうやってお兄ちゃんとふたりでいるだけで、十分しあわせだし」


思わず息を止め、思考も止まった。真咲の不意打ちに驚いただけじゃない。そのしぐさが普段の彼女とは別人みたいに可憐で、たぶん俺は見とれていた。


ぽかんとしている自分に気づき、なんとか体裁をとりつくろおうと必死で言葉を探す。


「少女漫画の読みすぎだよ。やめろ、はずかしい」


「あはは、お兄ちゃんがそんなに気に病んでるの、久しぶりに聞いたから……」


真咲は首のうしろに手を当て、冗談めかして言う。でも、その頬は真っ赤に染まっていて、ごまかしきれていない。俺も顔をそらし、なるべく彼女の目を直視しないようにした。普段はあんなに強がりなくせに、こういうときはきっと、目元がうっすら赤くなっているに違いない。


昼休みはまだだいぶある。俺は持参した保温ボトルを開け、なかの白湯をすすった。そのとき、ひゅう、と風が吹く。


風のなかに、ほのかな甘い香りが混じっていた。いや、シャンプーの匂いだ。


「あの、月島くん、かな?」


振り返って確かめようとするまでもなく、聞き覚えのある声が風にのってやってきた。朝霧さんだ。彼女はスカートが風でめくられないように押さえながら、そこに立っていた。


水色のロングヘアが風に揺れ、吸い込まれそうな瞳と相まって、俺でさえ一瞬どうしていいかわからなくなる。


「朝霧さんか……どうかした?」


「え? このひと誰?」


隣にいる真咲はまったく相手を知らず、あわてて俺の袖を引っ張ってきた。


「こっちのクラスの委員長で、朝霧来海さん」


「そうなんだ……私は月島真咲です、はじめまして」


俺の紹介を聞くと、真咲はなぜかほっとしたように息をつき、それから軽くおじぎをした。


「はじめまして、朝霧来海です。あの、月島くんにちょっとお願いがあって」


「うん……俺に答えられることなら」


喜んで力になりたい気持ちはあったから、俺は弁当箱をいったん片付けた。


「あの転校生のことなんだけど、彼女は一人で大丈夫って言ったけど、やっぱり気になって。よかったら、様子を見てきてくれないかな」


「気持ちはわかるけど、俺も彼女がどこに行ったか知らないし」


「え? お二人とも友だちじゃないの?」


朝霧は、まるで「喧嘩でもしたの?」と言いたげに、不思議そうに首をかしげる。


「まあ、そもそも、どうして俺たちが仲がいいと思ったんだ……?」


「だって、朝、掲示板のところで一緒に名簿を確認してたし、教室でも彼女がときどき月島くんのほうを見てるから」


「あれを見てたのか……」


なぜか、真咲のほうからすごい圧力を感じる。もしここが漫画なら、たぶん「じー……」という擬音が聞こえているにちがいない。


ゴホン。


「あれはただ手伝っただけで、彼女とは初対面だよ」


「そうなんだ。でも、どこへ行ったのかな……」


朝霧がひとりの新入生のために頭を悩ませる姿を見て、俺は心のなかでしみじみと感じ入った。さすがは委員長だ。


「ねえ、お兄ちゃん」


そのとき真咲が、俺の袖をちょいと引っ張り、耳をかしてと身ぶりする。


「手伝ってあげたら?」


「は?」


「お兄ちゃんって、ぼっちが行きそうな場所に詳しいでしょ。そういうとこを回ってみたら?」


「そうは言っても……」


知り合ってまだ間もないのだ。一度すれ違っただけの関係で、学校中を探し回るというのは、どうにも気が引ける。


しばらく迷っていると、真咲だけでなく朝霧まで「お願い」とでも言いたげな目で俺を見つめてくる。正直、面食らった。


見方を変えれば、片や妹、片やそれほど親しくない委員長だが、二人の女子にお願いされるというのは、ラブコメでしか起きない展開じゃないか。断ってもよかったけれど、二人に同時に頼られるチャンスなんて、これが最初で最後だろう。


「わかったよ。でも、見つかる保証はないぞ」


「ありがとう、助かるよ!」


「お兄ちゃんが断らないって、わかってたけどね」


まあ、朝霧への義理はともかく、妹の頼みとなれば、兄として手を貸さないわけにはいかない。


俺は朝霧と真咲、二人を後ろに従え、保健室裏からつづく小道を進むことにした。ここならクラスメイトに見られることもなく、妙な噂も立たないだろう。


学校で人付き合いの苦手なやつを探すのは、さほど難しいことじゃない。とくに、校舎にまだ不慣れな新入生ならなおさらだ。


「そういえば……月島くんは、どうして人通りの少ない場所にあんなに詳しいの?」


「ふふん、なんせ兄貴はぼっちですから」


「ぼっち?」


朝霧は小首をかしげ、水色の髪が肩にふわりとかかる。委員長ともあろう人が、「ぼっち」という言葉を知らないとは思いもよらなかった。


「ぼっちっていうのはね、友だちがいないか、いても作りたがらずに、いつもひとりで行動してる人のことだよ」


「え⁉ 友だちがいないなんて、かわいそうじゃない……!」


うぐっ。


俺と真咲は同時に低くうめいた。悪気がないのはわかっている。わかっているが、えらくグサリとくる。


「い、いや、朝霧さんにはまだ理解しづらいかもしれないけど、この世には友だちがいなくても楽しく生きてる人もけっこういるんだよ」


「うーん……」


朝霧にはやはり腑に落ちないようだ。みんなで仲良くするのが当たり前という優しい性格の彼女には、ひとりでいることを好む生き方は想像しにくいらしい。


通路の左右は教室棟と部室棟に分かれていて、二階部分は渡り廊下でつながり、全体が四角形になっている。階段をのぼっていった先は、屋上だ。


「ちょっと待って。生徒会の規則で、屋上は立ち入り禁止だけど……」


朝霧は足を止めた。委員長として、校則を破るのは気が進まないらしい。


「朝霧さん、意外とルールにきびしいんだね」


「だって委員長だしね」


「え? そういうものなの?」


朝霧は、なんだか少し不本意そうにうなずいた。


それに引きかえ、俺と真咲はかなり適当で、バレにくいことなら校則にすこし抵触しても気にしない。


「じゃあ、俺と真咲で先に屋上を見てくるよ。もし彼女がいたら、降りて伝えるから」


「うん、お願いね」


本当に、慕われている委員長というのはすごい。顔も知らない新入生にここまで気を配るなんて。


俺と真咲は顔を見合わせてにっこり笑うと、二人で階段をのぼりはじめた。


階段にはたくさんの備品やら器材やらが雑然と積まれていて、すんなりのぼれる状態ではなかったが、真ん中あたりに人が通れるだけの隙間ができている。


「この人、力あるね。こんな重そうなものまで動かしてある」


真咲が横の器材をそっと触って、驚いた声をあげた。


「誰か別の人がどけたのかもしれないぞ」


「ふうん……お兄ちゃん、この転校生、もしかして女子学院の心霊事件に関係あるんじゃない?」


「おまえ、まだそんな話を引きずってたのか」


「だって気になるんだもん、ゴシップって」


どうでもいい話を交わしながら、階段の終わりに近づくにつれ、まわりに積まれていた器具やら材料やらも少なくなっていく。突きあたりには、古びた鉄の扉がひとつだけあった。


俺と真咲は同時に手を伸ばし、閉まりきっていない扉を押し開けた。ギィッ、と耳障りな音が響く。


一陣の風が吹きつけてきて、目の前に青い空がひろがった。いつもより、ずっとずっと遠くまで見える気がする。


屋上の暖かな風が目にぶつかり、俺は腕でどうにか遮りながら、なんとか目をあける。


そして、飛び込んできた光景に、思わず目を見張った。


白河が、柵の上に立っている。つま先であの細い鉄のヘリを踏みしめ、体全体が前へ傾いている。いまにも風にさらわれてしまいそうな格好だった。


「おい、うそだろ!?」


「え? お兄ちゃん?」


真咲の声も耳に入らない。俺はすぐさまアスファルトの地面を力いっぱい蹴り、白河めがけて駆け出した。そのまま彼女の体を抱え込むようにして、後ろへ倒れ込む。ふたり一緒に柵のこちら側へ倒れ込んだ。


背中を強く打ったが、腕のなかの存在はひどく軽かった。まるで、一枚の葉っぱみたいに。


はっ、はっ、はあ……。


自分の心臓が激しく脈打つのを聞きながら、何がなんだかわからなかった。


よかった。何が起きたかはわからないけれど、とにかく助けられた……。


「ちょっとお兄ちゃん、なにやってるのよっ!!」


だが、そう思ったのも束の間、真咲が突然駆け寄ってきて、真っ赤な顔で怒鳴った。


なんだよ、こいつ……。


「助けたんだよ」


「お兄ちゃん、そこまで欲求不満だったんだ……」


「え?」


どういう意味だ。


俺は、いま助けたばかりの白河を見下ろした。


目鼻立ちの整ったやわらかな顔。以前はあんなにきれいだった銀白色のショートヘアが、いまは少しくしゃくしゃになり、数本の髪が額や耳もとに乱れている。


頬には明らかに朱がさしていて、それが耳のつけ根まで広がっていた。瞳はかすかに揺れ、唇はきつく結ばれて、全身からどうしていいかわからない戸惑いと羞恥がにじみ出ている。


手にはコンビニで買った牛乳パック。急に抱きつかれたせいで中身がこぼれ、白い液体が指をつたってぽたぽたと落ちていた。


「あれ? でもさっき、俺は確かに……」


あれ? 見間違いか?


「とっとと手を離しなさいよ!」


大混乱におちいった俺の足を、真咲が思いきり踏んできた。



「本当にごめんなさい……」


「兄に代わって謝ります……」


三人がようやく落ち着いてから、俺と真咲はそろって白河に頭を下げた。これでもしセクハラ沙汰にでもなったら洒落にならない。


しかし、相手はとくに責めるでもなく、いつものように淡々と飲み物をすすっている。


「どうせ故意じゃないし、そもそも校則を破って屋上にいたのは私のほうだから」


「寛大なお心に感謝します……」


俺たちふたりは腰をのばし、互いに顔を見合わせた。真咲が俺に言わせたいことは、だいたい察しがつく。


「ええと、どうして屋上に?」


「ああ……ちょっと探しものがあって」


「探しもの?」


白河は今日来たばかりの新入生だ。そんな彼女が、なぜ屋上でものを無くすんだろう。


俺の表情からその疑問を読み取ったのか、白河は手に持った焼きそばパンをわきに置き、顔をあげて俺と目を合わせた。


「最初に来たとき、すぐ屋上に上がったから。そのとき落としたのかもしれない」


「ああ……なるほど」


屋上に来た理由の説明になってない気もするが、初対面の俺が根掘り葉掘り聞くのも無粋だ。


「それで、チャイムが鳴ったらすぐに屋上へ来たのか……」


「誰かに拾われでもしたら面倒だから」


そういうことか。


ただ、こっちの目的はあくまで彼女の安全確認だったから、あまり長居はしないほうがいいだろう。そう思って去ろうとしたとき、真咲が何か思いついたように手をあげた。


「そうだ! その探しものって大事なもの?」


「え?」


白河は突然の質問に面食らった様子で、しばらくうつむいて迷っているようだった。しばらくしてから、ようやくうなずく。


「うん。私にとってはすごく大事なもの」


「じゃあ、お詫びがてら一緒に探してあげる!」


「え? でも……」


「でもじゃないです。ひとりで無理しちゃダメだよ。まだ転校してきたばかりなんだし」


真咲はそう言うと、ずいぶんなれなれしく白河の肩をポンと叩き、それから俺に目を向けた。


「私が先に失礼なことをしたんだから、俺も異存はないよ」


「……」


「ね、三人で探せば、ひとりより効率いいでしょ」


「……わかった。じゃあ、お願いしてもいいですか」


真咲の押しの強さにはどう抗っても無駄だと悟ったみたいに、白河は観念したように目を閉じて、承諾した。表情こそ冷たく見えるけれど、ほんの少しだけ緊張がゆるんだ気がする。


「それで、探しものってなんていうもの?」


「ああ……青いペンダントで、いつ無くしたのか自分でもよく覚えていないの」


「了解、普段から気をつけておくよ」


「私たちにまかせて!」


真咲が、安心させようと俺の肩を叩くが、俺にはただの気休めにしか見えなかった。とはいえ、先にいきなり抱きついたのは俺のほうだし、手伝う責任はある。


……。


「お兄ちゃん?」


「あ、いや、なんでもない」


さっきのは、やっぱり見間違いだったんだろうか。たしかに普段から夜更かしは多いけれど、ここまで目を誤魔化されるなんてこと、あるんだろうか。


目の前で俺を見ている白河も、なぜそんなことをしたのかわかっていない様子で、俺の行為を単なるセクハラだと思っているらしい……それについては本当にすまないと思う。


ふと時計に目をやると、昼休みが終わるまでまだ十分ほどあった。


「そろそろ戻ろ」


真咲が言い、俺もあとに続く。白河はもう少しだけここにいるつもりらしい。


立ち去るまぎわ、俺はもういちど彼女の背中を振り返った。ひどく細くて小さな、少女の背中。それなのに、どこか既視感を覚える。


どこかで会ったことがあるんだろうか。そう尋ねようとした瞬間、先に歩き出した真咲に急かされるようにして、屋上をあとにした。


次の機会に聞ければいいか。


屋上の階段をおりて校舎へ戻ると、そこで待ち構えていた朝霧がすぐに近づいてきた。水色の髪のあいだから、ほのかに花のような香りが漂う。


ちか、近い……委員長、誰かからその目、きれいだって言われたことないのかな。直視できないんだけど。


「どうだった? 白河さん、大丈夫だった?」


「大丈夫だよ。白河は人混みが苦手なだけで、屋上で休んでただけだから」


「そうだったんだ。よかった」


心からほっとした顔を見せた朝霧に、俺は少なからず困惑した。


「朝霧さんは、ずいぶん白河のことを……っていうより、クラスのみんなをすごく気にかけてるんだな」


「うん。委員長としてはみんなを助けるのが義務だし、全員に手を差し伸べられる自信はないけど、それでもできるだけのことをしたくて……」


「お兄ちゃん、この人、めっちゃまぶしい!」


真咲でさえ、その人柄に感服しているようだった。


「ありがとう。なにか困ったことがあったら、いつでも声をかけてね、月島くん」


「あ、ああ……はい」


俺の隣に立っている真咲が、目を細め、妙な目で俺をじっと見ている。


ちょうどそのとき、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴りひびいた。


「昼休みも終わりだし、教室に戻ろっか」


「あ……私も戻らなきゃ。じゃあね、お兄ちゃん、朝霧さん」


真咲は一年生だから、俺たちとは別の方向の廊下へ行かなくてはならない。別れぎわ、意味ありげにひじで俺を小突き、しばらくのあいだ含み笑いをしている。なにしろ今の状況、俺と朝霧のふたりだけで教室へ戻る流れになっているのだ。


なんだか、不思議な気分だ。


同じクラスなんだから、一緒に教室へ戻って当然なのに、今だけはどうにも感傷的になってしまう。もちろん、美人の委員長とふたりで歩けるから浮かれているわけじゃ……。


……いや、まあ、俺も男だしな。こういうのは避けられない。


× × × × ×


放課後、俺と真咲は校舎の下駄箱の前で落ち合って、ふたりでアパートへ帰った。


学校のすぐ横にある公園では、木の葉がまだ青々としているけれど、一部はもう散りはじめている。おそらく、もうじき秋がやってくるのだろう。


ぽつりぽつりと帰宅する生徒たちのあいだに、俺たちも混ざって歩く。


「お兄ちゃん、すごく不思議なことに気づいちゃった」


「あ?」


突然なんだ、こいつは。


振り返ると、真咲は面白がるような目で俺を見ている。思わず眉をひそめた。


「実は隠れてるだけで、学校中の女の子と付き合ってるんじゃないの?」


「だとしたら最高なんだけどな」


「え……じゃあ違うんだ」


なんで今度はがっかりした声音になるんだよ。


俺はあきれて頭を振った。たしかにこいつも俺の将来を案じてくれているんだろうけど、ちょっと過敏すぎる。


「まあ兄貴は、根っからのぼっちのワーカホリックだからね」


「俺みたいなぼっちを好きになる女の子だって、世の中にはいると思うぞ」


「哀れな童貞……」


ぐっ。


だったらおまえは処女じゃないか。


とはいえ、そんなセリフを妹に投げるのはさすがに変だ。道ゆく人に誤解されるだけじゃなく、真咲本人に嫌われるかもしれない。


「考えすぎるなよ。俺と白河は、ただの貸し借りにすぎない」


「そういえば……お兄ちゃん、そんなに欲求不満だったんだ?」


「は?」


意味がつかめず、ちょっと固まってしまった。


「あれだけ知り合って間もない転校生に、いきなり後ろから抱きつくなんて、警察に捕まりたいの?」


「あ、あれは本当に勘違いで……」


言われてみれば急に気が動転してきた。『彼女が屋上から飛び降りようとしているのを見て、とっさに駆け寄った』なんて言っても、到底信じてもらえないだろう。俺はばつが悪くて頬をかきながら、どう答えようか頭をひねった。


「で、真相はなんなのさ」


「え?」


「なに驚いてるのよ。お兄ちゃんが、理由もなくいきなり女の子にちょっかい出すなんて、絶対にないでしょ」


「真咲!」


まさか妹からこれほど信頼される日が来るとは。この数年、苦労した甲斐があった!


感極まったような顔の俺を見て、真咲は呆れながらもほほえんだ。


「なんか妹っていうより、お母さんになった気分……まあいいや。それで、ほんとはどうだったの?」


「それがな……」


こうして妹と一緒に家路をたどりながら、俺は屋上で目にしたあの光景をありのまま話した。話を聞き終わると、真咲でさえ驚いていた。


「お兄ちゃんの目って、私よりいいはずなのに、見間違えるなんてことあるんだ」


「わからん。ただの思い込みじゃないと思うんだけど」


「どうして疑問形なのよ……」


それからしばらく、住宅街の道すがら、二人して事の真相を考え込んだ。正直、バカ二人が大げさに悩んでいるだけに見えなくもない。


「お兄ちゃん、最近働きすぎて幻覚でも見えたんじゃない?」


「少し前までの俺なら大賛成だけど、夏休みにぶっ倒れてからは、ちゃんと休むようになったし」


「そっか。じゃあ、仕事のせいじゃなさそうだね……」


真咲はまた、探偵気取りであごに手を当てて考え込む。なかなかサマになっている。


「もしかして、幽霊少女でも見えたとか……」


「怪談はよせ」


「お兄ちゃんはほんと頭がかたいなあ。この世にだって魔法とか幽霊とか、超常現象が存在しないとは言い切れないんだよ」


「あったとしても、俺たちみたいな凡人には縁がないさ」


「ふうん……」


たとえ本当に出会ったとしても、いいことばかりとは限らない。


真咲はそんなことに大きな夢や憧れを抱いているのかもしれないけれど、俺としては、これ以上予想外のことは起きないでほしい。


「今夜、なにが食べたい?」


「なんでもいいよ」


「じゃあ、カップ麺」


「ええっ、やだ」


なんでもいいって言ったのに。女心はさっぱりわからん。


玄関のドアを開け、そのついでに部屋の照明をつける。俺たちは、狭いけれど安心するこの我が家へ帰ってきた。


「やっと帰ってきたー!」


真咲は玄関ですばやく靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると一目散にベッドのほうへ走っていった。てっきりそのまま寝転がるのかと思いきや、手にとったのはスマホの充電器だった。


「ちゃんと宿題やれよ」


「だいじょぶ。ちょっとだけ配信を見るだけだから、三十分で終わる」


「配信?」


「これこれ、最近すごい人気のアイドル!」


言うが早いか、真咲はスマホの画面をこっちへ向ける。キラキラのアイドル宣伝ポスターが映っていて、ど真ん中には『あなたに幸せを届ける魔法少女! 桜井結月デビューイベント開催中!』と書いてある。


ポスターの写真には、桃色のロングヘアの美少女がいて、アニメの魔法少女が着るみたいな派手でゴージャスなドレスをまとい、ウインクのポーズをとっている。見るからに元気でかわいらしい。


「おお、たしかにかわいいな」


「魔法少女の衣装もすごいきれいなんだよ。ああ、あたしも着てみたーい」


両手で頬をおさえてうっとりしている真咲を見て、つい彼女が魔法少女の格好をした姿を想像してしまう。なんだかすごく気恥ずかしい。


「風呂にお湯を張っておけよ。俺は先に夕飯を作るから」


「はーい」


そう返事を残し、俺は台所で夕飯の支度をはじめる。なにを作るかは決まっていないが、とりあえず味噌汁でも煮よう。


実家からここへ越した初日、妹を元気づけようと味噌汁をふるまったら、見事に失敗した。そのとき、落ち込んでいる俺の姿を委員長が見かねて、相談に乗ってくれたうえに、手書きの料理ノートをくれたのだ。


「そう考えると、俺ってばかり人に助けられてるな……」


ぐつぐつと鍋をかきまぜながら、思わず独り言が洩れた。最初は妹、それから朝霧、最後は夏休みに現れた正体不明の「魔法少女」。ことごとく女子ばかりだ。男としての自尊心が泣けてくる。


夜七時半。


いつもどおり、ベッドわきの食卓にふたりで向かい合って座った。真咲は大皿に盛られた魚を口に運んだ瞬間、目をまん丸に見開いた。


「おいしー! お兄ちゃん、今日はどうして魚なんて?」


「バイト先の店長からお見舞いでね」


「おいしーい」


心底おいしそうに食べている。


「よかった」と思う前より先に、「こいつの口に合ってよかった」という安堵が胸をよぎった。


「それにしても、お兄ちゃん、魚料理もできたんだ」


「ちゃんと作ったわけじゃない。俺の料理なんて下手のもんだよ」


「じゃあ、これはだれが……」


「一部はネットで教わったやつだけど、ほとんどは朝霧が前に書いてくれたノートのおかげだ」


「え? 朝霧さんってあの青い髪の子でしょ?」


その名前に真咲は少し驚いたようだった。まさか、これほど女子に縁のなかった俺が、ずいぶん前から彼女の助けを受けていたなんて想像もしていなかったらしい。


「うん。うちのクラスの連中はみんな彼女のことをすごく慕ってるし、相談室でもカウンセラーをやってるらしい」


「すごい人だね。これって、もう優しいとかの次元じゃなくて、天使って呼ぶべきじゃない?」


「クラスのみんなも同じことを言ってるよ。毎日十通以上のラブレターが届くらしい」


「それはすごすぎ……」


「あんまり優しいから、送った男子たちみんな、『脈ありかも』って勘違いしちゃうんだろうね」


優しさって怖い。だからこそ、俺はすごく優しい女子に出会うたびに、詐欺なんじゃないかと身構えてしまう。


もちろん朝霧は例外だ。あの人は特別なのだ。


心のなかで自分の人生訓を復唱しながら、ご飯と魚を一緒に口へ運び、よく噛んで飲み込んだ。


「じゃあ、お兄ちゃんから見て、女の子のどういう反応がありがたい、って思う?」


「は? なんで急にそんな質問」


「お兄ちゃんてば、いままで一度も女の子を好きになったことがないでしょ。もしかしてそっちの気が、って思っちゃうじゃん」


そう言う真咲は、どこか不満げで、細めた目でじっと俺を見つめてくる。


「考えすぎだ。俺はいたってノーマルだ。ただ毎日が忙しすぎるだけで、女の子に興味がないわけじゃない」


「じゃあ具体的に、お兄ちゃんの性癖は?」


「答えるわけないだろ」


「ちぇっ、ひどい」


「ちぇっ、じゃない。ご飯は残さず食べる」


さっさと食べ終わったのは俺のほうで、あっというまに平らげると、お盆と食器を手に席を立った。


「はあい」


真咲の返事を背に、食器を台所へ運び、シンクに入れて軽く体をほぐしてから洗いはじめる。やっぱり食洗機でも買ったほうが楽だろうか。


俺と真咲がそれぞれに食器を済ませて戻ったころ、浴室からは風呂の湯が沸き上がった合図が聞こえてきた。


「真咲、先に入れ」


「はーい。お兄ちゃん、着替え洗濯機の上に置いておいてね」


そう言って、真咲はスマホを持ち、音楽をかけながら鼻歌まじりに浴室へ消えた。ほどなくして、ガラス戸の向こうからシャワーの水音と、耳に心地よい鼻歌が聞こえてくる。こんなのラノベのワンシーンだったら、さぞドキドキする場面に違いない。


けれど、妹は違う。妹というのは、とても不思議な存在だ。


どれだけきれいでかわいくても、特別な目で見ることはない。たまに下着を洗ってやることはあっても、ただの布きれだ。魅力を感じないかと聞かれれば感じるが、それはやっぱり「兄妹だからだろう」と思うだけだ。本当の妹とは、そういうものなのだ。


俺たち兄妹は、世間一般でいう兄妹とはどこかズレているのかもしれない。まあ、どっちでもいいけど。


そんなことを考えつつ、寝巻きを畳んで籠に入れ、浴室の入り口まで持っていった。


「寝巻き、洗濯機の上に置いとくな」


「ありがと。そういえばお兄ちゃん、白河さんの探しもの、どうやって探すつもり?」


すりガラス越しに、真咲の声がぼんやりと聞こえる。


「どう探すって……学校のなかで心当たりのある場所を回ってみる。図書館とか、食堂とか」


「いつ失くしたのか、ちゃんと聞いておけばよかったね」


それがわかれば、朝霧に防犯カメラを確認してもらうだけで済んだかもしれないが、白河本人もよく覚えていないらしい。


ううん……。


さておき、探しものとは別に、白河を見るたびに俺のなかにはある奇妙な感覚が湧いてくる。何かに遭遇したときにふと、「あれ、これ、前に夢で見たような」と思うのに似ている。


いくら考えても答えは出ないだろう。そう諦めて、さっさとベッドの横の床に布団を敷き、休むことにした。


そのとき、ガチャリと浴室の扉が開いた。寝巻き姿になった真咲が、まだ濡れた髪を拭きながら出てくる。


「お兄ちゃん、髪、乾かして」


真咲は俺の隣にすわった。湯上がりの湯気が鼻すじや額にほんのり残っていて、その熱気が俺の肌にも伝わってくる。


寝巻き越しにも、しっとり濡れた髪とほんのり染まった頬がわかって、小さいころのあのかわいらしかった真咲を思い出させた。いまも十分かわいいのだが、すっかり毒舌家になってしまったのは、少しだけ悲しい。


そんなつまらないことを考えながら、ドライヤーのプラグを差し込んだ。温風が吹きだすなか、手を彼女のやわらかな髪に置く。うん、かなり濡れてる。


「近ごろは妙におとなしくなったな」


「私はいつだっておとなしいよ。世界でいちばん言うことを聞く妹でしょ」


「そうか? 俺としては、二次元の妹のほうがかわいいと思うが」


「お兄ちゃん、たった二ヶ月ちょっと美少女ゲームを遊んだだけで、そんなふうになっちゃった⁉」


俺をじろりと見るその目は、軽蔑と嫌悪に満ちている。もし俺がドMなら、その場で彼女の足もとにひれ伏していたにちがいない。


「美少女ゲームはさておき、おまえのことはずっとかわいいと思ってるよ」


「なにそれ、きっしょ……」


「なんでもなーい」


かわいいというより、なんとなく愛おしさが込み上げてくるというか。そばにいて面倒を見ているだけで、心が満たされる。


髪を乾かし終え、部屋の明かりを消すと、室内は一気に闇に包まれ、タイマーを設定したオレンジ色の常夜灯だけがともった。


真咲とそれぞれの布団に入ってからも、静かな空間のなかでは、遠くを通る車のクラクションが妙に目立つ。


目を閉じてもなかなかすぐには眠りに落ちず、しばらくのあいだじっと横になっていた。


「ねえ、お兄ちゃん」


どうやら眠れずに暇だったのか、布団のなかでゴソゴソと寝返りを打つ音がする。想像するに、いまごろ真咲は布団のなかで体をこちらに向けているはずだ。


俺は真咲の言葉を待った。けれどしばらくしても、彼女はなにも言わない。


「どうした?」


「なんでもない」


すぐに寝返りを打つ音がして、布団のなかにもぐり込む気配が伝わった。


「なんだよ……」


なんだか不機嫌そうだけど、まあ女の子にはいろいろ秘密があるのだろう。これ以上は聞かずに、「もう寝ろよ。明日も授業だ」と小さく声をかけた。


「わかってるよ……ばか兄貴」


さっぱりわからない。


たぶん、あまりにいろんな難しいことを考えすぎて、頭がこんがらがってしまっているのだろう。考えるのをやめて、目を閉じて思考を空っぽにすることにした。


夢のなかでは、今日起こったたくさんの出来事が、ぼんやりと浮かんでは消えていった。

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