第一章 転校生
あの夜、アパートに戻ってから、俺は簡単にシャワーを浴びてベッドに倒れ込んだ。
本当は妹に体調の悪さを悟られたくなかったのだが、観察力の鋭い彼女は一目で異変に気づき、家の救急箱で俺の体をひと通り調べてくれた。いつの間にこんなことを覚えたんだか。なけなしの力も残っていなかった俺は、ただされるがままになるしかない。眼球の奥が、くり抜かれるみたいに痛んだ。
「もう、信じらんない! 自分の体をもっと大事にしなよって、何度も言ってるのに!」
事情を話すと、思い切り怒られた。
「今度どこでバイトするかは、必ず私に教えること。もしまた何かあったら、私……」
そう言いかけて、彼女は耐えきれなくなったように、俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
そういえば、あいつがこんなに怒った顔をするのは初めてだった。結構かわいいじゃないか、なんて思いながら、ふと気づく。もしあの人が助けてくれなかったら、俺は二度と、妹のこんな顔を見られなかったかもしれない。
魔法少女、か。
俺は心の中でその言葉を反芻する。あの時の光と温もりを思い返す。にわかには信じられないが、それでもやっぱり、俺は感謝していた。もしチャンスがあるなら、きっと、あの人に恩返しがしたい。
俺の名前は月島明。数年前に妹と一緒にこの街へ引っ越してきて、狭いアパートでバイトを掛け持ちしながら学校に通う、ごく普通の高校生だ。あのあと俺は、妹に無理やり病院へ連れて行かれた。気乗りはしなかったが、体にまだ何か異常が残っていないかを確かめるには、ちゃんと検査を受けるしかない。
おまけにビール工場のほうでも、俺の体調のことを考えてくれたのか、しばらくは雇い直すつもりはないと言われてしまった。おかげで生活はもう節約できるところもわからないくらい切り詰めるしかなかったが、幸い、いくらかの補償金をもらえたので、向こう数ヶ月の生活費はどうにか工面できそうだ。
ほかにも仕事を探したかったのだが、妹に強く止められ、きちんと休むよう言いつけられてしまった。
ベッドのそばで傷を癒やしながら、俺はもう十八歳で、妹も十七歳であることに思い至る。たしか、どこかのアイドルが言っていた。十八歳は人生でいちばん輝く季節で、この時期の少年少女はみんな情熱と未来への憧れに満ちている、と。
けれど、俺たちは違った。妹にはいまだに友だちがおらず、俺も仕事と学業で手一杯で、恋愛のひとつもしたことがない。
ただ、この貴重な休養期間に、ひとつだけわかったことがある。それは、体力もお金も使わずに恋愛を追体験できる方法があるということ——美少女ゲームである。
もちろん、妹の前でやったりはしない。そういうゲームをしたことがなかったから、Hシーンが出てくるときは、あいつが本当に寝ているかどうか、気配を探るようにもなった。なにせ節約のために借りたこのアパートはとても狭くて、俺たちは同じ部屋で寝ている。相手が何をしているかは、まあ、簡単にわかってしまうのだ。
もともとは、妹に穏やかで幸せな高校生活を送らせるためだったはずなのに、気づけば自分の体を壊して、逆に世話を焼かれている。我ながら複雑な心境だった。
そんなこんなで、およそ二週間の「強制休養」を経て、俺は夏休み明けにようやく学校へ戻った。
今年は高校二年。あと一年半ほどでこの学校を卒業し、大学に進めば、また少しは時間の余裕もできるだろう。そうしたら、きっとまたバイトに明け暮れるんだろうな。
家族と自分を支えるだけで精一杯の俺に、本当に恋愛の可能性なんてあるんだろうか。
わずかな休息の合間、俺は心のなかで、そんなため息をついていた。
朝の六時頃、まだ頭がぼんやりしたまま、俺は床に敷いた布団から起き上がった。部屋を出て洗面所へ向かうあいだ、ベッドで眠る妹を起こさないように、足音をひそめる。
こんな時間から登校準備をしなくてもいい。この一ヶ月ですっかり二度寝の気持ちよさを知ってしまったが、今日から新学期だ。そろそろ生活リズムを取り戻さないといけない。
洗面所で顔を洗い、手をすすぎ、口をゆすぐ。それから台所へ戻り、味噌汁を温めはじめ、同時にパンをトースターへ放り込む。立ちのぼる匂いに食欲を刺激され、ついお玉で味噌汁をすくって一口すすった。
味噌汁の加減を確かめながら朝食の仕上がりを待ち、七時頃、炊飯器が「ピッ」と鳴ったところで、それらを食卓へ運ぶ。
「真咲、朝だぞ。起きろ」
ベッドへ歩み寄ってカーテンを開けると、部屋中に日差しが満ちた。布団のなかで丸まっていた物体がもぞもぞと動き、「うぅ……」と寝息なのか寝言なのかわからない声を返す。
ほどなくして、真咲は掛け布団を足で蹴り飛ばし、目を開けた。朝日に照らされた黒髪がさらりと揺れる。こいつの性根を知らなければ、知的でもの憂げな黒髪ロングの美人という錯覚を起こしたかもしれない。
「……もう朝?」
まだ夢とうつつのあいだを漂いながら、真咲は目元をこすり、ぼんやりと言った。
「七時だぞ。今日から新学期だろ。早めに行くに越したことはない」
そう言うと、真咲はようやく慌ててベッドから這い出してきた。
「もー、お兄ちゃん、もっと早く起こしてくれなきゃ」
「おまえが昨夜遅くまで起きてたからだろ。七時でも十分早いって」
「むぅ……」
ベッドを出た真咲は不満げに頬を膨らませたが、大きなあくびがそれを遮る。まだ眠たそうな目をしている。とはいえ、テーブルに並んだ朝食を見つけると、ぱっと顔を輝かせて「わー」と声をあげた。
「起き抜けにおいしそうな目玉焼きが見られるなんて、しあわせぇ」
「顔を洗ってこい。熱いうちに食べるぞ」
「りょうかーい!」
真咲は足音を立てて洗面所へ駆けていき、水音とともに、シャカシャカと歯を磨く音が聞こえてくる。数分後、すっかり目を覚ました真咲が戻ってきた。
テーブルを挟んで向かい合い、ふたりで「いただきます」と手を合わせ、箸で目玉焼きをつまんで口へ運ぶ。
「うー、お兄ちゃんの目玉焼き、久しぶり」
「目玉焼きごときに大げさだな」
「ロマンがないんだよ、お兄ちゃんは」
そう言うと、真咲はまた笑いながらゆっくりと食事を楽しみはじめた。俺はそのあいだに味噌汁をよそって、あいつの前に差し出す。
「まだ熱いから気をつけろよ」
「おじいちゃんみたい。もう十七なんだから、味噌汁でやけどしないって」
「それでも、心配なんだよ」
我ながら不思議なものだ。もう十七年も一緒に過ごしている妹なのに、ちっとも大人になった気がしない。まるで小さな子どもを相手にしているみたいに、なにかと気にかけてしまう。
妹という生き物は、きっとこういうものなんだろう。べつに、俺はシスコンではない。
「新学期が始まるまでに体が治って、ほんとによかったよ」
「そうか? 俺はべつに……」
「もう、お兄ちゃんってば熱意が足りないんだよ」
ついでに言えば、夏休みに働きすぎてぶっ倒れた夜のことも、俺は真咲に洗いざらい話した。見知らぬ女の子に助けられたことも、「魔法少女」を名乗っていたことも。ただ、それを聞いた真咲は、相手は正体を明かしたくない親切な人で、だからああいう呼び方をしたんじゃないか、と解釈したようだった。
なんだか特撮ヒーローに憧れる少年少女みたいな話だけど、世の中にはあんなに親切な人もいるんだな。
朝食を食べ終え、食べ終わった食器を片付けはじめる。
「皿は俺が洗うよ」
「それより先に着替えたらどうだ。まさかパジャマで学校に行く気か?」
「え?」
その瞬間、真咲は自分がまだパジャマ姿だったことに気づいたらしく、みるみる顔を赤らめた。
「わ、わかってるよ!」
そう言い捨てて、真咲はベッドのそばへ引き返し、掛けてあった制服に手を伸ばす。俺はいつものとおり台所へ引っ込んで皿を洗いはじめた。もちろん、妹が目の前で着替えるのを「恥ずかしい」と思うからではない。恥ずかしいというか、気まずいし、どうしていいかわからないのだ。現実の妹というのは、美少女ゲームやラノベのようにはいかない。
台所から出てきたときには、真咲はもう体の線がきれいに出る制服に着替え終わっていた。スカートの生地はしなやかで、膝丈あたりまで落ち着いている。その下には、ふくらはぎまで覆う黒いハイソックス。見るからに「美少女」という言葉が似合う姿だった。
「教科書と学生証はちゃんと持ったか」
「うん、準備万端」
真咲はこくりと頷く。まだ少し緊張しているように見えたけれど、ここに留まっていても仕方ない。そう思い、俺は先に玄関へ向かった。
「それじゃ、行くぞ」
「うん」
靴を履かせてから、ふたりで外へ出る。
玄関の鍵をかけ、エレベーターで一階まで下りて、アパートを出た。夏休みが明けても、気温はすぐには下がらない。街路樹のあいだではまだ蝉がうるさく鳴いていて、夏の暑さも一向に去る気配がない。
通学路には、俺たちと同じような学生や、スーツ姿の社会人たちがちらほらと見える。
「ねえ、お兄ちゃん。たとえばだけど、助けてくれた女の子がうちの学校の生徒ってことはないかな」
「さすがにできすぎだろ。どっかの女子高生かもしれないしな」
そもそも俺はあの人の顔すらちゃんと見ていない。仮に同じ学校だったとしても、探しようがない。
ただ、あの夜の礼はきちんと言いたかった。
「ざんねん。もし会えたら、ちょっとした縁くらいはできたかもしれないのに」
「礼を言いたいだけだよ。変な想像はするな」
「お兄ちゃんは、恋愛に興味ないの?」
「今は生活をどうにかするだけで精一杯なんだ。それに、おまえの世話もあるしな」
俺の言葉に、真咲はそれ以上食い下がらず、しゅんと静かになった。「そうなんだ……」と小さく呟く横顔は、どこか寂しげで、少し言い過ぎたかもしれない。だってこいつは、俺の将来を案じてくれているのだ。
俺は苦笑しながら、ぽんと真咲の頭に手を置き、そのまま気持ちいい感触を確かめるようにそっと揺らした。
「心配しなくても、好きな人ができたらちゃんと頑張るよ」
「ほんとに?」
「あったりまえだろ。こう見えて、恋愛には結構興味あるんだ」
これは嘘ではない。年頃の男子高校生として、同年代の女の子に興味がないわけがない。
「お兄ちゃんは、いつもそうなんだから……」
「ん?」
「なんでもない」
真咲は何か言いかけて、けれど口をつぐんだ。こいつにもプライベートはあるだろうし、俺もそれ以上は追わず、「そうか」とだけ返した。
約二ヶ月ぶりの通学路には、かすかな懐かしさが滲んでいる。べつに仲のいい友だちがいるわけでもないのに、それでもやっぱり、安心する。
学校に着くと、俺は真咲を連れて掲示板の前へ向かった。すでに人だかりができている。夏休み中に教室配置が変わったため、全校生徒がここで自分のクラスを確認しなければならないのだ。
それでもクラスメイトは変わらない。友だちはいなくても、顔なじみと一緒の教室ならまだ気が楽だった。
「ちょっとここで待ってろ。教室を確認したらすぐ戻る」
「うん、お兄ちゃんにおまかせ」
「知らない人に連れて行かれるなよ」
「子どもじゃないんだから!」
真咲は混雑した場所がもともと苦手で、毎年こうして俺が代わりに掲示板で名前を探している。初詣のときだって、わざわざ人の少ない時間を狙って行くくらいだ。
しょうがない妹だな、と肩をすくめながら、俺は人混みのなかへぐいぐいと分け入った。
二年生の欄に「月島明」の名前を見つける。クラスはB組。教室は二階に変更されていた。一方、真咲の「月島真咲」がいる一年生は、さらに上の四階。ずいぶん離れてしまった。この学校では、放課後以外の時間に別のフロアへ立ち入るのは禁止されているから、校内で真咲と顔を合わせる機会は、これまでよりずっと減ってしまいそうだ。
自分のクラスを覚えたところで、真咲のもとへ戻ろうと体の向きを変える。
「……ん?」
と、そのとき、人だかりのはるか外にぽつんと立つ、ひとりの女子生徒が目に入った。
俺より頭ひとつ分は背が低くて、やわらかそうな銀白色の髪をしている。長さはちょうど首のあたりで切りそろえられていて、真咲のストレートロングとはまるで印象が違う。とても小柄で、中学生みたいだ。そのせいでうまく掲示板に近づけず、ほかの生徒に何度もぶつかられている。
それでも彼女の表情はまったく動じず、常に落ち着いていた。
だが、なぜだかわからないけれど、俺の目はその子に釘付けになった。もしかすると、夏休みにあの見知らぬ人に助けられたことで、自分も誰かの役に立ちたいと思うようになったのかもしれない。
「あの……名前、なんていうんだ?」
ほかに気がないことを示したくて、できるだけおだやかな口調で声をかけた。
銀白色の髪がふわりと揺れて、彼女がこちらを向く。その瞬間、思わず固まってしまった。
やや長めの前髪の下には、宝石みたいに透き通った瞳があった。小動物のような幼さを感じさせるのに、感情も色彩も読めない、それでいて存在そのものがひどく人を惹きつける。
彼女は俺を見るなり、少しだけ目を大きく見開いて、その場で固まった。でも、すぐに我に返る。
俺、なにか驚かせたかな……。
「ごめん、困ってそうに見えたから」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
「これからだよ。もっと人が増える」
彼女は俺の言葉をそれなりに筋が通っていると思ったのか、校門の外にずらりと並ぶ生徒たちの列をちらりと見やって、わずかに眉をひそめた。おそらく、これからもっと混み合う光景を想像したんだろう。
「うちの学校って人数が多いからなあ——」
「白河静」
「え?」
「私の名前です」
「ああ……そうか。で、クラスは?」
「……わかりません」
「わかった、ちょっと調べてくる」
いい名前だな。真咲をあまり待たせるわけにもいかないから、身長の高さを活かしてもう一度人混みをかき分ける。俺だってそれほど高身長というわけじゃないが、同年代のなかでは目立つほうだった。
名前は白河静。しかし、どうして自分のクラスがわからないんだろう。あまり根掘り葉掘り聞くのも失礼だし、名簿から探すしかないな。生徒の名前はきちんと整理されているから、探すのは難しくなかった。
「あれ……?」
彼女の名前はB組の名簿にあった。
B組。俺と同じクラスじゃないか。でも、こんなクラスメイトがいたなんて記憶にない。
人混みから抜け出すと、白河というその子は少し空いた場所へ移動していた。どうやら俺と同じで、ひとりでいるのが好きなタイプらしい。
「えっと……B組だったよ」
「ありがとうございます」
「い、いや」
礼を言うなり、彼女は俺が本人について尋ねる隙も与えず、校舎のほうへ歩き去っていく。まあ同じクラスなら、これから何度も顔を合わせるだろう。しかし、なぜこんなに既視感があるんだろう。それに、同じクラスだってのも、どうにも引っかかる。
「ばーか兄貴!」
「ぐえっ」
突然、尻に痛みが走って、思索を中断させられた。振り返ると、そこには真咲が立っている。
「わ、我が妹よ。校内で兄の尻を蹴るのはやめてくれ。かなり恥ずかしい」
「妹を放ったらかしで、かわいい女の子としゃべってるお兄ちゃんがなに言ってるの」
「すまん、俺が悪かった」
俺が素直に謝ると、真咲という妹は兄をよく理解してくれているので、手をひらひら振って許しを示した。まったく、このやつめ。
「それで、私の名前、見つかった?」
「ああ。真咲の教室は校舎の四階で、俺は二階だ」
「う……」
途端に、彼女の表情はくもり、まるで捨てられた子猫みたいな顔になる。
「結構離れてる」
「仕方ないよ。学年が違うんだから」
「……もう、飛び級しようかな」
「やめとけ。おまえの成績じゃ申請が通らない。おとなしくしてろ」
そう言っても真咲はまだ唇をとがらせ、不服そうな顔をしている。
「わかったよ……放課後はちゃんと迎えに来てよね」
「了解」
すると、その表情もようやく少しやわらいで、ずいぶんかわいくなった。しかし妹という生物はこれだから困る。
真咲が遠ざかっていく背中を見送っていると、自分がだらしなくニヤけていることに気がついた。やばい。妹を見送ってニヤけるのは、かなりまずい。俺はあわてて背筋を伸ばし、ジャケットの襟もとを直す。
うん、やっぱりクールなイメージは崩さないでいこう。そう思いながら、俺はほかの生徒たちに続いて、足早に校舎へ向かった。
フロアが変わっても、見かける顔ぶれは変わらない。挨拶と雑談が混ざり合った喧騒が、階段を上がって廊下まで伸びていく。
教室に入るとき、俺はいつも他人の視線を気にしない。そのまますたすたと歩いて、自分の席に座る。毎日放課後はバイトに追われていたから、これまで人間関係に気を遣ったことなどなかった。当然、クラスに友だちもいない。
みんな、俺にはとくに反応しない。それはそれで、気楽だった。
ざわめきのなかで一時間ほどが過ぎたころ、教室のドアがようやく再びゆっくりと開き、教科書を抱えた教師が入ってきた。
「みんな、ずいぶん早く来てるじゃないか。先生は感心だよ」
「先生、新しい教室めっちゃボロい~」
「今年は新入生が増えたから、先輩たちにはちょっと辛抱してもらわないとね……新入生といえば、ひとつ連絡事項があるんだった」
そう言って、彼女は教科書を教壇の隅に置き、眼鏡越しに教室を見回した。
「実はね、近くの女子学院でいろいろあってね、うちの学校に転入することになった子がいるんだ。みんなと同じこのクラスで一緒に勉強することになるから」
途端に、教室内がざわついた。それでもそのほとんどは、新しいクラスメイトを歓迎する空気だった。女の子だし、男子たちは当然、期待している。
しかしこのタイミングでの転入ということは、よほど社交性が高くて陽キャなタイプでもないかぎり、クラスに溶け込むのは難しそうだけど……。
待て、転入生……まさか。
「さあ、入っておいで」
俺の思考は、いつも厳格な響きを帯びた教師の声で遮られた。
ドアがゆっくりと開かれ、その転入生が教室へ足を踏み入れる。
次の瞬間、教室内はしんと静まり返り、俺を含めた全員の視線が入り口に釘付けになった。
そこに立っていたのは、ひとりの少女だった。
思わず庇護欲をそそられるほど小柄で、まるで小動物みたいに可愛らしい。体つきはとても華奢なのに、胸のあたりは意外なほどふっくらとしていて、きちんと着こなされた夏服が体のラインをきれいに縁取っている。こんなに暑い季節なのに、足もとは黒いタイツで覆われていた。
ただそこに立っているだけで、クラス中の注目を一身に集めている。「かわいい……」というため息が、あちこちから聞こえてくる。俺もまた、彼女から目が離せなかった。
やっぱり、さっき別れたばかりのあの子だ。名前は、たしか……。
「じゃあ、自己紹介をしてもらおうか」
「はい」
教師にうながされ、彼女は淡々とうなずいてチョークを手に取る。そして、黒板にきれいで整った文字で『白河静』と書き、くるりとこちらへ向き直った。
「白河静です。よろしくお願いします」
鈴の音のように澄んだ声が、それだけを告げて途切れた。涼やかと形容することもできるが、感情の籠もっていない声、と皮肉ることもできそうな声だった。
「うん、ずいぶん簡潔でそつのない自己紹介だったね……じゃあ、窓際の空いてる席に座って」
「はい」
白河は教壇を降りる間際、俺のほうをちらりと一瞥した。だがそれは本当に一瞥で、俺の存在になどまるで気づいていないとさえ思えるほどだった。まあ、俺たちは一度すれ違っただけだ。顔を覚えていなくて当然だろう。
「白河さんは新入生だから、学校のことはまだいろいろわからないよね。だから、誰かひとりに、昼休みに校内を案内してもらおうと思ってるんだけど」
「はいはい! 俺がやります!」
先生が言い終わらないうちに、何人もの男子が立候補しはじめる。
「男子は却下。女子をひとり選ぶつもりだから」
「それなら、もう委員長しかいないでしょ」
「たしかに。委員長は美人で性格もいいし、適任だよね」
みんなの賞賛と期待を受けて、俺もそちらへ視線を向ける。
「みなさん、ありがとうございます……あの、もし私でよければ、喜んでお手伝いします」
それは、ふわりと波打つ青みがかった長い髪に、宝石のように淡く青い輝きをたたえた瞳の、とても美しい女生徒だった。
朝霧来海。男子たちが陰でひそかに決めている「彼女にしたいクラスメイトランキング」で、常に一位を獲りつづけている少女だ。なにしろ外見があまりにも突出していて、まるで二次元から飛び出してきたみたいなのだ。もちろん理由はそれだけでなく、彼女の最大の魅力は、とても心が優しく、大和撫子を思わせる気品があることだった。
「あの……っ」
そのとき、後ろの席に座っていた白河が手を挙げ、みんなの賛辞を遮った。
「私、ひとりで大丈夫です」
「え? でも……」
「お気遣いありがとうございます。自分で見て回るほうが好きなので」
周囲が、しんと静かになる。まさか、委員長と校内を回る機会を断る者がいるとは、みんな思わなかったんだろう。
「そう……それなら、もし何か困ったことがあったら、いつでも私のところに来てね」
「ありがとうございます」
さすがは委員長だ。こういう状況でも、さらりと話題を収束へ導ける。俺も少し感心してしまった。
と、同時に、教師が授業をはじめる。転入生の話題は、そうして真面目で静かな空気のなかへと溶けていった。
……どうも、誰かに見られている気がする。
板書をノートに写しながら、俺は教室のどこかから感じる視線に気づいていた。けれどそれは白河ではない。彼女はといえば、授業中はまるで機械のように、周りの世界など存在しないかのごとく一心不乱にノートをとっている。
きっと、気のせいだろう。




