第三部 第7話:赤い薔薇とバルコニーの漆黒、あるいは揺れる乙女心
完璧な作法で平伏するロメーダ帝国の英傑一同の中。
ただ一人、プラチナブロンドの髪を光らせた皇帝レグルスがゆっくりと立ち上がった。
彼は深淵なるエメラルドの瞳で、スピカ・マセットの顔をじっと見つめる。
その眼光はどこか熱を帯びており、周囲の威圧的な空気を一瞬で塗り替えてしまうほどに雄弁であった。
そして――。
「――会いたかったぞ。スピカ・マセット」
短く、しかし低く響く声。
端正で色白な顔立ちに浮かぶ真摯な眼差しに見つめられ、スピカは言葉を失ったまま、吸い寄せられるようにそのエメラルドの瞳を逸らすことができずにいた。
心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をする。
スピカの反応を確かめるようにしばらく彼女を見つめ続けていたレグルスだったが、やがて満足したように一歩引き、短い言葉でその場を切り上げた。
「……では、またな」
彼は振り返ると、平伏していたロメーダの英傑たちへと威厳に満ちた号令を下す。
「皆の者! 引き上げるぞ!」
「「「はっ!!!!」」」
地鳴りのような返答と共に、一人一人が唯ならぬオーラを纏った英傑たちが一斉に立ち上がった。彼らは帝国の紋章が黄金に輝く豪華な馬車へと整然と乗り込み、そのまま疾風のように去っていった。
スピカはただ呆然と、遠ざかる馬車の後姿を見送ることしかできなかったのだった。
出迎えの狂騒が過ぎ去り、迎賓館のエントランスロビーに全員が荷物を運び入れたところで、シリウス王子が引き締まった声で全員に言葉をかけた。
「長旅の到着早々で申し訳ないが、デネブ君、ジョーンズ君、カノープス君は今後の情勢と警戒体制について話し合いたい。私と共に会議室へ同行してくれ」
三人が即座に静かに頷く。シリウス王子は続けて残りの一行を見渡した。
「その他の者については、用意された各々の客室で待機していてほしい。以上、よろしく頼む」
カノープス君は会議室へ向かう直前、隣に立つハダル軍曹へさりげなく鋭い目配せを送った。ハダルもまた、察したように小さく目元を緩めて了解のシグナルを返す。流石はハイクラス忍者と優秀な後輩の連携である。
会議室組以外のメンバーは、迎賓館の専属メイドたちに案内され、それぞれの部屋へと向かっていった。
そんな中、スピカだけは案内人のメイドから「スピカ様は、こちらの特別室でございます」と告げられ、最上階に位置する別の階へと案内されることになった。もちろん、護衛としてハダルちゃんと、王国諜報部の女性レンジャーも同行する。
目的の部屋の前に到着すると、ハダルちゃんは女性レンジャーを廊下に待機させ、警戒の面持ちで客室の中へと入った。彼女は懐から一枚の羊皮紙を取り出すと、部屋の中心でバッと広げた。
「――『ファインド・イービル(邪悪探知)』!」
主にプリースト系の聖職者が使用する、薬物や毒物、あるいは隠された呪術的仕掛けを探索するための基本探知呪文だ。
淡い聖なる光が部屋全体を包み込み、壁や家具を舐めるように走ってスーッと消えていく。
「ふう……大丈夫よ、スピカさん。邪悪な罠や危険な仕掛けは仕込まれていないわ」
ハダルちゃんの心強い言葉に胸を撫で下ろし、重厚なマホガニーの扉を押し開けて足を踏み入れる。
「……すごい部屋……っ」
私は思わず息を呑み、目を丸くした。
そこに広がっていたのは、完璧なまでの非日常空間であった。
足裏を優しく包み込むのは、深海を思わせる濃密で深い紺青の高級絨毯。
高く持ち上げられた折り上げ天井からは、無数のカットガラスが光を細かく砕く豪奢なシャンデリアが吊り下げられ、室内に柔らかく気品ある黄金色の光を降り注がせている。
壁面には繊細な金箔の意匠が施されたシルクの壁紙が張り巡らされ、歴代の巨匠の手による重厚な油彩画が控えめに掛けられていた。
部屋の奥、天井から床へと優美なドレープを描く重厚なベルベットのカーテンの隙間からは、ライトアップされた広大な庭園と、暗闇の中に神秘的に浮かび上がる大噴水のシルエットが一望できる。
部屋の中心には、幾年月を経たアンティークの銘木家具たちが整然と佇み、その横には艶やかな漆黒の光沢を放つグランドピアノまで設置されていた。
そして――何よりも一番に私の目を引いたのは、中央のガラステーブルの上に飾られた、数十本もの眩いばかりの赤い薔薇の大花束であった。
その中央には、小さなカードが添えられている。
『――レグルスより、愛を込めて。――』
カードの文字を目にした瞬間、隣で検分していたハダルちゃんがぽつりと呟いた。
「……重っ!」
「っ……!」
容赦のないハダルちゃんのひとことに、スピカは顔が熱くなるのを止められなかった。
その後、ハダルちゃんと共に厳重に毒見チェックを済ませたルームサービスの夕食をいただき、ハダルちゃんが隣室の護衛用控え室へ移動したのを見届けてから、私はシャワー室へと向かった。
温かいお湯を浴びながら、今日一日の出来事を思い出す。
(また……あのアクアマリンとは違う、深いエメラルドの瞳に引き込まれそうになっちゃったな……)
目を閉じると、プラチナブロンドの髪を揺らし、「会いたかったぞ」とまっすぐにスピカを見つめてきたレグルスの顔が鮮明に浮かんでくる。
(それに……あの薔薇の花束)
ハダルちゃんは「重っ!」なんて呆れて笑っていたけれど。
本当のところを言えば――スピカの心は、少しだけ嬉しさに跳ねていた。
(不器用でも、あんな風に自分の好意をはっきり言葉や形にして伝えてもらえるのは……やっぱり、悪い気はしないけれど。……でも、本当に彼の本心なのかしら。ロメーダの皇帝としての政治的な計算じゃないって、信じてもいいのかな……)
シリウス王子との間に感じるどこかもやもやとした壁と、レグルスからのストレートで重すぎるアプローチ。二人の王子の間で揺れる自分の気持ちに、小さなため息が漏れた。
シャワーを浴び終え、肌触りの良いシルクのガウンに袖を通す。
部屋の明かりを少し落とし、ライトアップされた美しい庭園を眺めようと、大きな掃き出し窓に近づいた時だった。
――ふわり。
羽毛が舞い降りるような無音の着地音と共に、バルコニーの欄干の向こうに黒い人影が現れた。
夜風に揺れる重厚なベルベットのカーテン。
その影はゆっくりと身を起こし、室内へと顔を向けた。
漆黒の覆面で顔の下半分を覆っているものの、その隙間から覗くのは――夜の闇の中でも鮮烈な光を放つ、あの深淵なるエメラルドの瞳。
「ッ……!? レ、レグルス皇帝陛下……!?」
スピカは口元を両手で覆い、信じられない思いでその黒い人影を見つめたのだった。
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