第三部 第3話:密謀の耳打ち、あるいは山吹色の来客
――ロメーダ帝国・アルメキオン学園生徒会室。
重厚なオーク材の扉の奥、絢爛豪華な装飾が施された部屋で、帝国の頂点に立つ若き覇王は苛立ちを隠そうともせずに足を組み、深く革張りの椅子へと腰掛けていた。
「――デネボラ。どうする?」
低く不機嫌な声で問いかけるレグルスに対し、彼の側近であり、帝国の参謀長を務めるデネボラは、手元の書類から静かに視線を上げ、ゆるりと返答した。
「……何のことでしょうか、陛下」
「惚けるな! 聖女スピカ・マセットのことだ!」
レグルスがガタリと机を叩いて噛み付くと、デネボラは深いため息をつき、眼鏡のブリッジを指先で軽く押し上げた。
「……こちらも、閣僚の全頭脳を振り絞り、あの未曾有の戦果と『賢者の書』の開示という至高の演出をもって、彼女をロメーダの管理下に留めようと画策いたしました。……ですが、あのミルキーウェールズの『たぬきコンビ』――シリウス王子とゼダル特権外交官の手腕にしてやられました。それに……あのゼダルの息子、カノープスという男も、なかなかのやり手でしたな」
デネボラは淡々と、しかし確かな評価を口にする。
「あのシリウスの副官か。……チッ、敵を褒めている場合ではないぞ! こうしている間に、あのスケベたぬき(シリウス)に既成事実を作られてしまうではないか!」
吐き捨てるように叫ぶレグルスに対し、デネボラは「おや」とでも言いたげな、意外そうな表情を浮かべた。
「……そちらですか?」
「何だ、その目は」
「失礼いたしました。……陛下は、あのスピカという少女に対し、政治的価値だけでなく……『真にご執心であられる』とお見受けいたしましたので」
デネボラの鋭い観察眼に突かれ、レグルスは一瞬だけ言葉を詰まらせた。彼は窓の外、ミルキーウェールズのある遥か東の空を見つめ、少しだけ苦い顔をして息を吐いた。
「……わからん」
「わからぬ、と?」
「ああ。あのたぬきに取られたくない、というのは確かだ。……だが、それ以上に……もう一度彼女に会い、余のこの胸のモヤモヤとした気持ちを、確かめてみたいと思っているのも事実なのだ」
覇王らしからぬ、どこか人間味のある不器用な吐露。
それを聞いたデネボラは、ふっと口元に薄い笑みを浮かべると、静かにレグルスの元へと歩み寄った。
「――それならば、陛下。このような手はいかがでしょう」
デネボラはかがみ込み、レグルスの耳元で密やかに何かを囁いた。
その内容を聞くにつれ、レグルスのエメラルドの瞳に、獰猛で朗らかな光が戻っていく。
「――素晴らしい考えだ! 素晴らしいぞ、デネボラ! よし、すぐに実行に移せ!」
レグルスは爽快な笑みを浮かべ、控えていた配下の者たちへと一斉に指示を出し始めたのだった。
――ミルキーウェールズ王国・メレンヘア学園生徒会室。
陽光が差し込む静かな室内で、カノープス・チュワートスは書類に目を落としながら、密かに眉をひそめていた。
(……シリウス王子とスピカさん。昨日から、どうにも雰囲気が変だ)
普段であれば、王子の軽妙なアプローチにスピカが慌てふためくというのが日常の光景だった。しかし今朝の二人は、表面上は穏やかに接しているものの、どこか互いに壁を作り、距離を置いているように見えた。長年、影としてシリウスに仕えてきたカノープスの鋭い直感が、その小さな狂いを逃すはずもなかった。
メレンヘア学園生徒会庶務――カノープス・チュワートス。
どこにでもいるような中肉中背、これといった特徴のない平凡な少年。しかし、それこそが彼の完璧な「擬態」であった。
彼の真の姿は、シリウス王子を闇から守る絶対の影であり、ミルキーウェールズ王国が誇るハイクラス忍者にして、諜報部のトップエージェント――カノープス中尉。そして海の魔王クラーケンとの戦いでは『イナズマ丸』の偽名で世界を揺るがした男である。
「――先輩! また先輩の記事が載っていますよ!」
思索に耽っていたカノープスの元へ、弾んだ声と共に駆け寄ってきたのは、一人の少年だった。
ハダル・ギレス。ミルキーウェールズ王国諜報部所属。先のゾウムハーバー遠征での功績が認められ、伍長から『軍曹』へと特進を果たした、カノープスの優秀な後輩である。
ハダルは遠征での活躍と、学園内におけるスピカの警護を兼ねて、正式にメレンヘア学園の生徒会庶務へと任命されていた。この伝統ある学園の生徒会に入るということは、将来の王国閣僚入りへと繋がる極めて名誉ある抜擢であった。
ハダルが差し出してきた新聞記事には、クラーケン討伐で縦横無尽の活躍を見せた謎の忍者『イナズマ丸』の武勇伝がデカデカと踊っていた。噂に尾ひれがつきまくり、今やイナズマ丸は神話の英雄か何かのような扱いになっている。
「……ハハ、歴史に名を残し損ねちゃいましたね、先輩」
ハダルはイタズラっぽく目を細めて微笑んだ。カノープスは肩をすくめ、手元のペンを弄びながら静かに答える。
「……実績のみを残し、己の名を残さない。それこそが良い忍びというものだ」
「……はい! わかってます。そういう影に徹する先輩……すごく素敵ですよ」
ハダルは嬉しそうに頬を緩め、カノープスの顔を覗き込むように距離を詰めてきた。
(あー……可愛い。距離も近いな、ハダル軍曹……。……って、待てよ? 僕の『チュ〜策(、、、、)』って、一体どうなったんだっけ……?)
ミルキーウェールズ王国諜報部が誇る、ハイクラス忍者にしてトップエージェントカノープス中尉が立案した、ハダル嬢攻略作戦(※二部参照)を思い出し、内心で頭を抱えかけた、まさにその時であった。
――カツン、カツン。
生徒会室のドアがノックされることもなく静かに開き、洗練された靴底の音が響いた。
「――カノープス君! 君に会いに、また来ちゃった♪」
部屋の中に、鈴を転がすような甘く妖艶な声が満ちる。
ハダルがサッと警戒の姿勢を取り、カノープスが息を呑んで振り向いた先には――一人の美女が立っていた。
山吹色の鮮やかな髪が、朝の光を受けて眩いばかりに揺れている。
すべてを見透かすような、勝気で知性あふれる茶色の瞳。まるで若鮎のようにしなやかで、隙のない均整の取れた美しい肢体。
彼女こそは、先の極秘ミッションにおいて、その妖艶な魅力と天才的な計略で散々カノープスを翻弄し、しかし最後には共に極限の死線を潜り抜け、帝国最高機密である『賢者の書』の真実を暴き出した相棒――。
ロメーダ帝国、そしてソビヤ王国の狭間で暗躍する、妖艶なる二重スパイ。
ミラ・グラダスであった。
「……ミラ……ッ!?」
カノープスの顔から、一瞬で「平凡な庶務」の仮面が剥ぎ取られる。
なぜ、帝国の超重要人物であるはずの彼女が、ミルキーウェールズの生徒会室に堂々と立ち入っているのか。
山吹色の髪をかき上げ、ミラは妖艶な唇を吊り上げて、カノープスへと情熱的な視線を投げかけたのだった。
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