第三部 第1話:朝露のコンソメスープと、あまりに騒がしい平穏
柔らかな黄金色の朝日が、女子寮のバルコニーへと穏やかに差し込んでいた。
目の前に広がるのは、朝露に濡れてきらきらと輝く、メレンヘア学園自慢の美しい庭園だ。澄んだ朝の空気が心地よく肌を撫で、どこか遠くで小鳥たちの可憐な囀りが響いている。
「お嬢様、朝食をお持ちいたしました」
「ありがとう、パメラ」
寮付きの専属メイドであるパメラが、慣れた手つきで手際よくバルコニーのテーブルに温かい料理を並べていく。
バスケットに盛られているのは、香ばしい匂いを漂わせる焼きたてのパン。ふわりと湯気を立てるスープの器を覗き込めば、私の大好物であるコンソメオニオンスープだった。じっくりと炒められた玉ねぎの甘みと旨味が凝縮された、透明感のある黄金色のスープ。そのサイドを固めるのは、程よく塩気の利いたカリカリの上質なベーコンと、絶妙な火加減で仕上げられたプルプルの卵料理だ。
素晴らしい景色に、美味しいご飯。
(あぁ……なんて爽やかで、健やかな朝なのかしら……)
最高に幸せな朝のひととき。
胸いっぱいに爽やかな空気を吸い込みながら、私はスープを一口匙ですくい、その温かさを噛み締める。
――あー。
これで、私が「おそらく聖女」でさえなければ、どれほど完璧な朝だっただろうか。
ふと遠い目になりながら、私は数日前の出来事を思い返してため息をついた。
激動の国際学園サミットが閉幕した後、世界エキティカは二つの巨大なニュースで持ちきりになっていた。
一つは、レグルス皇帝率いる各国の若き勇者たちが成し遂げた、海の魔王クラーケンの誇り高き討伐劇。
そしてもう一つは、サミットの最終日に降って湧いた、ドラマチックすぎる「聖女出現」と、それに続く三大国の王子たちによる同時プロポーズ事件である。
尾ひれがつきまくった新聞記事の中には、あろうことか『聖女スピカ、たった一人で伝説の巨大クラーケンに立ち向かい、神聖なる力で完全沈黙せしめる!』なんていう、事実無根もいいところのデタラメな見出しまで躍っていた。私、ほぼ結界の裏で青ざめていただけなんですけど!
スピカたち一行は、そんなサミット後の様々な混乱の中、クラーケン討伐によってすっかり安全になった海路を使い、昨日無事にゾウムハーバーからミルキーウェールズへと戻ってきたのだった。
だが、港に辿り着いた瞬間、スピカの胃は激しい痛みに襲われることとなった。
ミルキーウェールズの港町には、街中にこれでもかとばかりに『祝・聖女出現! スピカ・マセット様』という巨大な横断幕が掲げられており、街中を埋め尽くすほどの民衆による盛大な歓迎を受けたのだ。
聖女を一目見ようと押し寄せた熱狂的な群衆に向かって、スピカは引き攣った笑顔を張り付け、
「や〜……ど〜も〜……」
と、力なく手を振るのが精一杯だった。
正直なところ、自分自身が聖女であるという自覚など、これっぽっちも存在しない。
だって、ご先祖様が聖女様かどうかも疑わしいのだ。私が聖女? とんでもない! あー、これから私の平穏な学園生活はどうなってしまうの――!
本当に、色々なことがあり過ぎた。
けれど、今こうして大好きなコンソメスープを前にしてもなお、私の頭の片隅から離れないのは――シリウス王子の、あの怒涛のプロポーズのことだった。
サミットの閉会式で、全人類が見守る中で放たれた、あの情熱的で熱烈な求婚の言葉。
だが、当のシリウス王子は、帰路の船の中でも、昨日の生徒会室での解散の挨拶の場でも、まるで何事もなかったかのようにその件には一切触れてこなかったのだ。
ただ一つ、「この学園に居る間は、君がこれまで通り普通に学園生活を送れるように配慮する」と、優しく微笑んで約束してくれただけ。
(一体、シリウス王子はどういうつもりであんなことを言ったのかしら……)
プロポーズの真意が気になって仕方がない。
目を閉じれば、あの日、私の手を握りしめてまっすぐに見つめてきた、シリウス王子の熱を帯びたアクアマリンの瞳が鮮明に脳裏に蘇る。
――けれど。
それと同時に、私の胸をかすめるのは、ロメーダ帝国皇帝・レグルスの姿だった。
プラチナブロンドの隙間から覗く、吸い込まれそうなほど深遠で、力強いエメラルドの瞳。
「結婚の意思を表明する」と堂々と宣言したあの覇王は、一体、私に何を求めているのだろう。あの瞳の奥にあった熱量は、決して冗談などではなかったはずだ。
ふたつの異なる輝きを放つ瞳を思い出し、私は自分自身の頬がカッと熱くなるのを感じた。
(……二人の瞳を同時に思い出してドキドキするなんて、私って……もしかして、すごく気が多いのかな……?)
いやいやいや! 違う! これは単に命の危機というか、あまりの圧迫感に恐怖しているだけ!
一人でパタパタと顔を煽りながら思考の渦に沈んでいると、遠くから学園の始業を告げる鐘の音が響いてきた。
「あっ……! いけない、授業開始の時間になっちゃう!」
私は慌てて最後のパンを口に放り込み、身支度を整えると、逃げるようにメレンヘア学園の校舎へと向かって走り出した。
だが、本当の試練は校舎の門を潜った瞬間から始まった。
「あ! スピカ様だ! 聖女スピカ様がおいでになられたぞー!」
「スピカ様ー! こちらをお向きくださいー!」
校舎付近に足を踏み入れた途端、私は生徒たちからのあまりにも熱烈すぎる歓迎を受ける羽目になった。
聞けば、サミットでの快挙(と誤解)を受けて、校内には『聖女スピカ・マセットファンクラブ』なるものや、さらには『聖女スピカ・マセット親衛隊』といった謎の組織が勝手にいくつも結成されていたらしい。
そればかりか、現在一席が空席となっている学園の『四天王美女』の座に私を押し上げようと、校門の前で盛大な署名活動まで行われている始末だった。
(四天王美女なんて絶対に勘弁してほしいわ! デネブ様やベガ様みたいな本物の美と実力を兼ね備えたお方に、私が並べるわけないでしょう!?)
勘違いも甚だしい周囲の狂乱に冷や汗を流しながら、私はなんとか校舎の玄関へ向かって人混みを掻き分けようとした。
その時――。
「――どけ! 聖女に気安く触れるんじゃない!」
押し寄せる群衆を強引に押し開き、まっすぐに私に向かって歩み寄ってくる一人の男がいた。
その顔を見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走る。
以前、私を怪しい魔法触手生物『イモヅル姫』の生け贄として半地下の温室に突き落とそうとした前科を持つ男。
メレンヘア学園・魔法生物飼育委員長兼、魔法生物部部長のサム・ペンサーだった。
サムは私との距離を詰めると、その瞳で私の目を真っ直ぐに見つめ、大真面目な顔で静かに唇を開いた。
「スピカ君。サミットでの君の神聖魔力と、生命体に対する親和性の高さは聞き及んでいる。……君を、我が学園の『魔法生物筆頭(、、、、、、)』に推薦したい」
真剣そのものの眼差しで差し出されたその謎の打診に対し、私は一秒の逡巡もなく、完璧な笑顔と冷徹な声で応えた。
「お断りします」
スピカは一秒の躊躇もなく、完璧な即答でその申し出を叩き落とすのだった。
スピカにそんな奇妙な肩書につきあっている暇はない。
「それじゃあ、授業に遅れますので失礼します!」
呆然と立ちつくすサムと、歓声を上げ続けるファンクラブの集団を後ろ目に、私はスカートの裾を翻して校舎の中へと猛ダッシュしたのだった。
サミットが終わっても、スピカの平穏とは程遠い「嵐のような日常」は、どうやらまだまだ続いていくらしい――。
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