第ニ部 第33話:見出された奇跡
ビーチを震わせていた巨大な肉塊が、完全に物言わぬ灰色の屍へと変わる。
海の魔王クラーケンの完全なる沈黙。
誰もが息を呑み、奇跡的な勝利の余韻に浸ろうとしたその瞬間、ロメーダ帝国の覇王レグルス皇帝の視線は、戦場の喧騒から外れた一人の美女へと釘付けになっていた。
その人物こそ、クラーケンの心臓部に最悪の禁忌薬を流し込み、その狂暴な再生能力を完全に終わらせてみせた女性。ミルキーウェールズ王国代表のアークプリースト兼薬剤師――ベガ・ドウィンである。
彼女の纏う、どこか神秘的で底知れない魔力の気配。そして、戦場の誰もが手をこまねいていた怪物の息の根を冷徹かつ完璧に止めてみせた、あの圧倒的な手腕。
(……彼女か。彼女こそが、古き『賢者の書・第115節』が示す、この時代にミルキーウェールズに現れるとされる『真の聖女』なのか……?)
レグルスがそう確信しかけ、彼女に歩み寄ろうと一歩を踏み出した、まさにその矢先だった。
灰色の泥のように崩れ落ちていくクラーケンの死骸を見つめながら、ベガは美しく整った顔をこれ以上ないほど不快そうに歪め、冷酷な眼差しで吐き捨てるように追撃の言葉をかけた。
「――その醜い姿! 二度と私の前に見せないでちょうだい!」
「……。」
それを間近で聞いたレグルスは、上げた足をぴたりと止め、何とも言えない微妙な表情で天を仰いだ。
(……いや。なんか、違うかもな……)
予言に記された「慈愛に満ち、人々を救済する聖女」のイメージとは、あまりにもかけ離れた苛烈な本性。レグルスは内心でそっと肩をすくめ、彼女から視線を外したのだった。
そんな、勝利の後の奇妙な静寂を切り裂くように、ビーチの向こうから一人のリンデア兵の悲痛な叫び声がこだました。
「おい、しっかりしろ! ――誰か、誰か来てくれ! 重傷人がいるぞ!!」
ただ事ではない緊迫感に、レグルスは即座に表情を引き締め、声のする方向へと砂を蹴って駆けつけた。野次馬を押しのけてレグルスが目にしたのは、血の海の中に横たわる、一人の若き騎士の姿だった。
重症を負っていたのは、ブリテン王国代表の第3王子であり、高潔なロード(領主)でもある、ヘンリー・ラワードであった。
「ヘンリー殿! しっかりしてください!」
周囲の兵士が必死に呼びかけるが、ヘンリーの意識は完全に混濁している。目撃した兵士の証言によれば、先ほどの総力雷撃が直撃した瞬間、クラーケンが最後に放った死に物狂いの凄まじい断末魔の一撃が、ヘンリーの胴体を直撃したのだという。
ゴフッ、とヘンリーの青ざめた唇から、どす黒い吐血が容赦なく溢れ出る。
「……内臓が、完全に潰れている……!」
駆けつけた各国の優秀な医師やプリーストたちが、青ざめた顔で首を横に振った。
「何ということだ……内臓がこれほど破裂していては、いかなる高度な回復魔法も、施しの薬も、肉体の崩壊速度に追いつかない……! 手遅れだ……!」
(嗚呼……。この未曾有の戦いを乗り越えたというのに、ここで死者を出してしまうのか……!)
レグルスは奥歯を噛み締め、無念さに天を仰いだ。他国の王子がこの地で命を落とすとなれば、サミットの成否どころか、国際問題に発展しかねない。何より、共に戦った同志を失う悔しさが彼の胸を締め付けた。
救える術は、もう、この世のどこにも残されていない。
誰もがそう絶望し、静かにその最期を看取ろうとした、その時。
「――どいて、ください! 通してください!」
緊迫した人混みを力任せに掻き分けて、一人の少女が、泥を被った法衣を揺らしながらヘンリーの前に進み出た。
聖女候補、スピカ。
彼女はヘンリーの悲惨な有様を目にするなり、息を呑んで膝をついた。その瞳に迷いはなかった。ただひたすらに「目の前の命を救いたい」という純粋な祈りだけが、彼女の小さな体の中で渦巻き始める。
スピカは、自身の胸の奥深くに眠る、海よりも深く、太陽よりも温かい「創世の魔力」へと全意識を集中させた。
キィィィン――。
彼女が祈りを捧げた瞬間、ビーチの空気の密度が一変した。スピカを中心に、目に見えるほどの純白の光の粒子が、オーロラのように美しく立ち上り、渦巻き始める。
「――『ラージヒール(大回復)』!!」
スピカの両手から放たれたのは、通常の大回復呪文とは、文字通り「次元が違う(、、、、、)」光の激流であった。
その聖なる光の奔流は、ヘンリーの傷ついた肉体を優しく包み込むと、まるで時間を巻き戻すかのように、破裂していた内臓を瞬時に再生させ、骨を繋ぎ、傷口を塞いでいった。
「……っ、ぁ……」
あれほど酷かった吐血がピタリと止まり、灰色だったヘンリーの顔色に、みるみるうちに健康的な血の気が戻っていく。
奇跡、という言葉すら生ぬるいほどの超常の治癒。
ほんの数秒前まで死の縁にいたはずのヘンリーは、すっきりと澄んだ呼吸を繰り返し、瞬く間に完全なる健康体へと復活を遂げたのだ。
「……あり、がとう……」
朦朧とした意識がはっきりと覚醒していく中、ヘンリーは自分を見つめるスピカの優しい瞳を捉え、掠れた声で、しかし心からの感謝を伝えた。
「よかった……! 間に合いましたね!」
スピカはホッと胸をなでおろし、心の底からの安堵の笑みを浮かべた。
その、神話の一幕を見ているかのような「奇跡の復活」を目の当たりにしたレグルスは、あまりの衝撃と喜びに突き動かされ、無意識のうちにスピカの小さな両手をぐっと強く握りしめていた。
「よくやってくれた……! スピカ、お前は本当に……素晴らしい奇跡を起こしてくれた!」
熱い情熱を宿したレグルスのエメラルドの瞳に真っ直ぐ見つめられ、スピカは驚きで目を丸くした。普段は傲岸不遜で、自分を獲物のように狙ってくるロメーダの皇帝が、これほど素直に、子供のように喜んでいる姿が意外でならなかったのだ。
スピカは少し頬を赤らめつつも、恥ずかしさに耐えかねて、そっとレグルスの手から自分の手を引き抜いた。
「あ、あの……! まだ怪我をされた兵士の方々が、あちこちに大勢いらっしゃいますので! 私はこれで失礼します!」
そう言うと、スピカはパタパタと小走りで、怪我人たちが待つ救護テントの方へと慌ただしく去っていってしまった。
砂浜に残されたレグルスは、自分の手のひらに残る、彼女の小さくて温かい余韻を静かに見つめ――。
それから、救護活動へと走り去る、あの健気で規格外な少女の、愛らしい後ろ姿をじっと見つめた。
戦闘を完璧に防いだ、国軍規模の『神聖大結界』。
そして、死者をも一瞬で現世に引き戻す、神の御業たる『究極の治癒』。
これほど明確な「奇跡」を示す存在が、あの少女をおいて他にいるはずがなかった。
レグルスは、己の胸に宿った絶対の確信と共に、誰も聞こえないほどの小さな声で、満足そうに呟いた。
「――見つけた(、、、、)。」
これこそが、我が帝国、そして世界が求める、本物の聖女だ。
夜のビーチに、静かな、しかし確かな運命の歯車が噛み合う音が響いたような気がした。
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