第ニ部 第32話:轟雷の避雷針、あるいは慈悲深き乙女
激しくのたうち回るクラーケンの巨体。その頭部と外套膜の境目――蠢く不気味な肉の隙間に、カノープスが放った発光塗料付きのクナイが深々と突き刺さっていた。闇夜のビーチで怪しく緑色に輝くその光は、暗黒の魔王の命を奪うための、完璧な死の刻印であった。
カノープスは着地と同時に、砂を蹴って背後のサムライへ向けて声を張り上げた。
「アルタイル君! あの光るクナイの場所だ! あそこに貴方の鋼鉄の矢を叩き込め!」
「――応よっ!!」
アルタイルの猛々しい咆哮が響く。彼は間髪入れずに二の矢となる太い鋼鉄製の矢をつがえ、再び常人には引けぬ鋼鉄の大弓を限界まで引き絞った。ミシミシと弓の骨組みが悲鳴を上げる。アルタイルは己の全魔力と膂力をその弦へと集中させ、最大限に蓄えられた破壊のエネルギーを指先に伝える。
標的は、激しく揺れ動く緑の燐光。
「……穿てええええええッ!!」
ズドォォォォンッ!!
大砲が炸裂したかのような凄まじい爆音と共に放たれた鋼鉄の矢は、文字通り空気を切り裂く衝撃波の尾を引いて一直線に突き進んだ。
激しくうねる触手の防壁を力任せにブチ破り、矢はカノープスが放ったクナイのまさに真横(、、)の肉へと、その身を半分以上沈めるほどの深さで激しく突き刺さった。
「グオォォ……ッ!?」
内臓の核心を貫かれたクラーケンの巨体が、衝撃で大きく跳ね上がる。家一軒ほどの金色の瞳が激しく見開かれ、あれほど狂暴だった怪物の動きが、苦悶のあまり一瞬だけ完全に停止した。
この絶好の勝機を、カノープスは見逃さなかった。彼はすぐさま本陣の覇王へ向けて次なる指示を叫ぶ。
「レグルス皇帝! あの突き刺さった『鋼鉄の矢』だ! あそこを避雷針にして、最大火力の雷撃を叩き込んでください!」
カノープスの意図を瞬時に理解したレグルス皇帝のエメラルドの瞳が、歓喜と戦意で獰猛に輝いた。彼は剣を高々と掲げ、全軍へ絶叫の号令を下す。
「――全ウィザード! 衛士と共に前進せよ! 躊躇うな、あの突き刺さる鋼鉄の矢を目がけて、貴様らの持てる全ての雷撃(、、)を放てぇぇん!!」
「「「おおおおおおおッ!!!」」」
大盾を構えた聖騎士たちに守られながら、各国の高位魔導士たちが一斉に呪文の有効射程まで前進する。レグルスもまた、ロメーダ三連星の三騎士を盾にしながら、自らも呪文の射程へと一気に距離を詰めた。
ミルキーウェールズのジョーンズ、メアリー、そして首飾りの魔法石を激しく明滅させるデネブ。ロメーダの銀髪の天才アルギエバ。さらにはレーシア王国代表の『アークウィザード』であるナスティーヤ・ノマロフまでもが前線に立ち、一斉に天へと手を掲げた。
さらに、結界の外で剣を構えていたシリウス王子までもが、魔法剣の刀身に凄まじい稲妻を纏わせる。
術者たちの限界の魔力が一点に集中し、夜空が昼間のように真っ白く染め上げられた。
「「「『サンダーボルト(轟雷穿孔)』!!!」」」
ドガガガガガガガガガガガアァァァッ!!!!
数十筋もの極太の青白い雷撃が、同時に夜空から降り注いだ。それらの全エネルギーは、クラーケンの弱点に深く突き刺さった「鋼鉄の矢」という完璧な導体へと吸い込まれるように、文字通り1点集中で叩き込まれた。
凄まじい電磁の爆破と閃光がビーチを包み込む。だが、これだけでは終わらない。
術者たちの中心で、総指揮官レグルス皇帝自身が、空間がひび割れるほどの規格外の雷属性の魔力を練り上げていた。彼のプラチナブロンドの髪が静電気で逆立ち、その手元に神話の雷神のハンマーを思わせる超巨大な稲妻の質量が形成される。
「――消し飛びやがれ! 『トールズ・ハンマー(雷神の閃光穿孔)』!!」
ドッッッゴォォォォォォン!!!
これまでとは文字通り桁違いの、黄金の雷霆がクラーケンの心臓部へと直撃した。
弱点の奥深くで凄まじい超高電圧の電流が爆発し、クラーケンの巨体は激しく全身を感電させてのたうち回った。怪物の金色の瞳が恐怖に染まり、体内から湧き出る破壊の光に焼かれながら、無闇やたらと不揃いな触手の増殖をただ繰り返すだけの暴走状態へと陥る。
やがて雷撃の嵐が収まった時――クラーケンの弱点だった傷口は、激しい電熱によって大きく裂け、黒く焦げ付き、二度と復元(、、)することはなかった。自己再生能力の根幹を、雷神の力で焼き切られたのだ。
静まり返る夜のビーチ。もはや死を待つのみとなった巨大な怪物の傷口の前に、砂を踏みしめて歩み寄る二人の影があった。
鋼鉄の大弓を携えたサムライ・アルタイル。そして、その横を並んで歩くのは、先ほどスピカをドン引きさせたミルキーウェールズの『アークプリースト』兼『薬剤師』――ベガであった。
ベガは法衣の袖を揺らし、ピクピクと痙攣する巨大な怪物の無残な姿を見下ろした。その表情には、聖職者らしい慈悲深い微笑みが浮かんでいる。しかし、彼女が懐から取り出したのは、怪しくドロリと紫色の液体が蠢く、不気味なガラスのフラスコだった。
「――貴方、本当に可哀想な生き物ね」
ベガは優しく、歌うような美しい声でクラーケンに語りかけた。
「……もうこれ以上、苦しまなくていいわ。私が今、楽にしてあげる」
ベガは微笑んだまま、その紫色のフラスコを、クラーケンの大きく裂けた心臓の傷口の奥深くへと、躊躇なく放り込んだ。そして、静かに、冷徹な絶対の呪文を唱える。
「――『アンチ・リジェネ(細胞壊死薬)』」
呪文の詠唱と同時に、怪物の体内でフラスコがパリンと微かに割れる音が響いた。
直後、フラスコから溢れ出た超高濃度の壊死薬が、ベガの魔力によってクラーケンのすべての細胞へと一瞬で侵食を開始した。
それは、あらゆる生物の「再生」と「細胞分裂」を強制的に完全停止させ、肉体を内側からドロドロの死肉へと変質させる、薬剤師としてのベガの特製にして最悪の禁忌薬であった。
「――ッ!?」
クラーケンの無数に増殖していた触手の動きが、ピタリと止まった。
怪物の体表のヌルヌルとした黒光りしていた皮膚が、またたく間に灰色へと色褪せていき、その巨体から一切の「生命の気配」が完全に消失していく。
ドサァァァァ……ッ。
家一軒ほどもあった金色の巨大な眼球から光が消え、海の魔王クラーケンは、ただの一言の叫び声も上げぬまま、完全に沈黙し、ビーチの砂浜へと崩れ落ちたのだった。
サミットを揺るがした未曾有の災厄――その「空白の一日」の防衛戦は、各国の若き俊英たちの完璧な連携と、ミルキーウェールズが誇る裏の最終兵器によって、完全なる勝利をもって幕を閉じたのである。




