第ニ部 第31話:デコイの舞踏、そして鋼鉄の一矢
絶対零度の氷をもへし折り、ついにその天守閣ほどもある醜悪な全容を氷上に現した海の魔王クラーケン。
だが、その巨体は、スピカが展開した強固な神聖結界『ホーリー・シールド』を避けるように、ゆっくりと、だが確実に港のビーチとは反対側の防衛線の薄い方向へと動き始めた。
その先にあるのは、サミットの喧騒から逃れた一般市民たちが暮らす、無防備なゾウムハーバーの市街地である。
(まずい! 奴め、こちらの結界の強度を本能的に察して、すり抜けるように町へ向かおうとしている! ――何としても、奴の注意をこちらに引きつけねば!)
カノープスは覆面の中で焦燥を噛み殺し、素早く懐から特殊な「発光塗料」の入った筒を取り出した。それを己の漆黒の忍び装束へと惜しげもなく振りかける。
闇の中で怪しく、しかし強烈に燐光を放つデコイ(おとり)となったカノープスは、クラーケンの巨大な瞳の目の前を、目にも留まらぬ俊敏さで横切った。
だが――。
(……ダメだ! 全く興味を示さない!)
クラーケンは一瞬だけ鬱陶しそうに巨大な瞳を動かしたものの、カノープスの存在など初めから木端に等しいとばかりに、再び市街地の方へと向き直ろうとする。
その時、カノープスの背後から、しなやかな影が躍り出た。
「先輩! 私もやってみます!」
ハダルだった。彼女もまた、自らの隠密装束に素早く発光塗料を叩きつけ、燐光の尾を引く流星となってクラーケンの巨大な眼前に躍り出た。
すると、どうだろう。
それまで市街地に向いていたクラーケンの家一軒ほどもある金色に濁った巨大な双眸が、ぎろり、とハダルの姿へと完全に釘付けになったのだ。怪物はその身を震わせ、今度は明確な捕食の意思を持って、ハダルを追いかけようと巨体の向きをビーチ側へと変えた。
それを見たカノープスは、緊迫した戦場であるにもかかわらず、覆面の下で盛大に顔を引き攣らせた。
(はい! クラーケンさん、女の子がお好きなのね! そうなのね、そっちの趣味なのね……!)
内心のツッコミを瞬時に切り捨て、カノープスは危険な標的となったハダルへ向けて鋭く叫んだ。
「ハダル君! スキルは完全に『回避全振り(、、、、)』だ! 限界まで奴をビーチの防衛線へ誘導してくれ!」
「了解しました!」
ハダルは凛とした声で応えると、迫り来る極太の触手を信じられない軽やかさのバックステップで紙一重でかわし、夜のビーチへとクラーケンを誘い込むように跳躍を繰り返した。
だが、山のような巨獣を相手に、いくら優秀なハダルとはいえ、たった一人でこの攻撃の嵐を凌ぎきれるだろうか。
カノープスが助太刀に入ろうと地を蹴りかけた、その時。
「――カノープス君! 私にも、何か出来ることがある?」
横から滑り込んできたのは、かつて『賢者の書』の秘密を暴くために一度は共闘した、ロメーダ帝国の二重スパイ――くノ一のミラであった。
カノープスはミラの姿を見るや否や、一瞬の躊躇もなく、手元に残っていた発光塗料の筒を彼女へと投げ渡した。
「ミラさん! それを自分に振りかけ、ハダル君と共にクラーケンの注意を惹きつけてください!」
カノープスの意図を瞬時に察したミラは、不敵で、しかしどこか優しさを孕んだ笑みを浮かべて筒を受け取った。
「わかったわ! ――あの子を、ここで死なせたりはしないわよ!」
ミラもまた己に塗料を振りかけ、まばゆい緑色の光を放ちながら夜空へと舞い上がった。
ここから、二人の美しきくノ一による、息を呑むような「デコイの舞踏(、、、、、、、)」が始まった。
ハダルが触手の猛攻を華麗にいなせば、その死角から迫る別の触手に対し、ミラが派手な光を放ちながら割り込んで注意を逸らす。ハダルとミラは言葉を交わさずとも完璧な阿吽の呼吸で連携し合い、交互にクラーケンの視線を狂わせながら、怪物の巨体を確実にビーチの中心部へと誘導していく。
そこへ、背中から大弓を外したサムライ・アルタイルが、足音を荒らげてカノープスの元へと駆け寄ってきた。
「おれも、なんか出番はあるか?」
カノープスは、アルタイルが携えるその規格外の武器を見つめ、即座に的確な指示を飛ばした。
「アルタイル君! その自慢の大弓で、クラーケンの『片目(、、)』だけを狙撃して潰してください。眼球を破壊できれば、奴の攻撃の精度と機動力を少なくとも半減させることができます!」
「――わかった! 任せろ!」
アルタイルは牙を剥くように猛々しく笑うと、背負っていた鋼鉄製の太い矢をつがえた。
彼が手にする大弓は、常人なら数人がかりで引くことすら不可能な、頑強極まりない鋼鉄製の巨弓である。それを、アルタイルは自身の超人的な膂力をもって、ギリギリと音を立てながら力いっぱい引き絞った。
狙うは、ハダルとミラを追ってのたうつ、クラーケンのあの巨大な右目。
ピン、と張り詰めた極限の集中の中、アルタイルは怪物の瞳に完全に狙いを定めた。
――キィィィンッ!
鼓膜を震わせる凄まじい弦音と共に、放たれた鉄の一矢が、夜の闇を切り裂く超音速の黒い閃光となって一直線に突き進む。
直後、先ほど一般兵の矢を阻んだあの透明な防御膜を、アルタイルの圧倒的な運動エネルギーが力任せにブチ破った。
グシャアァァッ!!!
「――――ッ!?」
声なき悲鳴が港湾に響き渡る。
鉄の一矢は、クラーケンの巨大な右目のど真ん中を完璧に貫き、奥の脳幹へと達するほどの深さで突き刺さった。
その瞬間、海の魔王はこれまでにない激しい苦悶に悶絶し、何十本もの太い触手をビーチの砂浜へと狂ったように叩きつけ、凄まじい砂煙を上げながらのたうち回り始めた。
すかさず、カノープスはその漆黒の双眸を鋭く細めた。
これこそが、待ち望んでいた最大の勝機である。
「――スキル発動。『クリティカルサーチ(致命傷探索)』」
カノープスが囁くように呟くと、世界から色が失われ、白と黒の極限の知覚領域へと彼の意識が没入していった。
『クリティカルサーチ』――それは、ハイクラスの忍びだけが到達できる、対象の肉体構造を透視し、最も脆弱な「命の核」を看破する絶対の暗殺視界。
カノープスは、極限まで研ぎ澄まされた五感を駆使し、のたうち回るクラーケンの家一軒ほどもある巨大な肉体を、脳裏のパズルを解くようにくまなく観察していった。
(どこだ……。再生を司り、全ての触手を統括する、奴の真の弱点はどこだ……!)
無数の肉の繊維、血管の奔流、蠢く外套膜の奥。
その視界のただ中で、怪物の頭部と胴体のつなぎ目の奥深くに、ドクン、ドクン、と不気味な脈動を繰り返す、ひときわ濃厚な「魔力の渦」が青白く浮かび上がった。
(――あれかッ!!)
カノープスは、クリティカルサーチで見出したその絶対の「命の核(弱点)」の座標を、決して見失わないように脳裏に焼き付けた。
そして、懐から一本の「発光塗料」がたっぷりと塗り込まれた、怪しく光る鉄製のクナイを取り出す。
シュッ!
カノープスの手から放たれた光るクナイは、狂ったように暴れ回る触手の隙間を縫い、クラーケンの頭部と外套膜の境目――看破した弱点の皮膚へと、深々と突き刺さった。
暗黒の怪物の体表に、ぽつんと灯った、死の刻印たる「緑色の光の目印」。
「そこだ!!!」
カノープスの張り裂けんばかりの叫びが、夜のビーチに高らかに響き渡り、いよいよ戦いは最終局面へと突入するのだった。
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