第ニ部 第30話:偽名の進言、そして氷上の大怪獣
スピカの規格外な神聖結界『ホーリー・シールド』の輝きにより、絶望の淵から瞬時に立て直された第二防衛ライン。
神聖な光の壁に阻まれ、ジュウジュウと皮膚を焼き焦がしながらのたうち回るクラーケンの触手を見つめ、ミルキーウェールズの第一王子シリウスの瞳に鋭い戦意が宿った。
「――好機だ!」
シリウスは純白の鎖帷子を揺らし、自らスピカの結界の外へと躍り出た。走りながら瞬時に己の肉体へと『ヘイスト(加速)』の呪文を付与する。
世界が引き延ばされたような加速世界の中、シリウスは光の尾を引くような速度で跳躍し、流麗な軌跡を描いてクラーケンの極太の触手一本を空中へと切り落とした。
どさりと防波堤に落ちる、大樹のような触手。だが、その切断面からは、まるで悪夢のように新たな別の触手が瞬く間に生え変わり、さらに切り落とされたはずの触手までもが、独自の意思を持つ蛇のようにうねり始めたのだ。切り落とされた触手は防衛壁にベタベタと巨大な吸盤を叩きつけ、凄まじい力でスピカの結界を破ろうとし始める。
それを見たレグルス皇帝が、喉を潰さんばかりの怒号を響かせた。
「馬鹿者が、やめろ! 触手を切り落とすな! 標的が増えれば防衛線が拡大し、手が付けられなくなるぞ!」
戦場が混沌に包まれかけたその時、後方から冷徹な観察眼で戦況を見据えていた隠密のカノープスが、素早くリンデア国軍の陣営へと駆け寄って指示を飛ばした。
「リンデア国軍の皆さん! その切り落とされた『足』の肉片を、全員で細かく切り刻んでください!」
「う、うおおおっ!」
戸惑いながらも、リンデアの兵士たちが一斉に地面で暴れる一本の触手へと群がり、剣や槍で執拗にそれをズタズタに切り裂いていく。すると、あれほど獰猛に暴れ回っていた触手は、肉片となるにつれて次第に動かなくなり、やがてただの動かない肉塊へと成り果てた。
それを見たカノープスは、黒い覆面の下で(やはりか……)と不敵に笑みを深めた。
彼は懐から小さな丸薬――口にするだけで全く別人の声へと変質させる特殊な隠密道具「声変わりの飴」を取り出し、ひょいと口に放り込む。そして、影に溶けるような歩法で、ロメーダ帝国の本陣に佇むレグルス皇帝のすぐ傍らへと、一瞬にして参じた。
「皇帝陛下! 戦況を打破するための進言を、どうかお許しください」
カノープスの喉から発せられたのは、元の低く渋い声とは全く異なる、軽薄で高めの道化のような声だった。
突如として本陣に現れた怪しい覆面姿の男に対し、レグルスは鋭い覇気を放ち、腰の剣に手をかけながら訝しげに睨みつける。
「不審者が、何者だ! この戦時に……まずは名を名乗れ!」
カノープスは覆面の奥の目を細め、ふざけた声で恭しく一礼した。
「ハッ、今は仮に……『イナズマ丸(、、、、、)』とでも名乗らせてください!」
「い、イナズマ……丸……?」
覇王レグルスともあろう男が、あまりにも突飛で胡散臭すぎる東洋風の偽名に、一瞬だけ完璧な(、、、、)顔を引き攣らせた。
だが、そんなレグルスの動揺を無視し、イナズマ丸ことカノープスは真剣な口調で続けた。
「皇帝陛下、手練れの戦士たちに、クラーケンの足を積極的に切り落とすようご命令ください。それこそが、この絶望的な防衛戦において最も有効な時間稼ぎとなります」
「何だと……? 触手を増やしてどうする!」
訝しむレグルスに、その背後に控えていたロメーダの誇る知将であり参謀のデネボラが、カノープスの意図を察して鋭く同調した。
「――お待ちください、皇帝陛下。私も、その『イナズマ丸』殿の意見に賛成です」
「デネボラ、説明せよ」
「はい。敵のクラーケンは確かに足を再生させますが、先ほど切り落とされ、新たに再生した足は、元の長さに比べて『半分ほど』しかなく、その動きも著しく緩慢になっています。さらに、切り落とされた方の触手は、自ら分裂して再生することはありません。つまり、手練れが触手を切り落とし、その暴れる触手をリンデアの一般兵が細かく切り刻んで無力化していけば、確実に敵の総戦闘力をすり減らすことができます!」
デネボラの完璧な分析に、レグルスは一瞬で戦術の正しさを理解した。彼は即座に、喉が裂けんばかりの覇王の命令を全軍へ響かせる。
「全軍、先ほどの命令を撤回する! 剣の腕に覚えのある手練れどもは、クラーケンの足を容赦なく切り落とせ! 残りの一般兵は、切り落とされた触手を集団戦術で徹底的に切り刻み、息の根を止めよ!」
さらに、レグルスの指揮は電撃のように次々と下る。
「プリースト陣は前線の兵士たちにバフ(強化呪文)を掛けまくれ! ゾズマ! ロメーダ三連星のアルニタク、アルニラム、ミンタカ! 貴様らの大剣で、クラーケンの足を片っ端からぶつ切りにしろ!」
「応よっ、暴れまくってやるぜ!」
「皇帝陛下の御心のままに!」
命令が下るや否や、最前線の戦闘は一気に白熱した。
加速したシリウス王子のロイヤルブルーのサーコートが舞い、男装の麗人にしてソードマスターであるゾズマの華麗極まりない剣捌きが、うねる大樹のような触手を正確に一刀両断していく。さらにブリデンのヘンリー王子も加勢した。
それに続くロメーダ三連星の三騎士たちは、巨大な両手剣を豪快に振り回し、その圧倒的な質量と筋力をもって、クラーケンの極太の足を力任せにぶつ切りにしていった。
だが、足を切られたクラーケンも黙ってはいない。剣士たちの死角から、別の触手が奇襲をかけようと襲いかかる。
そこを救ったのは、他国の若き武闘家たちだった。
リンデア王国代表の赤髪の女精霊拳士であるパドミニが、拳に炎をまとわせて触手の軌道を殴り逸らし、ミドルドア代表の大武道家ヤン・チヨウセイが、巧みな体術と見事なカウンターの回し蹴りで、迫る触手の暴威を美しくいなしていく。
彼ら武闘家たちの徹底したサポートを受け、リンデア国軍の一般兵たちは、地面に転がった触手を集団で取り囲み、怒涛の勢いで切り刻んでいった。
完璧な連携、そして的確な戦術。
自分たちの攻撃が確実にクラーケンに通用し、戦線をじわじわと押し戻していく実感に、防衛ラインの士気は最高潮に達する。
だが――その時、深海に潜む巨大な怪物が、ついにその身を大きく震わせた。
このまま陸からの攻撃に削られ続けるのは不利と判断したのだろう。クラーケンは四方に伸ばしていた全ての触手を、一度本体の方へと一気に引き込めた。
そして、軟体動物特有の信じられないほど柔軟な収縮性を生かし、デネブたちが作り出した絶対零度の氷の海から、ぬるりと強引に抜け出したのだ。
ザザザザァァァァッ……!!!
凄まじい氷のきしむ音と共に、暗黒の海を割って、怪物の「すべて」が氷上へとその全貌を現した。
それは、家一軒どころか、城の天守閣にも匹敵するほどの、途方もない質量を持った「深淵の悪魔」そのものだった。
無数の巨大な触手が、凍りついた海の上で不気味に蠢き、金色の巨大な眼球が、人間たちを冷酷に見下ろしている。
スピカの神聖結界の光に照らされ、あまりにも巨大すぎる怪物と、戦士たちは今、完全に対峙した。
その、現実感を失うほどの圧倒的な質量を前にして。
カノープスは深く被った覆面の下で冷や汗を流しながら、イナズマ丸のふざけた声のまま、ぽつりと呟いた。
「――こりゃあ、本格的な『ごタイメーン(、、、、、)』ってやつですかね」
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