第ニ部 第28話:深淵の決戦礼装、そして潮は黒く染まる
夜の帳が最も深く降りる頃、ミルキーウェールズ王国使節団の一行は、割り当てられた第二防衛ラインの指定位置へと音もなく配置を完了していた。
これから始まるのは、世界の存亡を賭けた「空白の一日」の防衛戦である。
かつてない大災厄を迎撃するにふさわしく、若き英傑たちの出立ちは、どれもミルキーウェールズの威信を具現化したかのような最高峰の決戦礼装に包まれていた。
先頭に立つ『魔法剣士』のシリウス王子は、月の光を反射してきめ細かく煌めく、特製の白銀の鎖帷子を身にまとっていた。その上から、王家の象徴である鮮やかなロイヤルブルーで染め抜かれ、純金の糸で美しい獅子の紋章が刺繍された陣羽織を優雅に羽織っている。その姿は、戦場にあっても一際まばゆい気品を放っていた。
その傍らに控える『サムライ』のアルタイルは、一転して戦国を想起させる苛烈な「赤備え」の具足に身を包んでいた。腰には抜き身の如く鋭い光を放つ打ち刀と脇差を差し、その強靭な背中には、人の背ほどもある鉄製の大弓を背負っている。
ルスカ、オリバー、シャーロットの3人の『聖騎士』たちは、寸分の曇りもなく鏡面磨き(、、、、、)に仕立て上げられた白銀のプレートアーマーに身を固めていた。彼らが構える大盾は、一斉に並ぶだけで強固な鉄壁の要塞を思わせる圧倒的な安心感がある。
その後ろに控えるのは、後衛の魔導部隊だ。
スピカとベガの『アークプリースト』の二人は、防刃のための鎖帷子の上から、厳かな純白の法衣をまとっていた。
一方、デネブ、ジョーンズ、メアリーの『アークウィザード』たちは、光を吸い込むような「深淵の魔導ローブ」を深く被っている。特にデネブの装飾は凄まじく、首回りや腕輪にはありとあらゆる属性の魔法石がこれでもかと散りばめられ、その細い十指には、強力な呪文を増幅するための多数の指輪が怪しく輝いていた。
そして、影に潜むのは『隠密』のカノープスとハダルの二人だ。
彼らは一切の光を反射しない特殊な隠密装束に身を包み、カノープスは目元だけを残して黒い覆面を深く被り直していた。
そんな一触即発の緊張感の中、スピカは、隣に立つベガが大事そうに抱えている「ある物」が気になって仕方がなかった。
それは、重厚でどこか禍々しいオーラを放つ、真っ赤な金属製のケース(、、、、、)だった。彼女の直感として、それがタダモノではない危険性を孕んでいることが伝わってくる。
「……ねえ、ベガさん。それ、なんですか?」
スピカが声を潜めて尋ねると、ベガは法衣の袖から赤いケースをそっと撫で、事もなげに応答した。
「これ? ――これはね、万が一の時のための『対邪神龍用(、、、、、)』の秘密兵器よ」
「……えっ?」
スピカの顔から一瞬で血の気が引いた。
(え、ええええええっ!? あの、数百年前にこの世界を滅ぼしかけたっていう、伝説の『邪神龍』用の最終兵器を、貴女はいつも(、、)お弁当箱みたいに持ち歩いているの!?)
あまりにも物騒すぎるミルキーウェールズの裏の戦力に、スピカは額から滝のような冷や汗を流すのだった。
だが、そんな小さな動揺も、周囲の圧倒的な緊張感にかき消されていく。
第二防衛ラインにズラリと並ぶ他国の陣営からも、武器を検分する金属音や、精神を統一するための短い気合いの声が聞こえてくる。彼らもまた、それぞれの国の想いと誇りを胸に、極限まで士気を高めていた。
そして、スピカたちのすぐ近くには、総指揮官であるレグルス皇帝が設営した、ロメーダ帝国の本陣天幕が重々しく鎮座している。
「これより、深夜の警戒および交代での仮眠に入る。全員、いつ何時『それ』が現れても動けるようにしておけ」
カノープスの低い指示に従い、一行は張り詰めた空気の中で交互に身体を休めながら、ひたすらに「その時」を待った。
◇◇◇
夜が最も深まり、午前2時を過ぎる頃――。
世界の終わりを告げる前兆は、突如として訪れた。
ゴボボボボボボボボ……ッ!!!
静まり返っていた港湾のいたるところから、地鳴りのような低い音と共に、巨大な気泡がボコボコと激しく沸き立ち始めた。
それは、まるで海全体が底から一気に沸騰しているかのような、異常極まりない光景だった。しかも、その泡が水面で弾けるたびに、どす黒く不透明な、紫色の禍々しい「墨」のような液体が海水へと混ざり合っていく。数時間前まで美しく月光を照らしていたロイヤルブルーの港が、じわじわと、しかし確実に暗黒の毒に侵食されていく。
「――おい! 水が……水が引いていくぞ!?」
第一防衛ラインの最前線を守る、リンデア王国軍の兵士から、引き裂くような悲鳴が響き渡った。
湾内の海水が、まるで海底に巨大な底抜けの穴でも空いたかのように、あるいは巨大な掃除機に凄まじい勢いで吸い込まれるように、沖合へと急速に引き波となって退いていくのだ。
瞬く間に潮が引き、普段は見ることのない海底の生々しい砂地や、何十年も前に沈没した船の朽ち果てた残骸がむき出しになっていく。この異常なまでの大干潮――。
それは、これから現れる**「何か」が港の湾内に侵入し、その想像を絶する巨体によって、海水を無理やり押し退けている(あるいは吸い込んでいる)**ことの、明確な証明であった。
そして――ついに「それ」が姿を現した。
バシャアァ、というような、派手な水しぶきや劇的な音は一切上がらなかった。
ただ、ぬう、と。
生き物としての気配を完全に遮断したまま、泥水のように濁った海面から、信じられないほど巨大な、うねる**「一本の触手」**が、音もなく滑り出てきたのだ。
それは、生物の肉というよりも、数百年もの歳月を生きた古びた大樹の巨木そのものだった。
湿った皮膚は粘液でヌルヌルと黒光りし、大人の胴体ほどもある巨大な吸盤の群れが、生き物のようにペタペタと不気味に収縮を繰り返している。その触手は、まるでそれ自体に「視覚」が存在しているかのように明確な意思を感じさせる動きで、ゆっくりと港の石造りの頑丈な防波堤へと這い上がっていった。そして、その指先で強度を確かめるように、ペタペタと石壁に触れた。
メキ、メキメキメキメキ……ッ!!!
ただ、触手が軽く触れただけだった。
それだけで、数百年もの間、リンデアの激しい荒波と嵐に耐え抜いてきたはずの頑丈な石壁に、蜘蛛の巣のような無数の亀裂が一瞬で走り、木っ端微塵に砕け散っていく。
人間側の戦士たちが、そのあまりの圧倒的な暴力と恐怖の前に、声も出せずに硬直する。
その沈黙を破るように、引き波だった海水が、今度は津波のような勢いで激しく逆流し始めた。せり上がってくる暗黒の海。
その引き裂かれた波の狭間から――家一軒ほどもあろうかという、巨大な**「一対の眼」**が、水面すれすれにその姿を現した。
人間の知性や言葉など、決して通じるはずのない深淵。世界への純粋な悪意と捕食の渇きをそのまま映したような、金色に濁った、冷酷極まりない巨大な瞳。
その瞳が、港に陣取る第一防衛ラインの3,000人の兵士たちを、品定めするようにじっと見つめ、細められた。
クラーケンは、吠え声すら上げない。
ただ、肺の代わりに巨大な外套膜が波打つように収縮する――。
「ヒューィ、シューィ……、ヒューィ、シューィ……」
という、濡れた冷たい風が、肉の狭い隙間を通り抜けるような、耳障りで不快極まりない呼吸音だけが、静まり返った港に不気味に響き渡っていた。
「ひっ……、う、うわああああああ!」
港全体を支配する絶望的なざわめき。各国から集まった百戦錬磨の戦士たちでさえ、その存在感の格差の前に、誰もが額から冷や汗を流して呼吸を乱していた。
そんな世界の終わりを予感させる暗黒の海を見つめながら――。
「……ついに、来たか」
ミルキーウェールズの席の最前線で、カノープス中尉は小さく呟いた。
恐怖を殺し、戦士としての冷徹な闘志を灯しながら、彼は己の顔を覆う黒い覆面を、深く、深く被り直した。
世界の命運を賭けた、海の魔王との最悪の24時間が、ついに幕を開けたのである。
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