第ニ部 第23話:恋する物見の涙と、少年中尉の直球勝負
「――スピカさーん。先輩が、ロメーダの綺麗なお姉さんと、ものすごく親しげにお話ししてましたぁ……っ」
スピカの客室へ入ってくるなり、それまで必死に堪えていたのだろう涙を大粒の雫にして、ポロポロと頬に伝わせたハダル。
スピカ、カノープス、ハダルの三人は、立場としては同じ学年の少年少女だ。しかし、過酷な忍者訓練施設においてはカノープスの方が先に在籍していた先輩であったため、新参者のハダルは今でも公私問わず彼のことを「先輩」と呼んで慕っている。
二人のこれまでの不器用な馴れ初め(第一部参照)に多少なりとも関わってきたスピカは、これまでもたまにハダルからカノープスに関する恋の相談を受けていた。しかし、今回ばかりはいつもと様子が違う。ハダルの泣き顔には、明確な「焦りと嫉妬」が滲んでいた。
(カノープス君のやつ、また無自覚に女の子を泣かせて……!)
スピカはとりあえず思い当たるカノープスの普段の様子を、ハダルを安心させるために一気に捲し立てた。
「ハダルちゃん、落ち着いて! カノープス君がハダルちゃんのことを大好きなのなんて、外から見てても一目瞭然よ! だって彼、いっつもポーカーフェイスでお澄ましさん気取ってるけど、ハダルちゃんが近くにいる時は分かりやすいくらい顔に出てるもの!」
「う、嘘じゃありませんか……?」
「嘘なもんか! あのお姉さんとは、ほら、任務(過去)で何かあったのかもしれないけれど、きっと大丈夫よ! 信じなさい、ハダルちゃん!」
スピカは必死に励ました。しかし、ハダルは潤んだ茶色の瞳をさらに潤ませ、消え入りそうな声でスピカに訴えかける。
「……あのお姉さんが、先輩と過去に何があったのか、ものすごく気になります。……でも、私からは、怖くて聞けません……っ」
「あー、もう分かったわよ! それじゃあ、私が代わりにカノープス君から聞き出してあげる! だから安心して、今日はもう涙を拭いて、ゆっくりおやすみなさい」
「……っ、ありがとうございます。スピカちゃん」
「おやすみ、ハダルちゃん」
涙を拭い、少しだけ安心した表情になったハダルを見送り、スピカは自室の扉を閉めた。
それから、ふかふかのバスルームで温かいシャワーを浴びながら、スピカは「はっ」と我に返り、己の行動を激しく後悔した。
(……しまった。涙目のハダルちゃんを見て、つい何かしてあげたくて余計なことを引き受けちゃった……!)
シャンプーの泡を流しながら、スピカは天を仰ぐ。
(私だって別に恋愛経験が豊富なわけじゃないけれど、恋人の『過去の女の影』なんて、絶対に知らない方がいいに決まってるじゃない! それにカノープス君は、明日から世界を揺るがすサミットの大事な本番を控えてるのよ? いつもの冷静なハダルちゃんだったらそれくらい分かりそうなものだけど……。ううん、これが『恋する乙女モード』ってやつなのね。ハダルちゃんの優秀なレーダーすら狂わせてしまうなんて、恋って本当に恐ろしいわ……)
まぁ、引き受けてしまったものは仕方がない。
「このことは、明日考えよう」
スピカはバスルームから上がると、柔らかな極上のガウンに身を包み、明日の会議に備えて泥のように眠りについた。
◇◇◇
翌朝――。
いつもより一段と早起きをしたスピカは、身支度を整え、お目付け役の護衛のレンジャーたちを伴って迎賓館の広いロビーへと降りていった。
すると、朝靄の残る静かなロビーの窓辺に、早くも物思いに耽っているカノープスの姿を発見した。
(あ、カノープス君だ。……これは、ある意味チャンスかも?)
スピカはレンジャーたちをその場に待たせ、足音を忍ばせてカノープスの元へと歩み寄った。そして、彼の真横からその顔を覗き込む。
朝日に照らされた普段は地味な少年の横顔は、心なしか、いつもより少し大人びた、凛々しい表情をしているようにも思えた。
(よし、サミット直前だし、あまり深刻にならずに、かる〜く、自然に聞き出そう!)
スピカは心にそう決心すると、爽やかな笑顔を浮かべて声をかけた。
「おはよう、カノープス君」
「――っ」
不意に響いたスピカの澄んだ声に、カノープスは肩を揺らして振り返った。
その瞬間、カノープスの脳裏に、かつて自分がスピカに対して人知れず淡い想いを寄せていた頃(第一部参照)の記憶がよぎる。胸の奥に一瞬だけ甘酸っぱい感情が湧き上がったが、彼はそれをプロのポーカーフェイスで完全に隠し、いつも通り生真面目に頭を下げた。
「おはようございます、スピカさん」
「今日も朝が早いのね」
スピカが何気なく問いかけると、カノープスは窓の外を見つめたまま、静かに頷いた。
「ええ。今日は、我が国の命運を分ける大事な本番ですから」
(あちゃー……やっぱりタイミング悪かったわね。ものすごく集中してるじゃない!)
スピカは内心で頭を抱えた。しかし、ここで引いてはハダルちゃんに合わせる顔がない。
(大丈夫、軽くよ。自然に、かる〜く聞けば、なんてことない雑談だわ!)
スピカは意を決し、努めて明るい調子で切り出した。
「あのさー、カノープス君。昨日、カノープス君が親しげにお話ししていたロメーダのお姉さん……なんだかお知り合いみたいだったけれど、あれってどういう人なの?」
その問いかけを聞いた瞬間、カノープスは明らかに戸惑いの表情を浮かべた。
(えっ……? なんで、スピカさんがミラさんのことに興味を……?)
カノープスの頭の中に疑問符が浮かぶ。しかし、相手は自分が敬愛する聖女候補スピカだ。彼は一切のごまかしを排除し、極めて真面目な顔でこう答えた。
「――とても、大切な友人です」
(ひ、非常に微妙なラインを攻めてきたわね……!)
スピカは内心で冷や汗を流した。単なる「知り合い」でもなければ、「同僚」でもない。『とても大切な友人』。これはハダルちゃんが聞いたら、その場で気絶するか再度号泣するレベルのグレーゾーンである。
これ以上の詮索は、流石に今日の彼の集中力を乱すと判断したスピカは、「そ、そうなんだ!」と笑って、話を切り上げようとした。
「それじゃあ、今日のサミット、お互いに頑張ろうね――」
そう言いかけたスピカの言葉が、凍りつく。
静まり返ったロビーの奥から、圧倒的な、肌を刺すような威圧感を放ちながら、一人の男が歩み寄ってきた。
きらめくプラチナブロンドの髪に、冷酷なエメラルドの瞳。
ロメーダ帝国皇帝、レグルス――。
「ロメーダ皇帝……!」
スピカの喉が小さく鳴った。
レグルス皇帝は、出迎えのシリウス王子を見る時とは異なる、冷徹で、しかしどこか観察するような鋭い視線で、スピカの姿を正面から真っ直ぐに射抜いてきた。
その強い眼差しに晒された瞬間、スピカの全身に鳥肌が立つ。
まるで、蛇に睨まれた蛙のような、抗えない圧倒的な恐怖。――しかし、それと同時に、なぜかその底知れないエメラルドの瞳の奥を、もっと深く覗き込んでみたいと思ってしまうような、ひどく危うい、魅惑的な感情がスピカの胸を支配していく。
二人の間に流れる奇妙で張り詰めた沈黙。
それを破ったのは、スピカの前に一歩踏み出し、彼女を背中で庇うように立ったカノープスだった。
カノープスは普段の地味な佇まいからは想像もつかないほど、鋭く、冷徹な視線をレグルスへと突き返した。
「――我がミルキーウェールズ使節団の生徒会役員に、何か御用でしょうか、皇帝陛下」
完全な牽制。超大国の覇王を前にして、カノープスの声には一切の怯えも揺らぎもなかった。
レグルスはフッと不敵な笑みを浮かべると、スピカから視線を外し、カノープスを値踏みするように見つめた。
「……フッ、君がシリウスの右腕か。――今日のサミット、楽しみにしているよ」
それだけを言い残し、レグルス皇帝は傲然とした足取りでその場を去っていった。
嵐のようなプレッシャーが去り、スピカはホッと大きく息を吐き出した。
(カノープス君、普段はすごく地味な顔をしているけれど……あのロメーダの恐ろしい皇帝陛下を前にしても、一歩も引かないなんて。ものすごい度胸だわ……。ハダルちゃんが彼のことを好きになる理由が、ちょっとだけ分かったかもしれないな)
スピカが少しだけカノープスを見直し、感心していた――その、まさに直後である。
カノープスが突然、スピカの方へと静かに振り返った。
その瞳には、先ほど皇帝に向けた鋭さとは異なる、しかし、人生の全てを賭けたかのような、退路を断った重い決意の光が宿っていた。
「スピカさん」
カノープスの低い声が、ロビーに響く。
「――僕は、貴女が好きでした」
(、、、、、)」
「え……?」
スピカの思考が、あまりの衝撃に停止する。過去形の、しかしあまりにも純粋な告白。
カノープスは動揺するスピカを真っ直ぐに見つめ、騎士の誓いを立てるかのように、毅然と言い放った。
「どんな陰謀が待ち受けていようと……貴女は、僕が守ります」
それは、かつて抱いた淡い恋心への決別であり、これからの激動のサミットにおいて、命に代えても彼女を守り抜くという、少年中尉の至高の宣誓であった。
あまりにも不意打ちすぎる直球の言葉を前に、スピカはただ、目を見開いて立ち尽くすことしかできなかった。
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