第ニ話 第22話:嵐の前のロビーにて、添い寝の続きは語られず
ミルキーウェールズ陣営とロメーダ帝国陣営。世界を二分する二つの巨大な勢力が奇しくも同舟することとなった、リンデアの大迎賓館。
夜も更け、静まり返った重厚なロビーの片隅で、カノープス中尉は一人、ソファに深く腰掛けて深夜の思案に耽っていた。
彼の脳裏を占拠しているのは、明日に迫った国際学園サミットにおける、ロメーダ帝国陣営のあまりにも不気味な動向についてだった。
今回のサミットにおいて、帝国側に対して各国から「賢者の書」の開示要求という激しい追及が巻き起こることは、火を見るより明らかである。世界の富と叡智を独占せんとする帝国への風当たりは強い。
(……だが、あの傲岸不遜にして冷徹なレグルス皇帝が、そんな分かりきった逆風に対して、何の方策も持たずにノコノコとこの地にやってきたのだろうか?)
カノープスは喉の奥に鋭い棘が挟まったかのような、拭いきれない強い違和感を覚えていた。
もし、帝国側が世界の信用を取り戻すために、要求通りに素直に「賢者の書」を全面開示するつもりなのだとしたら、それはミルキーウェールズ側が事前に用意していた「対ロメーダ包囲網」のシナリオ通りに事を運ぶことができる。最も平和的で理想的な結末だ。
(しかし……相手はあのレグルスだ。そう簡単にこちらの盤面に乗ってくるとは思えない。何か、こちらの予測を根底からひっくり返すような、巨大な『隠しカード』を握りしめている気がしてならないんだ……)
さらに言えば、あの『ロメーダの三連星』をわざわざ護衛として同伴させてきた理由も、依然として謎に包まれたままである。単なる武力による威嚇にしては、あまりにも手の内を晒しすぎている。あの皇帝の腹の底には、一体どんなドス黒い策略が渦巻いているのだろうか。
深く考え込むあまり、カノープスは眉間に深い皺を刻んでいた。
そんな彼の張り詰めた思考の糸を、鈴が転がるような、しかしどこか妖艶さを孕んだ懐かしい声が、不意に背後から断ち切った。
「あれーー? カノープス君。……もしかしてここで、ミラさんに声をかけられるのを、ずーっと待っててくれたのかなぁ?」
「――っ」
振り返れば、いつの間にか音もなく背後に立っていたミラが、山吹色の髪を軽く指先で弄びながら、相変わらずの勝気で悪戯っぽい調子で微笑んでいた。
カノープスは小さく息を吐き出し、乱れかけた心を平常に引き戻して答える。
「……明日のサミットについて考えていたんです。これからの世界の動向がかかっていますから」
「ふふ、相変わらず君ってば、本当に真面目なんだから」
ミラはくすくすと喉を鳴らし、しなやかな肢体を滑らせるようにしてカノープスの隣のソファへと腰掛けた。距離が、ふっと近くなる。
「ここはね、『ええ、ミラさんをずっと待っていましたよ』って、ちょっとくらいお世辞でも言っていい所なんだよ?」
大人の余裕を感じさせるミラのからかいに、カノープスは少しだけ苦笑を浮かべ、彼女のペースに合わせるように言葉を返した。
「……分かりました。じゃあ、そういう事にしておきます」
ふう、とわざとらしく一つ息をつき、カノープスは彼女の茶色の瞳をまっすぐに見つめる。
「じつは、ミラさんを待っていました」
「ふふっ! あら、君もずいぶんと上手いことが言えるようになったじゃない。前はもっと初心だったのにね」
ミラは嬉しそうに目を細め、少女のように楽しげに笑った。
だが、カノープスの瞳の奥にある「指揮官」としての光は消えていなかった。彼はここぞとばかりに、ミラとの距離が縮まった瞬間を見計らって本題を切り出す。
「ミラさん。……明日のサミット。帝国側は一体どのような立ち回りをするつもりなのですか? ――もし、貴女が何かご存知でしたら、教えてはいただけませんか」
その瞬間、ミラの笑顔の奥にあるスパイとしての冷徹な光が、わずかに揺らめいた。
ミラはカノープスのガツついた問いかけに対して、じっとその真摯な瞳を見つめ返しながら、大人の色気を漂わせて呟く。
「……淑女に対して、いきなりそんな余裕のない問いかけはどうかしら、カノープス君?」
「っ……申し訳ございません」
プロのスパイである彼女に対し、あまりにも安直で不躾な情報収集を試みてしまった己の未熟さを恥じ、カノープスは思わず視線を落として素直に謝罪した。
そんなカノープスの様子を見て、ミラはふっと肩の力を抜くと、少しだけ困ったように息を吐いた。
「いいのよ。……ただ、今の私の立場上、ここでは何も言えないかな。――明日になれば、嫌でも全て分かるわ」
明日になれば、分かる。その言葉には、やはり帝国側が何らかの決定的なアクションを起こすという確信が滲んでいた。
「……ところで、カノープス君」
ミラはそれ以上ビジネスの話を続けるのを拒むように、さらに声を潜め、上目遣いでカノープスをじっと見つめてきた。その茶色の瞳には、先ほどよりも深い、悪戯っぽさと妖艶さが混ざり合っている。
「――別れぎわの『約束』、ちゃんと覚えてる?」
「約束……?」
カノープスが記憶を遡ろうとした、その刹那。
脳裏に、先の極秘ミッションのラストシーンが、鮮烈な閃光と共にフラッシュバックした。
あの任務の別れ際、ミラは、去り際にカノープスに向けて、読唇術(、、)による無言のメッセージを残していったのだ。
あの時、彼女の艶やかな唇が確かに形作った、秘められた言葉――。
『――ソ・イ・ネ・ノ・ツ・ヅ・キ・ハ・マ・タ・コ・ン・ド』
(添い寝の、続きはまた今度――っ!?)
一瞬にして記憶が繋がり、カノープスの端正な顔が耳の付け根まで一気に真っ赤に染まった。かつて任務の最中、不可抗力とはいえ彼女と同じ部屋で一晩を過ごす羽目になったあの甘酸っぱくも心臓が張り裂けそうだった夜の記憶が、濁流のように押し寄せてくる。
カノープスは慌てて視線を泳がせ、動揺を隠すように少し声を荒らげて返した。
「相変わらず、もう……! からかわないでください、ミラさん!」
彼にとっては、心臓に悪いからかいの言葉に過ぎないはずだった。
しかし――。
「……ふーん。そうとるか」
ミラはぽつりと、掠れるような声で呟いた。
その瞬間、彼女の美しい顔からいつもの勝気な笑みが完全に消え去り、胸の奥を締め付けられるような、ひどく寂しげな哀愁がその瞳に宿ったのを、カノープスは見逃さなかった。
それは、スパイとしての偽りの仮面ではなく、一人の等身大の女性としての、本心の拒絶に対する傷つき(、、、、、)のようにも見えた。
「――また明日ね、カノープス君。おやすみなさい」
ミラはそれだけ言うと、いつもの妖艶な足取りを無理に演じるようにして、翻した背中を見せながら、足早に静寂のロビーの奥へと立ち去っていった。
「ミラ、さん……」
伸ばしかけた手を、カノープスは虚しく空中で止める。
一人残されたロビー。静まり返った夜の空気の中で、カノープスの胸の奥には、彼女のあの寂しげな横顔が焼き付いて離れなかった。
からかいの裏に隠された彼女の本当の想いは、一体どこにあるのか。
サミット前夜、解決しない政治の謎と、割り切れない大人の感情が入り混じり、カノープスはなんとも言えない切ない気持ちのまま、夜の闇を見つめ続けるしかなかった。
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