第ニ部 第17話(幕間):深夜のロビー作戦会議と、へし折られたチュー策
激動の「温泉全裸襲撃事件」がどうにか幕を閉じ、賊の追跡や事後処理が一段落したシマフクワイアンの夜。
深夜の静まり返った旅館のロビーの片隅で、カノープス中尉は一人、ソファに深く腰掛けて厳しい表情で思案に耽っていた。
(……今日も、本当にギリギリの勝利だった)
昼間の完璧なエージェントとしてのプライドはどこへやら、今日の自分の立ち回りを振り返ると、ただただ「散々だった」としか言いようがない。
敵の痩せ細った仮面の男が放った幻術に、短時間で二度も引っかかり、相手の目論見通りに最悪な「時間稼ぎ」を許してしまった。もしもシリウス王子の超人的な智略や、アルタイルさんの驚異的な追跡能力、そしてシャーロット先輩の規格外の精神耐性と機転がなければ、この使節団の運命はどう転んでいたか分からなかったのだ。
特に、二度目の幻術に嵌まったのは、完全に自分自身の「未熟さ」によるものであり、本来なら防げたはずの失態だった。
あの仮面の男が、ハダル君を人質に取るかのような卑劣な物言いをした瞬間、カノープスは頭に血が上り、激怒してしまったのだ。
(如何なる極限状態であろうとも、指揮官が冷静さを失ってはならない。――怒りは、戦術的になんの利益ももたらさないものだ)
クナイを握りしめていた手のひらを見つめながら、カノープスは自身の心の弱さを改めて猛省し、深く、重い溜め息をついた。
「――カノープス先輩?」
突然、静かなロビーに鈴の音を転がしたような愛らしい声が響いた。
ハッと顔を上げると、そこには旅館の浴衣を小さめの身体にたおやかに纏った、ハダル君の姿があった。
「スピカさんとベガさんの部屋の護衛は、有能なレンジャーの方たちに一旦お任せして……私も、冷えた身体を温めに温泉に入っちゃいました」
そう言ってハダル君は、カノープスのすぐ隣のソファへとトコトコと歩み寄り、ちょこんと腰掛けた。
まだ完全には乾ききっていない、しっとりとした亜麻色の髪。湯上がりの浴衣の襟元や袖口からチラリとのぞく、ほんのりと桜色に上気した白い柔肌。そして、すれ違いざまに鼻腔をくすぐる、優しく清潔な石鹸の香り――。
(ぶっ……!?)
カノープスの脳内インジケーターが一瞬で限界突破を起こした。
突発的な鼻血が出そうになるのを強靭な理性でどうにか押さえ込み、カノープスは精一杯の平穏を装って声を絞り出した。
「あ、あぁ……ハダル君か。お疲れ様。……ちょっとね、今日の戦いの『反省会』を一人でしていたんだ。ハダル君には、今日も絶体絶命のところで助けられたな。僕が幻術に嵌まったとき、【活】を入れてくれなければどうなっていたか。……改めて、礼を言わせてくれ。本当に助かったよ」
すると、ハダル君は少しだけ小首をかしげ、いたずらっぽくクスッと笑った。
「まぁ、戦っていればそういう日もありますよ、先輩。……でも、あの場にしっかりと留まって、全裸のままでカッコよくクナイを構えて身構える先輩……とっても『凛々しかった』ですよ?」
「うっ……!」
あー。もー。なんなんだこの生き物は。どこまで可愛ければ気が済むんだ。
このまま理性など投げ捨てて、ロビーのふかふかの高級ソファに押し倒してしまいたい衝動に駆られるのを、カノープスは必死に耐えた。
しかし、ふとカノープスは現状の事態の特異性に気がついた。
薄暗い深夜のロビー。湯上がりの浴衣姿の美少女。二人きりのシチュエーション。隣から漂う石鹸の香りと、僕を見つめる潤んだ瞳。
(……待てよ? これはひょっとして、世間一般で言うところの『ものすごく良い雰囲気』というやつなのでは……!? 優秀な国家エージェントとして、ここから一体どういう会話の選択肢を持っていくのが戦術的正解なんだ!?)
カノープス中尉の脳内で、緊急の恋愛最高作戦会議が立案された。
【上策】:このまま自然な流れで、ハダル君を自分のプライベートルーム(個室)へとスマートにいざなう。
【中策】:この最高の雰囲気のまま、ハダル君とロマンチックなキスをする。
【下策】:ヘタレの本領を発揮し、「それじゃあ爽やかにおやすみなさい」と告げて部屋に戻る。
(えーい、何を上策に破廉恥な目標を置いているんだ僕は! 男女の関係には順序というものがあるだろう! となると、現実的なターゲットは……この『中策』か……っ!?)
カノープスが脳内でくだらない駄洒落を交えながら真剣に悶絶していると、下を向いて耳まで真っ赤にしているカノープスの顔を心配したのか、ハダル君が顔を覗き込んできた。
「先輩……? どうしたんですか? 顔がすごく赤いですよ……? まだのぼせてるんですか?」
間近に迫る、ハダル君の綺麗な瞳。
カノープスは意を決した。自身の心臓の爆音に負けないよう、か細く、しかし震える声で告白の言葉を紡ぎ出す。
「ハダル君。……僕は、君のことが――」
「――あらぁぁっ!? 指揮官殿と、ハダル嬢ではございませんかぁぁーーーっ! 本日も我が旅団の大勝利! 実に、実におめでとーうございまするぅぅ!」
その静寂をぶち破るように、ロビーに響き渡った聞き覚えのある大声。
声の主は、顔をこれ以上ないほど林檎のように真っ赤に染め、千鳥足でフラフラと歩いてくる騎士の名門ガンデッシュ家の令嬢――シャーロット様であった。
しかも、この厳格な禁酒国家のどこに隠し持っていたのか、彼女の身体からは独特の芳醇な葡萄の香りがプンプンと漂っている。
カノープスは完全に硬直し、引きつった顔で問いかけた。
「シャーロットさん……。君、もしかして……またお酒を……?」
するとシャーロットは、ブレる人差し指をビシッと天に掲げ、ろれつの回らない声で堂々と言い放った。
「勝利の後はぁ! 万国共通で法律を超えて許されるのでありますッ! フハハハ!」
(許されるわけがないだろう、完全に密輸同然の違法飲酒だ!!!)
せっかくの人生最大の告白チャンスをアルコール臭い大声で粉々に粉砕され、カノープスは血涙を流しながらハダルへと緊急の任務を命じた。
「ハダル君! 大至急シャーロットさんを彼女の部屋へ強制連行してくれ! それから、勝手に外に出歩かないよう、部屋の前にレンジャーの見張りを二名密につけておいてくれ!」
「わ、わかりました先輩! お任せください! ……それでは、おやすみなさい!」
「うふふ、ハダル嬢ぉ、お部屋で一緒に飲み直しましょうぉ〜」と絡みつく大型犬のようなシャーロットをテキパキと回収し、部屋へと戻っていくハダルの後ろ姿を、カノープスはただ呆然と見送るしかなかった。
静まり返った夜のロビー。
カノープス中尉が命を懸けて立案した歴史的作戦『チュー策』は、名門騎士の絡み酒によって、哀れにも一瞬で不発に終わるのだった。
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