第二部 第14話:シマフクワイアンの湯煙と、夜襲のブレイクスルー
温泉郷シマフクワイアンの夜は、立ち上る白い湯煙と、ほのかな硫黄の香りに包まれていた。
広大な敷地に作られた最高級の露天風呂では、ミルキーウェールズ使節団の一同が、思い思いの格好で長旅の疲れを癒やし、心から寛いでいた。
極上の湯に肩まで浸かった第一王子シリウスは、ゴツゴツとした風情ある岩肌にゆったりと背中をもたれかけ、月明かりに照らされた美しい日本風の庭園を穏やかな眼差しで眺めている。
その少し横では、生真面目なルスカ副会長が「ふぅー……」と深い吐息を漏らし、白タオルを目元に当てて完全に上を向いた状態で、至福の時間を噛み締めていた。
そんな平和そのものの空間の片隅で、カノープス中尉だけは、お湯に浸かりながら脳細胞をフル回転させて「論理的思考」を試みていた。
(……落ち着け。論理的に、かつ科学的に考えるんだ。そもそも、発動しただけで『確実にラッキースケベが誘発する呪文』なんて、この世界の魔導工学の歴史上、存在するわけがないんだ! 今までのハプニングは、単なる確率論的な偶然が重なっただけに過ぎない。よーし、そうだ。そうだとも。そんな因果律を歪める呪いの遺伝子みたいな魔法、あるわけがない。絶対にない。よし、完結!)
カノープスが心地よい温泉の温もりのなかで、強引に脳内の結論をねじ伏せ、ホッと息を吐いた、その時だった。
「――よう、カノープス君。随分と難しい顔をして湯に浸かっているね。のぼせてしまうよ?」
声をかけてきたのは、魔法学園ゼンビヤ代表のアークウィザード、ジョーンズ君だった。
見回してみれば、国境を越え、幾多の激しい危機を共に乗り越えてきたせいだろう。露天風呂のあちこちでは、他校の生徒同士が完全に打ち解けている様子がちらほらと見られた。
例えば、騎士団防衛学園ギルマッシュの聖騎士である大柄なオリバー君は、我が使節団のアルタイル君とすっかり気が合ったようで、お互いに裸の付き合いのなか、熱い格闘戦術談義に大輪の花を咲かせている。
そしてカノープス自身も、この知性派のジョーンズ君とは非常に気が合っていた。
これまでの旅の道中、馬車や宿舎のなかで世界の戦術論、古代歴史、現在の政治情勢、果てはサミットにおける国際論にいたるまで、ハイレベルな会話を対等に語り合える、気の置けない大切な戦友となっていたのだ。
だが、そんな知性派のジョーンズ君が、眼鏡の奥の瞳をどこか妖しく光らせ、防壁の向こう――「女湯」へと続く竹林のパーテーションを見つめながら、熱っぽく語りかけてきた。
「何度も同じ話を繰り返して申し訳ないがね、カノープス君……。やはり、彼女は『芸術』だよ。あの圧倒的な魔法の強さ、凛とした気高さ、そしてあの神秘的な美しさ……! 凡百の言葉をいくら並べ立てても、彼女を形容するには稚拙に思えてしまう。――そして今、まさにあの壁のすぐ向こう側に、あられもない姿のデネブ嬢が湯に浸かっている。……あぁ、なんて悩ましく、神聖で、冒涜的なシチュエーションなんだ……!」
「ははは……」
カノープスは引きつった笑みを浮かべた。
あの馬車駅での【タイム・ストップ】の一件以来、ジョーンズ君はデネブ先輩の圧倒的なカリスマに完全に心を奪われ、ガチ恋勢の筆頭と化してしまったらしい。
ジョーンズ君はニヤリと笑うと、今度はカノープスに肘で小突くように視線を送った。
「おっと、私ばかりが熱くなって悪かったね。あの防壁の向こうには、君の愛しいハダル嬢もいるのだよ?」
「っ……!? な、何を言っているんだ。そんなんじゃないよ」
カノープスは思わず顔を真っ赤にしてそっぽを向いたが、これが温泉でのぼせたせいではないことは、本人が一番よく分かっていた。
カノープスは照れ隠しに、ジョーンズ君の何気ない「湯船での見た目」について、かねてからの疑問を質問してみた。
「そういえばジョーンズ君。君、温泉に入っている時でも、頑なにそのメガネを外さないんだね」
すると、ジョーンズ君は濡れた前髪をサッと上げ、レンズを指先でクイッと押し上げながら、無駄にキリリとしたイケメンフェイスで言い放った。
「当然さ、カノープス君。――いざという時の、視界確保のためにね!」
(……そのメガネ、この後の展開で絶対に役に立ちそーー!!!)
カノープスは心の中で激しく突っ込んだ。やはりルスカ副会長の【ラックアップ】の呪いは、確実に周囲の男たちのリビドーを増幅させている。
◇◇◇
一方その頃、高い竹垣の防壁と岩肌で厳重に仕切られた「女湯」でも、使節団の女性陣が至福のひとときを過ごしていた。
「あえー……。温泉って、ほんっとーに良いねぇー……」
湯船の縁に頭を乗せ、完全にクラゲのように脱力して浮かんでいるのはスピカだった。
「本当ですね。一歩間違えれば死んでいたかもしれない長旅でしたから、余計にこの温かさが身体の芯までほっと染み渡りますね……」
その横で、大富豪の令嬢であるメアリーも、白い柔肌をほんのり桜色に染めながら上品に頷いていた。あまりの心地よさに、もはや何もかもがどうでもよくなってしまうような極上の緩和ムードが場を満たしている。
公爵令嬢のベガも、普段のツンとしたお高めのプライドを霧散させ、お湯を口元の高さまでたっぷりと浸からせて「はふぅ……」と小さく吐息を漏らしていた。
そしてその少し離れた岩場では、重度のアルコール切れを起こしていたシャーロット嬢が、「ぷはぁーーー!!!」と、キンキンに冷えた地元のサイダーの瓶を、まるでジョッキのビールか何かのように豪快に煽り、喉を鳴らしていた。
そんな女子たちの無防備なパラダイスのなかで、なぜか一人だけ、湯気の中で顔をリンゴのように真っ赤にして身を縮めている者がいた。アークウィザードのデネブ先輩である。
(……待って。落ち着きなさい、私。冷静に考えてみて……? 今、この薄い壁一枚を隔てたすぐ向こう側に、シリウス殿下が裸でいらっしゃるのよね? ということは……これって実質的に、私、殿下と『一緒にお風呂に入っている』ということになるのかしら……っ!? いや、むしろ混浴と言っても過言ではないのでは……っ!!)※一部参照
相変わらず、恋に恋するウブな妄想を大爆発させている天才魔導士であった。
――だが、そんな極限まで緩みきった女湯の空間のなかで、ただ一人、周囲の湯煙に鋭い視線を走らせ、一切の警戒を緩めていない少女がいた。
前物見(くノ一)のハダルである。
ハダルはまだお湯には浸からず、湯浴み着を纏った状態で岩陰に潜み、周囲の気配を完全に探っていた。
(……私のようなプロの忍者なら、旅の最終目的地を目前にした、一番油断している『今この瞬間』こそを狙う。宿の防衛結界の強度は? 外部からの侵入ルートは――)
一通り周囲の安全を確認し、ハダルは小さく息を吐いた。
(……でも、流石に考えすぎかな。せっかくカノープスたちと同じ宿に泊まれたんだし、私もやっぱり、ちょっとだけお湯に入ろうかな……)
ハダルが警戒を解き、体に纏った忍び装束(湯浴み着)の紐に手をかけ、それを脱ぎかけようとした――その瞬間だった。
ぞくり、と。
温泉郷特有の自然な湯煙とは明らかに異なる、不自然な「魔法使用独特の魔力の気配」が、微かに大気を震わせた。
それと同時に、抗いがたいほど強烈な、意識を強制的に刈り取るような「眠気」の波動が、ハダルの脳をダイレクトに襲う。
「っ……!? 【マインドリセット(精神回復)】ッ!!!」
ハダルは咄嗟に自らの特殊スキルを発動させ、脳に叩き込まれた精神拘束――【スリープ(睡眠呪文)】の呪縛を力技で瞬時に解き放った。
視界を確保したハダルの目が、驚愕に引きつる。周囲を見れば、先ほどまで寛いでいたスピカやメアリー、ベガ、そしてデネブ先輩までもが、湯船の縁に頭をもたれさせたまま、一瞬にして完全に深い眠りへと落ちてしまっていた。
(これは……普通の魔法スクロール(巻物)による発動じゃない……! 出力が規格外すぎる! もっと凶悪な、古代の魔道具による広域奇襲魔法……っ!!)
ハダルは脱ぎかけの装束を瞬時に引き絞り、女湯の仕切りを蹴り飛ばさんばかりの勢いで、ありったけの声量で叫んだ。
「――全員起きてっ!! 先輩ッ! 敵襲です……っっっ!!!」
ハダルの、温泉郷の夜を切り裂くような危機迫る悲鳴。
それが男湯側に届いた瞬間、事態は一気に加速した。
「何っ! ハダルちゃん!?」
「シリウス殿下を守れ!!」
ハダルの悲鳴を聞きつけた男子風呂の全員――完璧な王子シリウス、パラディン・ルスカ、格闘談義中だったアルタイルとオリバー、そして「視界確保のメガネ」をギラリと光らせたジョーンズ君までもが、一丸となって、一糸乱れぬ動きでレディーたちのエリアへと殺到したのだ!
それと同時に、男湯と女湯を隔てていた竹林のパーテーション(壁)が、ラックアップの呪いによる不可抗力な「確率の収束」によって、ガラガラと音を立てて派手に崩壊していくのが見えた。
「うわあああああああーーーっっっ!!! 案の定この最悪なパターンかよおおおおお!!!」
カノープス中尉は、あまりの予定調和な大惨事に冷や汗を滝のように吹きこぼしながらも、愛するハダルと仲間たちの危機を救うため、自ら湯船を蹴り飛ばし、崩れ落ちる壁を飛び越えてパラダイス(戦場)へと決死の突撃を敢行するのだった。
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