第二部 第3話:化かし合いのチェス盤と、運動着の童話
生徒会室に漂う重苦しい緊張感の中、上座に佇むシリウス・ランスターは冷徹なまでの美貌に鋭い光を宿し、静かに言葉を続けた。
「――さて。この難解な議題を本格的に議論する前に、まずはカノープス君から、我が国における『賢者の書』の最新の情報把握状況について説明してもらおうか」
メレンヘア学園生徒会庶務
カノープス・チュワートス。
中肉中背でどこにでもいるような、これといった特徴のない平凡な少年。しかし、それこそが擬態だ。彼の真の姿は、シリウス王子を闇から守る影であり、ミルキーウェールズ王国が誇るハイクラス忍者にしてトップエージェントなのである。
シリウスに促され、デスクの端で控えていたカノープスが、いつものように目立たない地味な、感情の読めない表情を保ちながら、静かに言葉を切り出した。
「はい。先のロメーダ帝国との極秘の外交交渉において、私は特使たる使節団長の父、ゼダル侯爵に同行いたしました。……表向きは通常の通商条約の更新でしたが、その外交における真の本命は、やはり『賢者の書』のログについてでした」
カノープスは淀みのない、極めて整然とした口調で報告を重ねていく。
「そこで我が国は、国宝級の価値を持つ『極楽鳥のローブ』という、文字通り大枚を叩くことで、帝国側から賢者の書に関する極めて貴重な情報を入手することに成功しました。……その具体的な中身については、国家最高機密に指定されたため、今この場でも申し上げることはできませんが。一つだけ言えるのは、もし帝国がこれを全面的に公表すれば、我が国ミルキーウェールズにも甚大な影響を及ぼす内容である、ということです」
カノープスは瞳をすっと細め、総括するように言った。
「――つまり。現状において我が国にとっては、帝国があの情報を他国へ公表しないままでいてくれた方が、圧倒的に都合が良い、ということになります」
国家の根幹を揺るがしかねない背景を、一切の無駄なく理路整然と説明してみせたカノープス。
その見事な議論を聞きながら、下座でポカンと口を開けていたスピカは、心の中で猛烈なツッコミを禁じ得なかった。
(えっ……? ちょっと待って、カノープス君……!? あなた、普段あんなに地味な顔して(失礼)モブみたいに潜んでるくせに、なんでそんなに急に賢そうな、いかにもデキるエリート外交官みたいな発言が出来るの!?)
カノープスの有能ぶりにスピカが一人で戦慄していると、隣に座るベガが、薔薇のような唇を皮肉げに歪めて口を挟んだ。
「なるほどね……。つまり我が国は今回のサミットで、帝国と一緒に手を取り合って、世界を相手に『腹黒いたぬき』を演じなければならない、ってことかしら?」
ベガの辛辣な例えに、シリウスはフッと薄く笑って付け足した。
「ふむ。大枠としては、そういうことになるかな」
さらに、完璧超人たる書記のデネブも、手元の資料にエレガントに視線を落としながら発言する。
「ですが殿下、他国との事前の水面下の擦り合わせでは、各国ともサミットの場で帝国に対し、賢者の書の完全な情報開示をかなり強く要求する構えを見せておりますわ。その国々の包囲網の中で、我が国だけが帝国を庇うような立ち位置を取るというのは……非常に難しい舵取りになりますわね」
(ベガさんも、デネブさんも、なにやら色々分かっていらっしゃる……! っていうか、なんなのみんな!? なんでそんなに頭が良いの!? 天才の集まりなの!?)
周囲のあまりにも高度な政治的会話に、一人だけ泥のついた運動着姿のスピカは、完全に圧倒されて小さくなるしかなかった。
そんな知的で緊迫した空気の中、それまで腕を組んで目を閉じていた男が、重々しく目を開いた。
「――ならば、くノ一が必要になるな」
厳格な鋼鉄のプライドと称される、我が国最強の聖騎士――ルスカ副会長である。
そのあまりにも堂々とした、しかし前後の文脈を完全に無視した発言に、生徒会室が一瞬で水を打ったように静まり返った。
(……えっ? なんで今、この緊迫した外交の国際会議の流れで『くノ一』が必要になるの!?!?)
それは、政治のことが一ミリも分からない運動着のスピカにすらハッキリと分かる、あまりにも的外れで斜め上の発言だった。しかし、ルスカ副会長の表情はどこまでも大真面目で、一切の揺るぎがない。さすがは脳筋の系譜である。
シリウスはルスカの発言を華麗にスルー……するかと思いきや、ふっと息を漏らして場をまとめるように切り出した。
「我が国の対応の方針としては、賢者の書の開示を求める各国と同調するポーズを取りつつも、決してそれ以上は深く追及しない、という方針で行きたい。むしろ、追及が始まりそうになったら、隙を見て別の国際議題へと全体の関心を誘導するような姿勢を取りたいと思う」
シリウスは役員全員を見回し、今回の遠征メンバーの書類を開いた。
「そこで、今回のリンデア王国への遠征メンバーだが、ここにいる我々生徒会役員6人の他に、ミルキーウェールズが誇る他の二大学園からも、それぞれ二名ずつ代表が参加することが決まった。さらに――国際舞台での不測の事態に備え、護衛として『サムライ』の適正を持つアルタイル。そして――『くノ一』のハダルにも同行してもらう」
(あっ!!! ルスカ副会長の『くノ一案』、なんか普通に採用されてるし!!!)
スピカが心の中で盛大にずっこけていると、何を思ったのか、シリウスがスッとその鋭くも美しい視線をスピカの方へと向けた。
「――今回のこの議題について、スピカ庶務。何か意見はあるかな?」
「ひゃいっ!?」
突然名指しされ、スピカは本日二度目の変な声を上げた。
デネブやベガ、カノープスたちの冷徹で完璧な視線が一斉に自分に集まる。しかも、自分だけ運動着。ここで「何もありません」と言えれば楽だったが、シリウスの有無を言わせぬ圧に押され、スピカは必死に、空っぽの脳みそから言葉を絞り出した。
「あ、あの……! わ、我が国は……その、大切な場面で、どうしても『たぬき』を演じなければ駄目なのでしょうか……?」
それは、国際政治の場においては、あまりにも子供じみた、純粋すぎる問いかけだった。
その問いに対し、シリウスはいつも通りの優しい、酷く穏やかな口調のまま――しかし、その瞳の奥には射すくめるような鋭い視線を湛えて答えた。
「――大切なものを守るためにはね、スピカ庶務。時にはたぬきにでも、あるいは獰猛なオオカミにでもならなければならない局面が、この世界には確実に存在するのだよ」
シリウスの放つ、王族としての圧倒的な威圧感。
だが、スピカはご先祖様(自称・聖女)譲りの頑固さを発動させ、顔を真っ赤にしながら返答するのが精一杯だった。
「……たぬきは、まだ化かし合いで済みますからともかくとして! 他者を傷つけるオオカミになるのは、絶対に良くないと思います!」
生徒会室に、一瞬の静寂が訪れる。
スピカのその拙くも真っ直ぐな言葉を聞いたシリウスは、鋭い眼光を崩さないまま、どこか遠くを見るように優しく、ぽつりと呟いた。
「……そうだな。確かに、オオカミは良くないかもしれないな」
それが、本心からの同意なのか、あるいは哀れみなのかは分からない。
シリウスはすぐにいつもの完璧な会長の顔に戻ると、パチンと手元の資料を閉じた。
「これにて、本日の議論を終了する。各自、国際学園サミットに向けて準備が非常に忙しくなるが、よろしく頼む」
「はい!」
スピカ以外の役員たちが、一切の曇りのない、一糸乱れぬ見事な返答を響かせる。
会議が終わり、次々と立ち上がっていくエリートたちの背中を見上げながら、スピカはぽつんと席に残されていた。
泥のついた運動着のままで、国家のチェス盤を前に「たぬき」だの「オオカミ」だの、まるで童話レベルの幼い反論しかできなかった自分。その圧倒的な知識不足と、住む世界の地這いのような違いが、無性に悔しくて、情けなくて――スピカは、小さく拳を握りしめて唇を噛むのだった。
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