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第9話 貴族としての装い


 宝物庫を出て、再び屋敷の回廊を歩き始めた頃には、身体の内側に満ちていた熱もだいぶ落ち着いていた。

 けれど、落ち着いたのはあくまで感覚だけだ。変化そのものが消えたわけではない。むしろ、冷静になればなるほど、自分の中で何かが明確に変わったことを思い知らされる。


 歩くたびに身体が軽く、視界が妙に鮮明だった。

 壁に灯る明かりの揺らぎや、絨毯の織り目、遠くを通る使用人の足音まで、さっきまでより一段くっきりと認識できる。


 それに、自分の所作がやけに滑らかだった。

 いや、元から私はラウラくんとして優雅な身のこなしを目指して動いてはいた。

 けれど今は、その意識してやっていた優雅さが、ほとんど無意識の域にまで落ちてきている。

 肩の力を抜いて歩くだけで姿勢が整うし、視線を向けるだけで角度が妙に絵になる。鏡を見なくてもわかる。これはたぶん、種族特性とかそういうやつだ。


 ……いやあ、便利だな高位種族。

 そんなことを考えているうちに、私たちは再びあの玄関ホールへと戻ってきた。


 すると、先ほどと同じように整然と控えていた使用人たちの視線が、こちらへ向けられた瞬間にぴたりと止まった。

 止まった、というより――固まった、の方が近い。


「……え」

「……あの」

「ど、どちらの……」

「いえ、ですがバルタザール様とご一緒で――」

「まさか。え、あの方が……?」


 ざわ、と抑えた声の波が広がる。


 その反応を受けて、私は少しだけ首を傾げた。

 いや、もちろん理由はわかっている。ついさっきまでここを歩いていた初期装備の少し芋っぽいけど顔の良いインキュバス初心者プレイヤーが、いまや明らかに高位魔族の貴公子みたいな空気を纏って戻ってきたのだから、驚くなという方が無理だ。


 けれど、ここで自分から気まずそうにするのは違う。

 こういう時こそ、何事もなかったかのように立っているのが正解だ。


 私は柔らかく目元を緩め、あくまで穏やかに一礼した。


「戻りました」

 その一言で、空気がさらに一段ざわめく。


 さっきまでなら綺麗な顔立ちのプレイヤーだなくらいで済んでいたものが、今はもう声を発した時点でわかる。以前より一段深く、滑らかで、耳に残る。

 バルタザールが言っていたインキュバスの艶やかさに、高位の品が加わったというやつは、どうやら見た目だけの話ではないらしい。


 マルコスが、完全に言葉を失ったように私を見つめていた。

 その隣のラニアも、目を見開いたまま一度瞬きをして、それからようやく現実へ戻ってきたように口を開く。


「……これは」

「驚いたか」

 バルタザールが、隠す気ゼロの愉快そうな声音で言う。

「ええ、まあ、はい」

 マルコスが、執事としての体裁をどうにか保ちながら頷いた。

「正直に申し上げれば、想像以上でした」

「そうであろう、そうであろう」


 この人、完全に楽しんでるな。

 ラニアはその視線を私の顔から首元、肩先、そして全身へとゆっくり滑らせると、小さく息を呑んだ。


「……いけません」

「え?」


 思わず、というほどではないが、少しだけ素に近い声が出た。

 いけない?何が?


 ラニアは真剣な顔で私を見た。


「今のそのお姿で、その服はいけません」

「……服」

「服です」


 断定だった。

 私は一瞬、自分の格好を見下ろす。


 そこにあるのは、つい先ほどまで何の問題もないと思っていたプレイヤー初期装備だ。シンプルなシャツに、動きやすさ重視のパンツ、簡素な上着。実用性はある。序盤装備としては普通に悪くない。だが、今の私の姿と合わせて見たとき――


 うん、確かにめちゃくちゃ浮いてるな。


 高位魔族感マシマシの顔と雰囲気に対して、服だけがチュートリアルを出たばかりの初心者すぎる。

 言ってしまえば、完成された王子様フェイスに量販店の新生活セットを着せてる感じだ。いや、そこまで悪くはないんだけど、少なくとも屋敷の使用人たちが真顔で「いけません」と言い出す気持ちはわかる。


 マルコスも、一度こほんと咳払いしてから、控えめだがしかし完全に同意する声音で言った。


「……ラニアの意見に、私も賛成でございます」

「ですよね」

 ラニアが即答する。

「このお姿に、今の装いはあまりにももったいないです。いえ、もったいないどころではありません。これはもう、屋敷の品格に関わる問題です」

「そこまでですか?」

「そこまでです」


 すごい圧だった。

 バルタザールはそんな二人の様子を面白そうに眺めてから、あっさり頷いた。


「うむ。好きに整えてよいぞ」

「ありがとうございます、バルタザール様」

 ラニアが深々と頭を下げる。

「総力を挙げます」

「なんか不穏な言い方しませんでした?」


 私のその問いは、誰にも拾われなかった。

 次の瞬間には、数人の使用人が無駄のない手つきで私の周囲へ集まり、「こちらへ」「失礼いたします」「すぐに済みますので」と、実に丁寧かつ有無を言わせぬ流れで私をホール脇の一室へと案内していた。


 いや、待って。ちょっと待って。

 心の準備というものが――


 そう思う暇もなく通された部屋は、簡易の更衣室というには広すぎる空間だった。磨かれた鏡、整然と並ぶ衣装棚、布地や装飾品を載せた長机。

 どう見ても急場しのぎの着替え部屋ではない。むしろ日常的にここで衣装合わせが行われているのだろうとわかる設備だ。


 ラニアが一歩前へ出て、私をじっと見つめる。


「まず、色は青系で参りましょう」

「そうですね」

 いつの間にか部屋へ入ってきていたマルコスが頷く。

「銀を差すと、今のお姿の変化がより映えます」

「ですが銀を強くしすぎると冷たくなりますわ。ここは瞳と同じ琥珀で一箇所、温度を足したいところです」

「なるほど」

「あと肩です」

「肩」

「はい。肩に流れを作りましょう」


 何の相談をしているのかは正直半分もわからなかったが、二人とも完全に本気だった。


 私は部屋の中央に立たされながら、できるだけ落ち着いた顔を保っていた。

 ラウラくんはこういう場面で慌てない。服を整えられること自体はむしろ歓迎する側ですらある。そう、歓迎はしている。しているんだけど、想定よりだいぶ本格的なんだよな。


「ラウラ様、腕を少し」

「このくらいで?」

「ええ、ありがとうございます。……やはり肩のラインが美しいですね」

「今の種族の補正もあるんでしょうか」

「補正であれ何であれ、美しいことに変わりはありません」


 すごく断言するじゃん。


 そうして始まった着替えは、思ったよりずっと手早かった。

 手早いのに雑ではない。一つひとつの手つきが正確で、布の重なりも、襟の角度も、留め具の位置も、全部が最初から完成図を共有しているみたいに噛み合っていく。


 まず着せられたのは、深い青色のジャボブラウスだった。

 青といっても軽い色ではない。夜の底に沈んだ湖みたいな、深く落ち着いた青。その胸元には繊細なフリル――ジャボがふわりと重なり、布地そのものにも細かな刺繍が施されている。刺繍糸は光の角度でわずかに青銀へと揺らぎ、近くで見て初めてわかる程度の上品さで文様を描いていた。

 首元には、琥珀色の石を嵌めたブローチが留められる。

 その一粒の温かみが、青と銀に寄りがちな全体の印象を引き締めながら柔らかくしていた。


 次に、黒いスラックス。

 無駄のない細身の仕立てだが、ぴったり張り付くわけではなく、立った時の線がとにかく綺麗だ。脚の長さと体の重心が妙に整って見えるのは、たぶん服の力だけじゃなくて今の種族補正もあるんだろう。

 腰には青銀の金具がついたベルト。

 その上から、黒いジャケットが羽織られる。こちらも過剰な装飾はないのに、襟や袖、前立てのラインに沿って抑えた刺繍が入り、全体をぐっと引き締めていた。

 そして最後に。


「片マントを」

「はい」


 肩へ掛けられたのは、白い片マントだった。

 表は端正な白。けれど裏地には深い青が使われていて、動いたときにだけちらりと内側の色が覗く。肩口は金色の留め具――ブローチのような意匠で留められていて、白、青、金、黒の配色が全体の中で綺麗に噛み合っていた。


 ……待って、普通にめちゃくちゃ良くない?


 鏡の前に立たされて、私はそこでようやく全身を改めて見た。

 そこに映っていたのは、間違いなく私が作ったラウラくんで、でも最初のキャラクリ画面で想像していた理想よりさらに一段上の存在だった。


 深い青のジャボブラウスが褐色の肌とよく馴染み、琥珀のブローチが瞳の金と微妙に呼応している。黒いジャケットとスラックスが輪郭を引き締め、その上から白い片マントが乗ることで、気品と華やかさが一気に立ち上がる。


 しかも、ただ派手なだけじゃない。

 上品で、ちゃんと高位の家の子息に見える。

 青銀の金具と裏地が、今の私の種族進化後の色味とも妙に噛み合っていて、まるで最初からこの姿になることを前提に用意されていた衣装みたいだ。


 ……うん。私は鏡の前に立って、内心でかなり満足げに頷いた。

 いや、これは頷く。むしろ頷かないわけがない。


 ラウラくん、完成です。

 異国風王子様RP、現時点でほぼ理想到達では?


「……完璧です」

 ラニアが、ほう、と熱っぽい吐息を漏らした。

「ええ、完璧ですね」

 マルコスも腕を組んで頷いている。

「想定以上です」

「でしょう?」


 素で感想を言いそうになって、私はぎりぎりで表情だけを整える。


「お二人の見立てが良かったのですね」

「もちろんそれもございますが」

 ラニアが、少しだけ頬を染めたまま言う。

「素材が良すぎます」

「言い方が率直すぎませんか?」

「事実です」


 部屋の隅で控えていた若いメイドたちも、露骨に視線の置き場に困っていた。

 いや、困っているというか、顔が赤い。明らかに赤い。

 一人など、私が鏡越しにふと目を向けた瞬間、「ひゃ」とかすかに声を漏らしてから慌てて俯いてしまった。


 ……ああ、なるほど。

 これが【高位魅了】とやらの効果も多少入っているのか。

 いやでも、効果抜きにしても今のラウラくん普通に強いからな。客観的に見てもかなり仕上がってると思う。


 ちらりと横を見ると、マルコスがほとんどしてやったりみたいな顔で頷いていた。

 そのさらに向こうでは、いつの間にか様子を見に来ていたらしいバルタザールが、腕を組んで満足げに口元を上げている。


 男性陣、全員ちょっとしたり顔してるな……。


 いや、わかるけど。気持ちはわかるけどさ。私も鏡の中の自分を見つめながら、内心ではかなり同じ顔をしていた。正直、めちゃくちゃわかる。

 この仕上がりを見せられたら、そりゃあしたり顔にもなる。


「では」

 ラニアが一歩下がり、すっと手を差し出した。

「皆のところへ参りましょう。正式なお披露目に、これ以上ないお姿です」

「……ええ、そうですね」


 私は鏡の前で最後に一度だけ姿勢を整える。


 背筋を伸ばす。

 肩の力を抜く。

 口元にごく薄い笑みを乗せる。

 視線は柔らかく、それでいて落としすぎず。


 ――うん、完璧だ。

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