第10話 継承と新しい名
そうして再び玄関ホールへ戻ると、先ほど以上に空気が揺れた。
使用人たちの間に、今度こそ隠しきれない感嘆が広がっていく。
「……っ」
「なんて……お綺麗な……」
「いえ、綺麗というより……高貴で……」
「まるで最初から……」
そこへ、バルタザールが私の隣へ進み出た。
高い位置に立つだけで場を支配する男と、その隣に立たされる新しい養子。
絵面としては、たぶん相当それっぽいものになっていたと思う。
バルタザールはホール全体を見渡し、それから朗々と声を響かせた。
「聞け」
一言で、ざわめきが止む。
「今日より、こやつは我が子じゃ」
その言葉に、空気がぴんと張る。
バルタザールは、わずかに口元を上げた。
「名を改める」
そして、はっきりと告げた。
「今日からこやつの名は――ラウラリア・ラ・ヘル。わしの息子にして、ヘル家の次期跡継ぎじゃ」
その瞬間、玄関ホールは静寂に包まれた。
ほんの一拍、二拍。
そして次の瞬間、堰を切ったように拍手が湧き上がる。
「おお……!」
「ラウラリア様……!」
「ようございました!」
「本当に……!」
「おめでとうございます!」
拍手は決して下品に大きくはない。けれど、屋敷中の人間が本気で喜んでいるのがわかる熱があった。
ラウラリア・ラ・ヘル。
私はその名前を、頭の中でそっと繰り返す。
ラウラをベースにしつつ、家名にふさわしい響きへ引き上げられた感じがある。元の名前の面影は残っているのに、確かに一段格が上がったように聞こえる。
……うん、普通にいい名前だな。
いや、かなりいい。思った以上にしっくり来る。
私は一歩前へ出ると、拍手の中で静かに一礼した。
「皆さま」
声を発しただけで、また少しざわめきが混じる。
さっきよりも今の衣装と姿込みで見ると、印象がさらに強いのだろう。
「改めまして、ラウラリア・ラ・ヘルです。本日より、この家の一員として皆さまと共に歩むこととなりました」
私はホールを見渡しながら続ける。
「まだ何も知らぬ未熟な身ではありますが、バルタザール様――父上の名を汚さぬよう、誠心誠意励むつもりです。どうぞ今後とも、よろしくお願いいたします」
最後の一言と共に、もう一度優雅に頭を下げる。
すると拍手はさらに大きくなり、中には明らかに感極まって目元を押さえる使用人までいた。
いや、本当にどれだけ跡継ぎ問題切実だったの。
バルタザールは満足そうに何度か頷いたあと、改めて私を見た。
そして、その目が実に楽しそうに細められる。
「うむ、よい。名乗りも立ち居振る舞いも、すでに形になっておる」
「褒めていただけて光栄です」
「じゃが」
来たな、と思った。
このじゃがは絶対に何か来るやつだ。ジャガイモとかじゃなくて。
そして案の定、バルタザールは実にあっさりと、とんでもないことを言った。
「教育しようか」
ホールの空気が、一瞬だけ固まった。私も固まった。
いや、表情は崩さない。崩さないけど、内心では完全に「来た!!」ってなっていた。
そうだよね。そうなるよね。
跡継ぎにした、名前を与えた、衣装も整えた。
じゃあ次は何かって言ったら、そりゃ貴族の教養を身に着けるための教育だよね。むしろ自然な流れですらある。
でも、自然な流れだからこそ逃げられないタイプのやつだこれ。
「……教育、でございますか」
私はできるだけ穏やかに、確認するように問い返した。
「うむ」
バルタザールは実にいい笑顔で頷いた。
「わしの息子として、跡継ぎとして、最低限必要なことを叩き込まねばならぬ。礼儀作法、家の歴史、街の構造、内政、権力関係、対人、戦い方、魔術、見極める目、騙されぬ頭、必要なものは多いぞ」
「多いですね?」
「多いな」
「笑顔で言うんだ」
少しだけ素が漏れたがバルタザールは気にした様子もなく、むしろ楽しそうだった。
「安心せい。おぬしは筋が良い。すぐに覚える」
「それは期待されていますね」
「期待しておるとも」
「ちなみに、最低限とはどの程度を指しているのでしょうか」
「そうさな」
バルタザールは本気で考えるように顎に手を当てる。
「まずは、一人でこの屋敷を歩いても舐められぬ程度。次に、街の有力者どもを前にしても腹の内を見せぬ程度。あとはそうじゃな、わしが数日席を外しても勝手に潰れぬ程度には」
「思っていたよりだいぶ重いですね?」
「跡継ぎゆえな」
「跡継ぎって大変ですね……」
「いまさらか?」
「いまさらです」
ホールのあちこちから、くすりと小さな笑いが漏れた。
どうやら使用人たちにはこのやり取りがそこそこ好評らしい。
マルコスが一歩前へ出て、静かに口を開く。
「教育係の配分については、後ほどこちらでも調整いたしましょう。礼法や社交については私が、屋敷内の実務や使用人の統率についてはラニアが担当可能です」
「街の経理や物資管理については、書庫の資料も併せて覚えていただく必要がありますね」
ラニアがさらりと追加する。
「また、日常的な服装規範、食事作法、客人対応、指示の出し方なども基礎のうちに入ります」
「待ってください、今の基礎なんですか?」
「はい」「基礎です」
マルコスとラニアが揃って頷いた。
重い、想像以上に本格的だ。
いや、でも考えてみれば当然でもある。私はこの家の跡継ぎで、しかも街の次期領主候補なのだ。ロールプレイのつもりで優雅な仕草を真似ていたのとは訳が違う。本物として通用する必要がある。
……うわぁ、面白そう。
大変そう、の前にその感想が先に来てしまうあたり、たぶん私はだいぶこの状況を楽しんでいる。
だって、これってつまり。
異世界貴族の後継教育イベントだ。しかも、ロールプレイ好きの私に正式な王子様教育をぶつけてくるわけでしょ?
そんなのしんどそうだけど美味しすぎる。
私は軽く息を整えると、バルタザールを見上げた。
「……承知いたしました」
「ほう?」
「ヘル家の名を継ぐ以上、相応の教えを受けるのは当然のこと。未熟な私にどこまで務まるかはわかりませんが――」
そこで私はごくわずかに笑みを深くする。
「せっかくですから、父上の期待を上回ってみせましょう」
バルタザールの目が愉快そうに細められた。
「くく……」
喉の奥で笑う。
「言うではないか」
「口だけで終わらせるつもりはありません」
「よい。実によい」
その横で、マルコスがほんの僅かに口元を緩め、ラニアはどこか満足げに頷いていた。
若い使用人たちに至っては、また少し顔が赤い。そんなに今の台詞、刺さった?
……いや、でも自分で言ってて少し良かったな今の。
するとバルタザールは腕を組み、改めて場を見渡した。
「では決まりじゃ」
声がホールへ響く。
「今日より、ラウラリアの教育を始める。手を抜くでないぞ」
「はっ」
マルコスとラニアが揃って頭を下げる。
「無論ですとも」
「徹底して仕込みます」
徹底して、って言ったな今。
私は内心で小さく息を吐きつつも、顔には穏やかな笑みを保った。
……でも、まあいい。どうせやるなら徹底的な方がいい。
ここで半端に覚えても意味がないし、何より今の私はこのルートの先を見たい。領主の養子となり、家名を継ぎ、高位種族へ進化し、屋敷中の期待を一身に受けて、そこから始まる教育イベント。
普通のVRMMOの始まり方じゃない。
でも、普通じゃないからこそ面白い。
「まずは本日、この後の予定を組みましょう」
マルコスが手帳のようなものを取り出しながら言う。
「時間は有限です。礼法、挨拶、屋敷の見取り、主要人物の把握、最低限の歴史――」
「待って、今日からですか?」
「今日からです」「今日からでございます」
マルコスとラニアがまた揃った。
「よいではないか」
バルタザールが楽しそうに言う。
「善は急げじゃ」
「父上、その言葉好きなんですか?」
「好きじゃが?」
好きなんだ。
思わず笑いそうになりながら、私は肩の片マントを軽く整える。布がさらりと揺れ、青の裏地がちらりと見えた。
全部が急すぎて、全部がとんでもなくて、でもだからこそ胸が高鳴る。
「……わかりました」
私は静かに頷いた。
「では、本日よりご指導よろしくお願いいたします」
「うむ」
バルタザールが満足げに頷く。
「よい返事じゃ、ラウラリア」
「はい、父上」
そう返した瞬間、再びバルタザールが少し嬉しそうな顔をしたのを、私は見逃さなかった。……この人、父上呼びほんとに好きだな。
その事実に少しだけ可笑しさを覚えながらも、私は屋敷の中へさらに足を踏み出す。
今日から始まるのは、ただのゲーム攻略じゃない。
街の中枢に食い込み、高貴なる名を背負い、その期待に応えるための学びの日々だ。
どんなことを教え込まれるのか。どれほど厳しいのか。
そしてこの屋敷と、この街、ヘルの中に、どれだけ面倒で美味しくて危ないものが眠っているのか。
まだ何も知らない。
でも――だからこそ、楽しみだった。
ラウラリア・ラ・ヘルとしての最初の一日は、どうやら想像以上に忙しく、そして面白いものになりそうだった。




