第6話 屋敷の中と反応
屋敷の中へ足を踏み入れた瞬間、私は思わずほんのわずかに目を見開いていた。
いや、見開いたのは一瞬だけだ。すぐに、何事もなかったかのように柔らかな笑みを浮かべ直した。ラウラくんはこういう場で露骨にきょろきょろしたりしない。
あくまで余裕を持って、当然のように空間を受け止める。そういう男だ。
……とはいえ、内心で驚くなというのは無理がある。だって、広がっていたのは想像していた領主の屋敷を軽く飛び越えるような光景だったのだから。
高い天井。見上げた先には、黒金を基調とした意匠が幾重にも重なった豪奢な装飾が走っていて、壁には深い赤と鈍い金で縁取られた燭台が等間隔に灯っている。
床には磨き抜かれた黒曜石のような石材が使われ、その中央には明らかに相当な値打ち物であろう深紅の絨毯が入口から奥へ向かって真っ直ぐに伸びている。
そして何より圧倒的だったのは、その空間に整然と並ぶ人影だ。
執事服に身を包んだ男たち。メイド服を纏った女たち。
年若い者もいれば、落ち着いた年嵩の者もいるが、立ち姿に無駄がない。玄関ホールの左右に一列ずつ、こちらを迎えるようにずらりと並び、その一人ひとりが、ただ立っているだけなのにしっかりと訓練されていることが伝わってくる。
……いや、ちょっと待って。規模感おかしくない?
領主の屋敷だから豪華なのはわかる。使用人が多いのもわかる。
でも、初期スポーンの街の路地裏イベントの行き着く先がこれなのはやっぱりどう考えてもおかしい。
普通もっとこう、裏の有力者とか、隠しクエストの起点とか、そういうレベルじゃない?なんでいきなり大貴族の本邸みたいなところに連れてこられてるの?
そんな私の内心をよそに、屋敷の空気は、バルタザールが姿を見せた瞬間にかすかに動いた。
「おかえりなさいませ、バルタザール様」
正面に立つ一人の男が、深く頭を垂れながらそう告げた。
年齢は見た目だけで言えば四十代後半から五十代前半くらいだろうか。背筋は真っ直ぐに伸び、白髪交じりの髪をきっちりと後ろへ撫でつけたその姿はいかにも執事という言葉が似合う。
その男は頭を上げると、自然な所作で私に視線を移した。
視線自体は失礼のない穏やかなものだった。けれどその声には、隠しきれない――というより隠す気もないような期待が混じっている。
「……失礼ながら、そちらのお方は?」
その問いに対し、バルタザールは一切もったいぶることなく、実にあっさりと、とんでもない答えを返した。
「わしの息子になる男じゃ」
玄関ホールの空気が、一瞬止まった。
次いで、ざわ、と小さなどよめきが広がる。
「……おお」
「まさか……!」
「本当に……?」
「バルタザール様が、ついに……!」
左右に並んでいた使用人たちの表情が、一斉に変わった。
訓練された従者らしく大声を上げたりはしない。けれど、その顔にははっきりとした驚きと、信じられないものを見た時の高揚と、そして何より、心の底から安堵したような色が浮かんでいた。
正面の執事服の男など、普段は滅多に崩れなさそうな整った表情を、もはや隠し切れない勢いで緩めている。
「……やっと、ですか」
その声は震えていた。
「やっと……やっとでございますか、バルタザール様……!」
その隣に控えていた、落ち着いた美しさを持つ女性が、胸元でそっと手を組み、感極まったように目を潤ませている。
「本当に……本当に、ようございました……」
いや、反応が重い重い。
なんなのこの屋敷。領主に跡継ぎがいないことで全員が限界を迎えてたの?どれだけ深刻だったの?さっきまで周囲に急かされていたって話は聞いていたけど、想像していた以上に切実だったんだけど。
すると、感極まったらしい使用人たちの中の何人かが、こちらに向かって一歩進み出るような気配を見せた。
「ありがとうございます!」
「よくぞ……よくぞ来てくださいました……!」
「どうか末永く……!」
「本当にありがとうございます……!」
感謝の矛先が完全に私へ向いている。
いや、まだ受諾して数分だし、しかも私ただ路地裏で倒れてる領主拾っただけなんだけど。そんな救世主みたいな扱いされることある?でもこの感じ、本当に困ってたんだな……。
バルタザールはそんな周囲の反応を、さも当然のものとして受け流しながら、低く喉の奥で笑った。
「そう騒ぐでない。まだこれからやることは多い」
「ですが、バルタザール様……!」
「わかっておる。じゃが、まずは落ち着け」
その一声だけで場はすぐに静まった。
私はそんなやり取りを見ながら、柔らかな笑みを保ったまま、静かに一歩前へ出る。そして、自然に胸元へ手を当て、軽く一礼した。
「温かく迎えていただき、光栄です。私はラウラと申します」
使用人たちの視線が集まる。
「まだ未熟な身ではございますが、これよりお世話になる以上、皆さまと良き関係を築ければと思っております。どうぞ、よろしくお願いいたします」
声色は穏やかに。響きは柔らかく。けれど曖昧にはせず、聞く者にきちんと届くように。
うん、今のはかなり良い感じでは?
この手の場面、第一印象は本当に大事だ。屋敷に勤める使用人たちに新しい跡継ぎとしてどう見られるかで、後々の情報収集難易度も立ち回りもだいぶ変わる。
ここで無礼にも弱腰にも見せない、そのうえで敵意を持たれないラインを取るのが重要だ。
正面の執事服の男が、深く一礼する。
「ご丁寧にありがとうございます、ラウラ様。私はこの屋敷で執事長を務めております、マルコスと申します」
続いて、その隣の女性も優雅に頭を垂れた。
「同じく、この屋敷でメイド長を務めております、ラニアでございます。以後、お見知りおきを」
マルコス、ラニア。なるほど、この二人が実質的な屋敷の中核か。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。……ああ、そうだ。先に一つ、お伝えしておくべきことがございます」
私は少しだけ言葉を区切ってから、二人を見る。
「私は、いわゆるプレイヤーです。皆さまとは少し出自が異なる存在になるかと思いますが、それでも問題はありませんか?」
聞いた瞬間、マルコスとラニアがわずかに顔を見合わせた。
「ぷれいやー……?」
「……ああ」
先に理解したのはラニアの方だった。彼女はふっと表情をやわらげると、納得したように頷く。
「異界人、ということですね」
「そう、それです」
「なるほど。異界人の方でしたか」
マルコスもすぐに頷き、特に問題視するでもなく、むしろ興味深そうに私を見た。
「確かに、どこか空気が違うと思っておりました。ですが、それが何か支障になることはございません」
「ええ。この街にも異界人はおりますし、近ごろは特に珍しい存在ではありませんから」
へぇ。私は内心で少しだけ感心する。
プレイヤーという言葉は通じなくても、異界人として認識されるのか。しかも、かなり受容されている。
つまりこの世界、少なくともNPC側はプレイヤーを単なるゲーム上の不審者としてではなく、最初から世界設定の中に組み込まれた存在として見ているってことだ。
……これ、思ってたより世界観の作り込みがえぐいな。
「そうでしたか。それを聞いて安心いたしました」
「ご心配には及びません、ラウラ様」
「バルタザール様がお選びになった方であれば、なおのこと」
マルコスのその言葉に、私はわずかに目を細める。
なるほど、この屋敷においては異界人かどうかよりバルタザールに選ばれたかどうかの方が遥かに重要らしい。これはありがたいような、ちょっと怖いような。
バルタザールはそんな会話を聞きながら、満足そうに頷いた。
「うむ。無駄な説明が省けてよい」
「無駄って言っちゃうんだ」
素が出かけたので、私はすぐに軽く咳払いで誤魔化す。
「……失礼。ですが、話が早いのは助かります」
バルタザールの口元が、わずかに楽しげに歪んだ。
「その調子でよい」
「お気に召したようで何よりです」
「くく……」
本当に私の返しが好きだな、この人。
それからバルタザールは、マルコスとラニアに向き直る。
「こやつを正式にヘル家の一員とする。準備を整えよ」
「はっ」
「承知いたしました」
その返答は淀みがない。つまり、こういう正式に家の者を迎える手続きに類するもの自体は、ちゃんと手順として存在しているらしい。
使用人たちの反応を見る限り、ずっと待ち望まれていただけで、完全に想定外の出来事ではなかったということか。
そう考えているうちに、バルタザールは私へ視線を戻した。
「来い、ラウラ」
「はい」
私は素直に頷き、その後に続く。
床を踏むたびに、赤い絨毯がわずかに靴音を吸い込む。
高い窓から差し込む薄明かりが、磨かれた金属の縁やガラスの面を鈍く反射して、空間全体に沈んだ華やかさを与えていた。
……うん、やっぱり普通の屋敷じゃない。
領主の屋敷だから大きいのは当然、と片付けるには規模も格式もありすぎる。
やがて私たちは、屋敷のかなり奥まった場所までやってきた。
そこでバルタザールが立ち止まった先にあったのは、他の扉とは明らかに違う一際重厚な扉だった。
黒い金属と石材を組み合わせたような造りで、表面には複雑な紋様が浮かび上がっている。中央には大きな錠前……というより、魔法的な封印具に近い何かが嵌め込まれていて、見るからにただの部屋ではないとわかる。
「ここは……?」
「宝物庫じゃ」
バルタザールは懐から先ほどの水晶付きのネックレスとはまた別の鍵状の道具を取り出し、それを封印具へ軽く触れさせた。低い音が響き、紋様が一筋ずつ淡く光っていく。
次いで、重々しい音とともに扉がゆっくりと開いた。




