第52話 夢見る茨の庭
次に目を開けた時、花の宿の天井を見ていた。
いや、正確には天井というより、巨大な花弁の内側に浮かぶ淡い光の粒を見ていた。
身体を起こすと、花のベッドが名残惜しそうに少しだけ沈み、枕が「おはよ……」と言いかけて、私と目が合った瞬間に慌てて寝たふりをした。
「おはようございます」
私が小さく声をかけると、枕はほんの少しだけ震えた。
「……ら」
「小声なら許します」
「ら~……」
許可制で歌う枕、ちょっと可愛い。
だが、慣れてはいけない。現実の枕は歌わない。たぶん。いや、現実の枕が突然歌い始めたら私は普通に怖いので、そこはしっかり区別しておきたい。
ベッドから降り、身支度を整える。
ラウラくんの身体は今日も軽い。
昨日の星採りの疲れは残っていないが、心の奥にはまだ夜の湖の静けさが残っている。静かな本音星、守られた星、愛を聞いた星、笑い星、そして静かなひみつ星。あれらを思い出すと、どうにも胸の中が少しだけざわつく。
特に桃色の星の条件については、考えないようにしているのに、ふとした瞬間に思い出してしまう。
イベント条件だ。あれはイベント条件。
愛の言葉を聞きたがっていたのは星であって、カイではない。私は星の条件を処理しただけであり、あの言葉にそれ以上の意味はない。
いや、親愛とか友情とかの意味はあるかも?
扉を開けると、ちょうど隣室からルーザが出てくるところだった。
「おはようございます、ラウラリア様」
「おはようございます、ルーザ。よく眠れましたか?」
「はい。枕が寝たふりをしていたため、昨夜は比較的静かでした」
「比較対象が妖精の枕なの、だいぶ慣れてきましたね」
「慣れたくはありません」
ルーザはいつも通り冷静だったが、私を見る目がほんの少しだけ優しかった。
いや、優しいというより、昨日の一連の出来事を踏まえて「今日こそ暴走しないでください」という願いが込められている気がする。願いというより祈りかもしれない。申し訳ない。
少し遅れてカイも部屋から出てきた。水色の髪がわずかに乱れていて、翼も少しだけ眠そうに下がっている。それなのに、目だけは朝から輝いていた。
「夢だな!」
「第一声がそれですか」
「だって夢見る茨の庭だぞ?名前からして絶対変だろ。絶対面白いだろ」
「変で面白いことは否定しませんが、危険でもあると思います」
「それもそう!」
「そこは楽しそうに言うところではありません」
ルーザが即座に釘を刺す。
カイは「はい」と素直に頷いたが、たぶん五分後にはまた同じテンションになっている。彼の好奇心は再生が早い。
いや、犬扱いはしない。本人が嫌がるので。とはいえ、内心ではかなり犬である。
外に出ると、市場の妖精たちは私たちを見つけるなり騒ぎ始めた。
「青い王子起きたー!」
「黒いお姉さん、今日もかたいー!」
「水色の犬、夢見るー?」
「犬じゃない!」
ぽん。
《びっくりコインを獲得しました》
「朝の挨拶になっていますね」
「嫌な文化が定着してる!」
「ですが、収入にはなっています」
「ルーザさんまでそういうこと言う!?」
カイが抗議するが、もちろんコインは拾う。
妖精たちはそれを見て大喜びしている。びっくりコインは、もはやカイと妖精たちの間に成立した一種の儀礼なのかもしれない。
本人の尊厳を犠牲にした朝の儀礼。嫌すぎる。
笑う木の根元へ向かうと、昨日現れた木の実の扉がまだそこにあった。
葉と光と夜を重ねたような曖昧な門は、今日は少しだけ夢色を帯びている。夢色とは何かと言われると困るが、見ればわかる。淡い金と薄紫と、眠る前にまぶたの裏で揺れるような色だ。
笑う木は、私たちを待っていたように目を開いた。
「よく眠ったかい」
「枕が寝たふりをしていたので、比較的」
「それはよかった」
「よかったんですか」
「枕も仕事をしたんだよ」
「寝たふりが仕事になるんですね」
「妖精の宿だからねぇ」
便利な言葉である。もう突っ込んでも仕方ない。
「夢見る茨の庭へ行くんだねぇ」
「そのつもりです。ただ、条件をもう少し確認してから」
「慎重だねぇ。昨日より少し賢くなった」
「昨日もそこそこ慎重だったつもりですが」
「昨日は星を採りに行く目をしていたよ」
「否定できません」
笑う木はけらけら笑った。枝が揺れ、吊るされた小さな看板が寝ぼけたように「夢」「茨」「あと五分」と表示を変える。
あと五分は何だ。道が寝ぼけるという話は本当らしい。
「夢見る茨の庭は、夢を持つ客だけが入れる。けれど、夢を全部渡してはいけない。ほんの少しだけ、庭に見せるんだ」
「見せるだけですか?」
「そう。渡すのではなく、見せる。けれど、嘘の夢は茨が嫌う。重すぎる夢は絡まる。軽すぎる夢は飛んでいく」
「ちょうどいい夢、ですね」
「そうそう」
笑う木は満足そうに頷いた。
私は少し考える。夢。ラウラリアとしての夢。麗としての夢。
魔王を目指すというゲーム内の大目的。
世界の仕組みを見たいという好奇心。
赤の塔を育てたいという経営欲。
父上やレア、カイ、ルーザと関わる中で生まれた、この世界にもっと食い込みたいという気持ち。
どれを見せるべきか。
全部見せるのは危険だ。
妖精の国では、言葉も感情も形を持つ。夢などという柔らかくて危ういものを丸ごと見せたら、何に絡め取られるかわからない。
「一言でいいのですか?」
「一言でも、一息でも、一歩でもいい。夢は言葉だけじゃないからねぇ」
「では、私は」
私は扉を見た。
「この世界の仕組みを、もっと見たい」
言った瞬間、扉の周囲の薄紫の線がふわりと揺れた。絡まることはない。拒まれてもいない。どうやら、ちょうどよかったらしい。
カイは少し考えてから、胸を張った。
「俺は、面白い場所を、面白い奴と見て回りたい」
水色の線が扉へ伸び、星のように跳ねた。笑う木が「素直だねぇ」と笑う。
「重くない?」
カイが少し不安そうに聞く。
「軽いけど、飛んでいかない。いい夢だ」
「よし!」
カイは嬉しそうに拳を握った。やっぱり犬っぽい。言わないが。
最後にルーザが一歩前へ出た。
「私は、守るべきものを最後まで守りたい」
その言葉は静かだった。けれど、強い。ルーザらしい、まっすぐな夢だった。
しかし、扉の茨がほんの少しだけ揺れた。
《守るだけ?》
文字が浮かんだ。
ルーザの表情がわずかに変わる。ほんの少しだけ、目が細くなった。
「……今は、それで十分です」
《ほんとう?》
「はい」
《ほんとうなら、通っていい》
茨が静かにほどけた。
私はそのやり取りを横で見ながら、少しだけ気になった。
守るだけ?という問い。ルーザの夢は、それだけではないのかもしれない。
扉がゆっくり開いた。
その先には、茨の庭が広がっていた。
美しい、というより、眠っている場所だった。
白と薄紫の茨がゆるやかに絡み合い、ところどころに半透明の花が咲いている。
道はある。だが、石畳の道ではない。草と茨と夢の欠片が混ざったような道がふらふらと奥へ続いている。
しかも、その道が時々「あと五分……」と小さく呟く。
「道が寝ぼけていますね」
「本当に寝ぼけてるな」
「踏み外さないでください。道が寝返りを打つ可能性があります」
「道が寝返り」
「妖精の国ですので」
ルーザの便利な言葉の使い方が板についてきた気がする。
入口のすぐ横には、羊がいた。
ふわふわの白い毛に、小さな金色の角。目は半分閉じていて、首から門番札を下げている。札には《夢見る茨の庭・門番》と書いてあった。門番が寝落ち寸前である。
「いらっしゃいませぇ……夢はありますかぁ……」
「あります」
「ではぁ……寝言でどうぞぉ……」
「起きてください」
ルーザが即座に言った。
羊は「むにゃ」と鳴いて、少しだけ目を開けた。
「起きてますぅ……これは勤務中の仮眠ですぅ……」
「勤務中の仮眠は起きているとは言いません」
「夢の庭ではぁ……寝てても仕事ですぅ……」
「反論しにくいですね」
私は思わず小さく笑った。門番の羊は眠そうに私たちを見回し、それからカイを見て首を傾げた。
「水色の夢ですねぇ……」
「犬って言わないだけ偉いな」
「犬ですかぁ……?」
「違う!」
ぽん。
《びっくりコインを獲得しました》
「ここでも出るんですねぇ……」
羊が眠そうに感心した。
「便利そうな人ですぅ……」
「便利扱いが広がってる!」
カイが頭を抱える。妖精の国の住人たちは、カイのびっくりコイン生成能力を完全に便利機能として認識し始めている。本人には悪いが、もう止められない気がする。
門番羊はあくびをしながら、茨の奥を示した。
「この庭を抜けるとぉ……夢のお茶席がありますぅ……でもぉ……」
「でも?」
「今日はぁ……庭を抜ける前にぃ……王さまが起きてるかもしれませんぅ……」
私は一瞬、言葉を失った。
「王さま、とは」
「妖精王ですぅ……たまに昼寝してぇ……たまに夜更かししてぇ……たまに呼んでない客を見るんですぅ……」
カイが目を輝かせた。
「妖精王!?」
「声を抑えてください」
ルーザが即座に制止する。だが、私の心臓も少しだけ早くなった。
嬉しいような、不安なような。いや、正直に言えば、かなり楽しみだ。
「ラウラリア様」
ルーザが私を見た。
「今、楽しみだと思いましたね」
「少し」
「少しではない顔でした」
「では、かなり」
「正直でよろしいです。ただし、警戒してください」
「もちろんです」
門番羊は眠そうに頷いた。
「王さまはぁ……怖くないですよぉ……」
「それは安心していい言葉ですか?」
「怖くないけどぉ……面倒ですぅ……」
「でしょうね」
私は妙に納得した。
妖精王が面倒でないはずがない。妖精の国の住人たちがこれだけ面倒なのだ。その頂点にいる存在が素直でわかりやすいわけがない。
「では、どう進めば?」
ルーザが問う。
羊は足元の道を見下ろした。道はまだ「あと五分」と言っている。
「寝ぼけ道を起こしすぎずに進んでくださいぃ……夢を踏むとぉ……夢が起きますぅ……」
「夢が起きるとどうなりますか?」
「怒る夢もありますぅ……泣く夢もありますぅ……抱きつく夢もありますぅ……」
「最後が嫌ですね」
「カイさん、抱きつく夢に突っ込まないでください」
「まだ何も言ってない!」
「顔に出ていました」
「俺そんなにわかりやすい!?」
「はい」
ぽん。
「もう!」
門番羊はそのびっくりコインを見て、半分寝たまま拍手のように前足を動かした。
「よい夢ですぅ……」
「びっくりは夢なんですか?」
「驚きはぁ……起きてる時に見る夢みたいなものですぅ……」
「ちょっと上手いことを言った気がしますね」
「寝言ですぅ……」
羊はそのまま少し舟を漕ぎ始めた。門番として大丈夫なのか。いや、夢見る茨の庭ではこれでいいのかもしれない。
私たちは互いに顔を見合わせ、それから慎重に庭の中へ足を踏み入れた。
道は柔らかかった。踏むと少し沈み、足を離すとふわりと戻る。
草の下に綿のようなものが詰まっているのか、それとも夢そのものが柔らかいのか。
左右の茨は白く、棘はあるが鋭さは薄い。ただし、触れたらただでは済まない気配がある。痛いのではなく、何かを見せられそうな感じだ。
少し進むと、最初の分岐が現れた。
道は五つに分かれている。
一つ目は、王冠が浮かぶ道。
二つ目は、書庫の匂いがする道。
三つ目は、小さな犬小屋が見える道。
四つ目は、幕が揺れる劇場の道。
五つ目は、剣が地面に刺さった道。
カイが三つ目を見た瞬間、固まった。
「……なあ」
「はい」
「あれ、俺用みたいに置いてない?」
「偶然では?」
「絶対偶然じゃないだろ!」
ぽん。
《びっくりコインを獲得しました》
夢見る茨の庭でもカイのびっくりは健在だった。道の奥の犬小屋が、ぽっと明かりを灯した。反応するな。いや、反応したのは道か。
「水色の夢が呼ばれていますね」
「ルーザさんまで!?」
「ですが、犬小屋の道が必ずしも犬を意味するとは限りません」
ルーザは冷静に言った。
「小屋は居場所、犬は忠誠や相棒を意味する場合があります。カイさんの夢が『面白い場所を面白い相手と見て回る』であるなら、相棒や同行者の象徴として反応している可能性があります」
「……急に真面目な解釈をされると反応に困る」
「真面目ですので」
「俺、犬小屋に真面目に呼ばれてるの?」
「たぶん」
私は月読のレンズを取り出し、五つの道を見た。
王冠の道は金色の線が強い。ただ、少し重い。進めば権力や支配に関する夢を問われる気がする。ラウラリア・ラ・ヘルとしては気になるが、今踏み込むとかなり面倒そうだ。
書庫の道は青白く静かだ。知識や記録に関係している。私向きではある。
犬小屋の道は水色と金色が混ざっていた。確かにカイに反応しているが、それだけではない。相棒、信頼、帰る場所。そういう気配がある。
劇場の道は桃色と紫。演じること、見られること、役割。私にもカイにもルーザにも刺さりそうで危険だ。
騎士剣の道は黒と銀。明らかにルーザに近い。守ること、誓い、責務。ただし、その奥に薄い桃色の線が一本だけ混ざっていたので、私はそっとレンズを外した。見なかったことにする。ひみつは言わないほど近づく。
「どうします?」
カイが聞いた。
「本来なら順番に確認したいところですが、夢の庭で全部触るのは危険そうですね」
「では、一つ選ぶべきです」
ルーザが頷く。
その時、星明かりの羅針盤がインベントリの中で勝手に震えた。
私はそれを取り出す。中央の星がくるくる回り、最初はカイを指し、次に私を指し、最後に犬小屋の道を指した。
「……犬小屋ですね」
「だから俺用じゃん!」
「相棒の道かもしれません」
「犬小屋なのに?」
「犬小屋なのに」
ルーザが少し考えてから言った。
「羅針盤が示すなら、最も面白い事象が起こる道なのでしょう。ただし、必ず安全とは限りません」
「安全ではないでしょうね」
「でも行くんだろ?」
カイが言う。私は少しだけ笑った。
「行きます。ここまで来て羅針盤が示した道を無視するのはもったいないですから」
「ラウラリア様、もったいないで危険へ進まないでください」
「気をつけます」
私たちは犬小屋の道へ向かった。




