第50話 得たもの
黒い包みは、手のひらに乗せると驚くほど軽かった。
中に何かが入っている感触は確かにある。
けれど、重さというより、そこに夜が少しだけ畳まれているような、不思議な気配だった。
黒い布は柔らかく、表面には銀色の糸で小さな星の模様が刺繍されている。
「もっと夜に、ですか」
私は包みをインベントリへしまいながら、店主妖精を見た。
「今、十分に夜だと思うのですが」
「まだ浅い」
「夜に浅い深いがあるのはわかりますが、基準は?」
「星が黙ったら」
「星、喋るんですか?」
「さっき喋ってた」
「条件文のことですか」
「たぶん」
店主妖精は眠そうに頷いた。
説明としては相変わらず曖昧だが、たぶんこれ以上聞いても似たような答えしか返ってこないだろう。
星が黙る時間、もっと夜。
今すぐ開けるべきではないということだけは確かだ。妖精の国で「今ではない」と言われたものを今開ける勇気はない。勇気というより無謀である。
カイは黒い包みをじっと見ていた。
「開けないのか?」
「開けません」
「ちょっとだけ」
「開けません」
「端だけ」
「開けません」
「見るだけ」
「開けません」
「ラウラ、意志が強いな」
「カイが弱すぎるんです」
「否定できない!」
ぽん、と音がして、びっくりコインが出た。
もう本当に、カイの驚きは妖精の国の公共資源になっている気がする。
本人は不満そうだが、しっかり拾っているので説得力はあまりない。店主妖精も、カイのコイン生成を見て「便利」と小さく呟いた。便利扱いされている。私もそう思う。
「それで」
私は気を取り直し、手の中の《月読のレンズ》を見下ろした。
薄い銀の縁を持つ片眼鏡。
レンズ部分は透明に見えるのに、角度を変えると薄い月光が揺れる。
冷たいのに、手に馴染む。明らかにただの視覚補助具ではない。隠れた道、嘘の輪郭、夜にだけ開くものを少し見る。
「試しても?」
「いいよ」
店主妖精は頬杖をついたまま頷いた。
「でも、見すぎると目が夜になる」
「目が夜になるとは?」
「暗いところが少し好きになる」
「……それは、重い副作用ですか?」
「好きになるだけ」
「微妙に怖いですね」
「夜は悪くないよ」
「それはそうですが」
私は一度ルーザを見た。ルーザは少し考えた後、短く頷いた。
「短時間であれば問題ないかと。ただし、異常があればすぐ外してください」
「わかりました」
私はレンズを右目に当てる。
その瞬間、世界が少し変わった。
黒い天幕の店内が、ただ暗いのではなく、幾層もの夜を重ねた場所として見えた。棚に並んだ天体系の道具たちは、それぞれ薄い光の輪郭を持っている。
月読のレンズ越しに見ると、《星明かりの羅針盤》の中を回っている星はただの飾りではなく、小さく「どっち?」「こっち?」「あっち?」と迷っているような線を引いていたし、《夜空の小瓶》の中には、本当に小さな夜が閉じ込められていて、その奥に寝ぼけた雲のようなものが浮いていた。
そして、《欠け月の鍵》の周囲には、細い銀色の線がいくつも伸びていた。
鍵が開けるものの候補だろうか。
箱、扉、封印、閉じた花、眠った本、誰かの口。最後の候補がかなり不穏だったので、私は見なかったことにした。
誰かの口を少しだけ開ける鍵、使い方を間違えると大事故である。
「……これは、強いですね」
「ラウラリア様、顔が完全に買う側です」
「はい」
「隠してください」
「無理かもしれません」
ルーザの指摘に、私は素直に答えた。
見えないものが見えるというのは、それだけで情報戦において圧倒的に強い。
しかも完全に暴くのではなく、「少しだけ見る」というのが妖精らしくて良い。強すぎず、しかし使いどころ次第で化ける。こういうアイテムは大好きだ。困ったことに。
試しにカイを見る。
すると、カイの周囲に、淡い水色の輪郭と一緒に、妙な小さな文字がちらちら浮いていた。
《驚きやすい》
《でも意外と考えている》
《犬ではないと言い張る》
《踊れる》
《水色》
「……」
「何だよ、ラウラ。何が見えた?」
「いえ」
「絶対何か見えただろ」
「犬ではないと言い張る、と」
「言い張るじゃなくて事実!!」
ぽん。
《びっくりコインを獲得しました》
月読のレンズ越しに見ると、びっくりコインが出る瞬間、カイの周囲の水色の線がぴょんと跳ねるのが見えた。
これは面白い。コイン発生の予兆まで見えるのかもしれない。
いや、カイがわかりやすすぎるだけかもしれないが。
次にルーザを見る。
そこには、黒と銀の整った輪郭があった。魔力の流れが無駄なくまとまり、姿勢の線も綺麗だ。だが、その外側に小さく、ものすごく小さく、桃色の文字が浮いていた。
《見ないふり》
《見ています》
《冷静》
《でも少し見ています》
私は無言でレンズを外した。
「ラウラリア様?」
「何でもありません」
「何か見えましたか」
「何でもありません」
「本当に?」
「ひみつです」
ルーザは一瞬だけ黙った。耳がほんの少し赤くなった気がした。
月読のレンズがなくても見える。私はこれ以上踏み込まない。ひみつは言わないほど近づく。とても便利な言葉だ。
カイは首を傾げていたが、たぶん深くはわかっていない。わからなくていい。わかったらルーザがとても困る。
「それで、割引はどうする?」
カイが棚を見ながら言った。
「月読のレンズはもらった。星を余分に採ったから割引もあるんだろ?」
「あるよ」
店主妖精が頷く。
「星明かりの羅針盤、夜空の小瓶、欠け月の鍵。どれか二つ、安くする。星屑の砂時計はだめ。危ないから」
「店側が危ないって言うの、相当ですね」
「時間をずらすものは、たまに時間に嫌われる」
「怖すぎる」
星屑の砂時計はやはり今回は保留だ。
欲しいが、今の段階で手を出すには危険すぎる。時間操作系はゲームでも物語でもだいたい面倒なことになる。妖精の国ならなおさらだ。
私は棚を見た。
星明かりの羅針盤。面白い方角を指す。
夜空の小瓶。短時間だけ周囲を夜にする。
欠け月の鍵。閉じたものを一度だけ少しだけ開ける。
全部欲しい。困った。全部欲しいが、選ばなければならない。
いや、コインを使えば三つ全部いける可能性はあるが、ここで全財産を突っ込むのは危険だ。
妖精の国ではまだ先がある。コインは残しておくべきだ。と、理性は言っている。
理性は言っているが、感情が全部欲しいと言っている。
「ラウラリア様」
「はい」
「深呼吸してください」
「そんなに顔に出ていますか」
「はい」
「出てるな」
「カイにまで言われた」
私は小さく息を吐いた。
「星明かりの羅針盤と、夜空の小瓶を買います」
「欠け月の鍵は?」
カイが聞く。私は少しだけ迷い、首を振った。
「鍵は強いですが、今のところ用途が広すぎて逆に危険です。閉じたものを少し開けるという効果は、妖精の国にも使えますが、使った結果何が出るかわからない。今回は見送りましょう」
「堅実だ」
「珍しく」
「珍しくとは何ですか」
「いや、ラウラなら鍵も買うかと思ってた」
「正直、かなり迷っています」
「顔が未練ある」
「あります」
私は素直に認めた。
店主妖精は小さく笑うと、星明かりの羅針盤と夜空の小瓶をカウンターに並べた。
羅針盤は、こちらに選ばれたのが嬉しいのか、中の小さな星がくるくる回っている。夜空の小瓶は静かにしているが、中の夜がほんの少しだけ深くなったように見えた。
「支払い」
「花コイン、嘘コイン、金貨コイン、それとびっくりコインで足りますか?」
「足りる。びっくり多いね」
「カイのおかげです」
「俺の尊厳のおかげでもある」
「高くつきましたね」
「本当にな!」
ぽん。
《びっくりコインを獲得しました》
「支払い中に増えた」
「便利」
「便利って言うな!」
店主妖精は増えた分のびっくりコインまで当然のように受け取った。
妖精の商売は容赦がない。
カイは不服そうだったが、星明かりの羅針盤を見た瞬間、目が輝いていたので、たぶん不満は半分くらい吹き飛んでいる。
《星明かりの羅針盤を獲得しました》
《夜空の小瓶を獲得しました》
羅針盤を手に取ると、中央の小さな星がぴたりと止まり、私ではなくカイの方を指した。
「……カイを指していますね」
「俺が面白い方角ってこと?」
「否定しにくいですね」
「否定してください」
「難しいです」
ルーザも静かに羅針盤を見ていた。
「この羅針盤は、目的地ではなく事象の発生源を指している可能性があります。カイさんを指しているのは、周囲で最も面白い事象を発生させやすいからかと」
「分析されるとつらい!」
ぽん。
「また増えた」
「羅針盤の精度が証明されましたね」
「嫌な証明!」
店主妖精は満足そうに頷いた。
「いい買い物」
「そうですね」
「その羅針盤、気に入った人をたまに困らせる」
「今すでに困っています」
「なら相性いい」
私は購入品を丁寧にインベントリへしまった。
月読のレンズ、星明かりの羅針盤、夜空の小瓶、そして黒い包み。どれも今後の展開に関わりそうな気配がある。
とくに黒い包みは、店主妖精の様子からして単なるおまけではないだろう。使う時は慎重にした方がいい。
というか、まず中身を確認するタイミングから慎重にしないといけない。
「もっと夜、ですか」
私が呟くと、店主妖精は頷いた。
「星が黙るころ」
「その頃に開ければいいのですね」
「うん。開けなくてもいいけど」
「開けますよ」
「知ってる」
店主妖精は眠そうに笑った。
「見る子だから」
私は返答に困り、ただ少しだけ微笑んだ。
見る子。どうやらこの妖精は私をそう認識しているらしい。
観察印の王子よりはだいぶましだ。青いひらひら王子よりもましだ。看板泣かせよりも、たぶんましだ。
店を出ると、笑う木の市場の喧騒が戻ってきた。
けれど、夜の湖を経た後だからか、その賑やかさが少しだけ違って聞こえた。
さっきまではただ騒がしく、面白く、混沌としていた市場が、今はたくさんの小さなルールとひみつと欲望が絡み合っている場所に見える。
月読のレンズを外していても、少しだけ見え方が変わった気がした。
それだけ今日の星採りが濃かったのだろう。
カイは買ったばかりの羅針盤を覗き込み、星が自分を指しているのを見て微妙な顔をしていた。
「これ、ずっと俺を指してるんだけど」
「面白い方角なので」
「俺、方角なの?」
「概念として」
「概念にするな」
ルーザが静かに言った。
「カイさんが持つと、自分自身を指し続ける可能性がありますね」
「自己完結型羅針盤じゃん」
「便利ではありません」
「悲しい」
私は笑いながら羅針盤を受け取り、軽く振ってみた。すると星はくるりと回り、市場の奥ではなく、笑う木の方を指した。
「笑う木ですね」
「次の話を聞け、ということでしょうか」
「たぶん」
「羅針盤がそう言うなら行くか!」
「カイさんは羅針盤を信用しすぎないでください」
「でもラウラも行く気だろ?」
「はい」
「ほら!」
「ラウラリア様も即答しないでください」
ルーザのため息を背に、私たちは笑う木の根元へ向かった。




