第45話 忘れ物の丘
忘れ物の丘に流れる空気は、妖精の国の中でも少しだけ毛色が違っていた。
笑う木の市場のように賑やかすぎるわけでもなく、歌う花の舞踏会のようにこちらを全力で巻き込んでくるわけでもなく、嘘つき看板の迷路のように全方向から言葉で殴ってくるわけでもない。
落ちているものたちは自由に動き、呟き、時々こちらを見ているように感じられる。
だが、その視線は妖精たちのように「遊ぼう」と誘うものではなく、「拾うの?」「拾わないの?」「本当に忘れたままでいいの?」と問いかけてくるような、妙に内側へ刺さるものだった。
そのせいで、私は少しだけ真面目な気分になりかけていたのだが、隣でカイが「昨日のやる気」を懐に入れようとしていたので、即座に現実へ戻された。
「カイ」
「何もしてない」
「今、懐に入れようとしていましたよね」
「入れてない。まだ」
「まだ、ではありません」
「だってさぁ、昨日のやる気だぞ? 昨日ってことはもう持ち主も使い終わってるだろ。つまり余ってる可能性がある」
「やる気を賞味期限切れの食材みたいに扱わないでください」
「でも今日のやる気じゃないし」
「だからといって持ち帰っていい理由にはなりません」
カイはかなり名残惜しそうに、小さな炎を見下ろした。
炎には《昨日のやる気》と書かれていて、時々ぼっと燃え上がる。よく見ると炎の中に小さな拳のような形が浮かんでいる。やる気の概念としてはかなりわかりやすい。
わかりやすいからこそ、カイが欲しがるのも少しわかる。
昨日のやる気を持ち帰れば、明日頑張れるのではないかという発想はおかしいけど。
ルーザは先ほど拾った《落ち着き》の石を手に、相変わらずカイへ渡そうとしていた。青く丸い石は掌に乗る程度の大きさで、表面に淡く《落ち着き》と浮かんでいる。
見るだけで少し心が静かになるような気配があるが、カイが近づくと微妙に後ろへ転がった。
「……今、石が逃げませんでしたか?」
「逃げましたね」
私が言うと、ルーザは静かに頷いた。
「落ち着き側が拒否しているようです」
「俺、落ち着きに拒否されたの!?」
カイが心底ショックを受けたような顔をした瞬間、ぽん、といつもの音が鳴る。
《びっくりコインを獲得しました》
「落ち着きに拒否されてびっくりコインが出る人、かなり珍しいのでは?」
「珍しくても嬉しくない!」
カイは抗議したが、そのびっくりコインをちゃんと拾った。拾うんだ。いや、拾うよね。私もたぶん拾う。そこはプレイヤーである。
ペリカン紳士は舟のそばで静かに私たちの様子を見守っていた。
というより、見守っているという表現が本当に似合う。姿は大きなペリカンなのに、佇まいが老執事か熟練の案内人のそれなのだ。
長いくちばし、白い羽、小さなシルクハット。見た目だけならかなり面白いのに、雰囲気が妙に落ち着いているせいで、だんだん違和感が薄れてくる。
「忘れ物は、拾ってもよいものと、返すべきものと、忘れられたままの方がよいものがございます」
ペリカン紳士は、まるで博物館の案内でもするように穏やかに言った。
「見分け方はあるのですか?」
私が尋ねると、ペリカン紳士は小さく翼を動かした。
「ございますが、簡単ではありません。持ち主に近づけば反応するものもございますし、拾い手を自分で選ぶものもございます。反対に、間違って持ち帰ると、持ち主ではなく拾った方が何かを忘れる場合もございます」
「何かを忘れる」
「はい。たとえば、昼食を食べたかどうか、帰り道、約束の細部、怒っていた理由、あるいは自分がそれを拾った理由など」
「地味に怖いですね」
「忘れ物ですので」
「また便利な言葉が増えた」
私はため息をつきかけて、途中で止めた。
ため息をつくと、近くに漂っていた灰色のため息雲が「仲間?」みたいに寄ってきたからである。危ない。ここではため息すらうかつにつけない。
その時、カイの手元の《昨日のやる気》が、ぼっとひときわ強く燃えた。
「おっ?」
カイが目を丸くする。炎は、丘の少し先にいる小さな妖精へ向かって、ふよふよと引っ張られるように動き始めた。
その妖精は、草の上に寝転がり、半分閉じた目で空を見上げている。
髪は寝癖だらけ、服も少しよれていて、手には小さな枕を抱えている。
見るからに眠そうだ。妖精の国の妖精にも寝癖という概念があるのか。いや、枕が歌う国なのだから、寝癖くらいあるだろう。
「昨日、何かやる気だった気がする……」
寝ぼけた妖精が、ぽつりと呟いた。
「でも、何をやる気だったか忘れた……」
カイが無言で《昨日のやる気》を見た。
炎は明らかにその妖精へ行きたがっている。カイは少しだけ唇を尖らせ、それから非常に名残惜しそうに炎を差し出した。
「……これ、お前の?」
妖精はゆっくりと顔を上げた。炎を見て、ぱちぱちと瞬きする。
「あ、ぼくの昨日のやる気」
「やっぱり」
「返してくれるの?」
「本当は持って帰りたかった」
「正直だねぇ」
「でもラウラとルーザさんが返せって言うから」
「責任をこちらに投げないでください」
私が言うと、カイは目を逸らした。
寝ぼけ妖精は《昨日のやる気》を受け取ると、ぱっと顔を明るくした。炎がその胸元へ吸い込まれていく。
次の瞬間、妖精はがばっと起き上がった。
「思い出した!」
「何を?」
カイが期待半分、不安半分の顔で尋ねる。妖精は胸を張って言った。
「昨日、今日は一日寝るって決めたんだった!」
「返す意味あった!?」
カイが叫んだ瞬間、ぽん、とびっくりコインが出た。
さらに、妖精がとても満足そうに笑ったので、ごきげんコインも一枚転がってきた。
《びっくりコインを獲得しました》
《ごきげんコインを獲得しました》
「……報酬は出ましたね」
「納得いかないけど出たな」
「やる気を正しい持ち主に返したことで、結果的に怠惰が完成したわけですね」
「ルーザさん、言い方」
寝ぼけ妖精はもう一度草の上へ寝転がり、満足げに枕を抱え直した。
「ありがとう。おかげで心置きなく眠れるよー!」
「それはよかったですね」
「うん。お礼に、これあげる」
妖精は枕の下から、小さな白い羽を取り出してカイへ渡した。
《昼寝妖精の羽を獲得しました》
「効果は?」
カイが羽を持ち上げる。ペリカン紳士が静かに説明した。
「持っていると、短い休憩の回復効率が少し上がります。ただし、長く休憩したくなります」
「普通に便利だけど罠がある」
「妖精の国ですので」
カイは羽を見つめ、それから私を見た。
「これ、赤の塔の休憩部屋に置けないかな」
「冒険者が長居してDPが増える可能性がありますね」
「だろ?」
「ただ、長居しすぎて回転率が落ちる可能性もあります」
「経営者の視点だ」
「経営者側なので」
自分で言っていて、やはり少しおかしかった。
妖精の国で昼寝妖精の羽を見ながら赤の塔の回転率を考えるインキュバス貴族とは?
その後も、私たちは忘れ物の丘を少しだけ歩いた。
ルーザは《落ち着き》の石を一度カイへ渡そうとしたが、石が全力で逃げたため諦めた。
代わりに石はルーザの掌に戻ってきたので、どうやらルーザの方を気に入ったらしい。
「落ち着きがルーザさんを選んだ」
「納得しかありませんね」
「俺、落ち着きに振られたんだけど」
「落ち着きが合わなかったのでしょう」
「相性診断みたいに言うな!」
ぽん。
《びっくりコインを獲得しました》
びっくりコインは順調に増えている。数で言えば数十枚はあるんじゃなかろうか。もうカイの財布だけ別の経済圏になっている気がする。びっくり本位制だ。
私は途中で、《使われなかった礼儀作法》と書かれた小さな本を見つけた。
表紙は上品な紺色で、銀の飾りがついている。開く前から、なんとなく背筋が伸びるような気配があった。
「これは少し気になりますね」
「ラウラリア様」
ルーザがすぐに声をかけてきた。
「はい」
「礼儀作法はすでに足りています」
「即答ですね」
「これ以上増えると、場面ごとに処理が複雑化する可能性があります」
「礼儀作法が多すぎて処理が複雑化すること、あるんですか?」
「あります」
「あるんだ」
私はそっと本から手を離した。
礼儀作法は便利だが、増えれば増えるほど面倒になるらしい。
確かに、どの作法をどの場で使うか考えるだけでも大変だ。これ以上ラウラリアの動作が洗練されすぎて、現実側の私が階段を下りるだけで貴族の気配を出し始めたら困る。
もう少しでそうなりそうなのが怖い。
忘れ物の丘を巡っている間、私はずっと、あの透明なコインのことを意識の片隅に置いていた。
見つけていないふりをして、忘れない。
言葉にしない。
視線を向けすぎない。
だが位置を忘れない。
あの川の曲がり角。眠っている地図の近く。ため息の雲が流れる少し手前。
透明であるようでないような、ひみつの気配。
不思議なことに、意識しすぎると逆に薄れていく。
忘れまいと力むほど、記憶の輪郭がぼやけるような感覚がある。
だから私は、無理に覚え込むのではなく、景色の一部として置いておくことにした。見つけていない。だから忘れない。矛盾しているようで、この国ではそれが正しいのだろう。
やがて、ペリカン紳士が小さく帽子を傾けた。
「そろそろ戻られますか?」
「戻れますか?」
「戻りたいと思えば、戻りにくくなります」
「では、どう言えば?」
「お客様らしく」
まただ。妖精の国の住人は、時々こちらに丸投げしてくる。
だが、ここまでの流れで少しだけわかってきた。逆流川は、行き先を言う乗り物ではなく、気持ちの向きと言葉のねじれを読む遊びなのだ。
私は少し考えてから、穏やかに言った。
「戻らなくても構いません。ただ、笑う木に今日の話を聞かせられる場所へ着けると助かります」
ペリカン紳士が満足そうに頷いた。
「よい曖昧さです」
「やはり曖昧さが大事なんですね」
「川は、真っ直ぐなものを曲げたがります。ですが、最初から曲がっているものは、案外そのまま流します」
「ひねくれた川ですね」
「お褒めに預かり光栄です」
「だから褒めたことになるんですか?」
舟へ戻ると、カイが名残惜しそうに忘れ物の丘を振り返った。
「昨日のやる気……」
「返したでしょう」
「でも昼寝妖精の羽はもらえたし」
「良かったですね」
「あと、落ち着きに振られた」
「それは残念でしたね」
「ラウラ、ちょっと笑ってるだろ」
「気のせいです」
舟が再び動き出す。
今度は、川が丘を下るのではなく、丘そのものが遠ざかっていくようだった。
水面は静かで、ペリカン紳士の櫂が一度水を押すたびに、景色が少しずつほどけていく。忘れ物の丘の草、ため息の雲、眠っている地図、昼寝妖精、そして透明なコインのあった場所が、霧に溶けるように薄れていく。
その時、水面の奥に、もう一度だけ透明な光が揺れた。
私は見なかった。見なかったことにした。
すると、視界の端に、通知とは違う、薄い文字が浮かんだ。
《ひみつは、言わないほど近づく》
私は瞬きをした。文字はすぐに消えた。
カイは気づいていないらしい。ルーザは一瞬こちらを見たが、何も言わなかった。ペリカン紳士も何も言わない。
ただ、船首の銀色の鳥だけが、小さく頷いた気がした。
ひみつコインの条件は、単純な発見ではない。
見つけること。言わないこと。忘れないこと。おそらく、そのすべてが関係している。
……面白い。
口には出さない。出したら逃げるかもしれないから。
私はただ、何でもない顔で舟の縁へ視線を落とした。ラウラリアとしての微笑みを薄く乗せ、心の中だけで小さく頷く。
しばらくして霧が晴れると、舟は笑う木の市場の近くへ戻っていた。
戻っていた、というより、いつの間にか市場がこちらへ近づいてきたような感覚だった。
ペリカン紳士は舟を桟橋へ寄せ、優雅に一礼した。
「本日のご利用、ありがとうございました。お客様方は、よい迷い方をされました」
「褒められているのでしょうか」
「はい」
「なら、ありがとうございます」
「なお、水色のお客様は非常によく驚かれました」
「そこも評価対象!?」
「川が喜んでおります」
ちゃぷん、と水が鳴る。
カイは複雑そうな顔をしたが、びっくりコインがまた一枚出たので、最終的に拾った。
市場へ戻ると、笑う木が待っていた。
というより、最初から全部見ていたような顔をしていた。木の顔がにんまり歪み、枝がざわざわと揺れる。
吊られた店や値札たちもこちらを向く。妖精たちが「戻ったー」「迷ってたー?」「水色犬、流されたー?」と騒ぎ始め、カイが「犬じゃない!」と返す。
ぽん、とびっくりコイン。もはや様式美である。
「忘れなかったねぇ」
笑う木が言った。
私は微笑んだ。
「何のことでしょう」
「いいねぇ、そういう顔」
笑う木はますます楽しそうに笑った。枝が大きく揺れ、市場全体がからから鳴る。
「嘘を泣かせ、花を騒がせ、川に迷って、忘れ物を忘れなかった。よい客だ。かなり面倒で、かなり面白い」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「そうするといい。妖精の国では、面白い客は得をする。損もするけどねぇ」
「最後が大事ですね」
「大事さ」
笑う木の枝から、小さな水滴が落ちてきた。水滴は地面に落ちる前に銀色の小瓶へ変わり、私の手元へふわりと届いた。
《逆流川の水滴を獲得しました》
「これは?」
「一度だけ、道順を少しだけずらせる。真っ直ぐな道を斜めにしたり、行き止まりを寄り道にしたり、迷子を少しだけ目的地に近づけたりできるよ」
「かなり有用ですね」
「ただし、ずらした道が必ずよい道とは限らない」
「でしょうね」
行き止まりを寄り道にする。真っ直ぐな道を少しずらす。
侵入者の心理を誘導するには、かなり面白い素材だ。ただし、制御を誤ると事故になる。
これはレアと相談案件だ。看板の孤独対策に続いて、道順のずれ管理まで追加されるのか。レア、ごめん。たぶん仕事が増える。
笑う木は続けた。
「三つの遊びに触れたねぇ。嘘、花、川。これで奥へ進む扉は少し開く」
「少し?」
「少しさ。王に会うには、もっと遊べ。もっと迷え。もっと隠せ」
「隠せ?」
「ひみつを持っている客は、妖精に好かれる」
私は何も言わなかった。
透明なコインの気配を、心の中でそっと思い出す。
見つけていない。忘れていない。言わない。隠す。
妖精の国で、ひみつを持つということがどういう意味を持つのかはまだわからない。だが、それが奥へ進む鍵の一つであることは、ほぼ間違いないだろう。
隣でカイが首を傾げた。
「ひみつかぁ」
「カイさんはすぐ顔に出そうですね」
ルーザが言う。
「そんなことないだろ?」
「あります」
「即答じゃん」
「カイ、今も顔に出ています」
「何が!?」
「ひみつ持てるかなって不安が」
「出てるの!?」
ぽん。
《びっくりコインを獲得しました》
笑う木が大きく笑った。市場の妖精たちも笑った。カイは不満そうにしながらもコインを拾った。ルーザはため息をつき、私は思わず肩を震わせた。
妖精の国二日目、逆流川の初回探索は、こうして一段落した。
得たものは、逆流川の水滴、昼寝妖精の羽、いくつかのコイン、そして言わないひみつ。
まだ妖精王には遠い。
奥への扉も、少ししか開いていない。
けれど、焦る必要はない。イベント期間はまだある。
むしろ、この国では急ぎすぎる方が危ない。遊び、迷い、隠し、忘れずに進む。それがきっと、妖精の国の歩き方なのだ。
私は笑う木の市場を見上げながら、ゆっくり息を吐いた。
面倒だ。本当に面倒だ。
でも、こんなに面倒で楽しい場所を、急いで通り過ぎるのはもったいない。
少なくとも、今のところ退屈だけはしていなかった。




